大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 3

観心本尊抄』解説および現代語訳 3

 

問う:出典はわかったが、修行である観心についてはどうか。

答える:観心とは、自分の心を観察して十法界を見ることである。これを観心という。たとえば、他人の目耳鼻舌身意の六根(ろっこん)を見るとしても、まだ自分自身の六根を見なければ、自分がどのような六根を持っているかわからない。しかし鏡に向う時始めて自分の六根を見ることができるようなものである。たとえ、あらゆる経典の中のあちこちに、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)と悟った世界である四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)が記されているとしても、『法華経』ならびに天台大師が講述した『摩訶止観』などの鏡を見なければ、自分自身がどのような十界・百界千如・一念三千を備えているのかがわからないのである。

問う:『法華経』における観心について文はどれか。またその天台大師の解釈はどのようなものか。

答える:『法華経』の「方便品」に「衆生に仏の知見を開かせようとする」とある。これは仏界以外の世界にも仏界が備わっていることを表わしている。また「寿量品」に「このように私が仏となってから非常に長い歳月がたっている。その寿命は数えきれないほどの長さであり、常に存在して滅びることがない。よき男子たちよ。私が仏になる前の菩薩の道を行じて成就した寿命は未だ尽きていない。先に数えきれないほどの歳月と言ったが更にその数の倍以上ある」とある。この経文は仏界に仏界以外の世界が備わっていることを表わしている。また「提婆逹多(だいばだった)は天王如来となる」とあるが、提婆逹多は地獄に堕ちるはずの人間の代表的人物であるので、これは地獄界に備わっている仏界を表わしている。また経に「羅刹女の一人は藍婆(らんば)であり、彼らのように法華の名を護持する者の福徳は測ることができないほど大きい」とある。これは餓鬼界に十界が備わっていることを表わしている。また「竜女は最高の悟りを得る」とある。これは畜生界に十界が備わっていることを表わしている。また、「婆稚阿修羅王法華経の一偈一句を聞いて最高の悟りを得るであろう」とある。これは修羅界に十界が備わっていることを表わしている。また「人は仏のためにみな仏の道を成就する」とある。これは人界に十界が備わっていることを表わしている。また「大梵天王や私たちもこのように必ず仏になるだろう」とある。これは、天界に十界が備わっていることを表わしている。また「舎利弗は華光如来となるであろう」とある。これは声聞界に十界が備わっていることを表わしている。また「この縁覚を求める者や比丘や比丘尼たちは、合掌し敬う心をもって悟りを開く道を聞こうと願っている」とある。これは縁覚界に「十界」が備わっていることを表わしている。また「地涌の菩薩たちは真の清らかな大いなる教えを広めようと願う」とある。これは菩薩界に十界が備わっていることを表わしている。また「あるいは私自身の身をもって説き、また他の身となって説く」とある。これは仏界に十界が備わっていることを表わしている。

問う:自分や他人の六根は見ることができるが、これらの十界は互いに見ることはできない。どうしてこのことを信じることができようか。

答える:『法華経』の「法師品」に「信じがたく理解しがたい」とある。また「見宝塔品」に「六難九易」とある。天台大師は「迹門と本門で説かれている教えは、法華経以前の教えとは大きく異なっているので信じがたく理解しがたい」と述べている。章安灌頂は「仏はこの教えを大いなることだとした。どうしてこれが理解しやすいことがあろうか」と述べている。伝教大師最澄は「この法華経は最も信じがたく理解しがたい。仏が聴衆の能力の程度を考慮に入れずに説いた教えであるからである」と述べている。そもそも、仏がいた当時の弟子たちは、過去世からの因縁が濃厚であったため、教主である釈迦仏と、多宝仏と十方にいる釈迦仏の分身の諸仏と地涌の菩薩たち、文殊菩薩弥勒菩薩たちが助けて教えを明らかにしようとしたが、それでも信じない者たちがいて、教えが始まる前に五千人が席を去り、人や天も移された。まして仏が世にいなくなった正法(しょうぼう)や像法(ぞうぼう)はどうであろうか。さらに末法(まっぽう)の初めである今はいかばかりであろうか。あなたが信じられないと言うことは、今は正法でないからである。

(注:正法・像法・末法は仏教の終末論である。正法は仏の死後、五百年あるいは千年間の期間とされ、仏の教えが正しく伝えられて修行すれば悟りが得られる時代とする。像法は正法の後の千年間であり、形式的に教えや修行が行なわれるだけで、悟りが得られない時代とする。末法は、教えだけがかろうじて残る期間とされ、一万年の間とする。日本では永承七年(1052年)に末法になったとする)。

問う:経文ならびに天台大師や章安灌頂などの解釈は理解できた。ただし、いくら仏の説いたことだとしても、火を水だと言い、墨は白いと言うようなことは信じられない。今、他の人に十界を見ようとしても、ただ人界に限られたことで、他の世界は見えない。自らのことも同じである。どうやって信心を起こすことができるだろうか。

答える:他の人を見ると、ある時は喜び、ある時は怒り、ある時は平静であり、ある時は貪り、ある時は愚かであり、ある時は人にへつらう。怒りは地獄界、貧りは餓鬼界、愚かさは畜生界、へつらうことは修羅界、喜ぶことは天界、平静であることは人界である。他の人の様子においては六道があり、悟りの次元に入った四聖は、伏せられ表われないけれども、詳しく見れば、これらも備わっているのである。

問う:六道がこのようにはっきり認識できるとはいかないまでも、このように聞けばそれもそうだと思う。しかし、四聖は全く見えないのはどうなのか。

答える:あなたはまず人界に六道が備わっていることを疑ったので、それも仕方ないと思って強いて具体的な例をあげたのだが、四聖についてもそのようにすべきなのだろうか。試みに道理を添えてその一部を述べてみよう。いわゆる世間が無常であるということは目の前の事実である。声聞と縁覚の二乗はこの無常を悟るわけであるから、まさに声聞界と縁覚界は人界にないと言えないのである。さらに、人を人とも思わない悪人も自分の妻子は慈愛するものである。それこそ菩薩界の一分である。ただし、確かに仏界は現実に表われることは難しい。ここまで仏界以外の九界が互いに備え合うことがわかったなら、これも信じて疑ってはならない。『法華経』の文に、人界について「衆生に仏の知見を開かせることを願う」とある。また『涅槃経』に「大乗を学ぶ者は肉眼を持ったままで、その肉眼を仏眼ということができる」とある。この悪しき末法の世に生まれてもなお『法華経』を信じる人は、まさに人界に仏界を備えているからなのである。

問う:「十界互具(じゅっかいごぐ・十界が互いに備え合っているということ。これも天台教学において重要な用語の一つ)」の仏の言葉はよくわかった。しかし、そうは言っても、私たちの劣った心に仏法界が備わっているというようなことは、とても信じることはできないのである。今、このことを信じなければ、成仏できない一闡提(いっせんだい)となってしまうであろう。願はくは大慈悲を起こしてこのことを信じさせ、私が阿鼻地獄の苦しみを受けないよう救ってほしい。

答える:あなたはすでに一大事因縁(いちだいじいんねん・仏が『法華経』を説くということは、これ以上ない大きな因縁によるものだという『法華経』の言葉)の経文を見聞きして、なおかつこれを信じないならば、釈迦仏はもとより、仏と同等の悟りを持つ菩薩にはじまって、見た目は差し置いて真理の面においては仏の道にある末の世の私たちが、どうしてあなたの不信を救護することができるだろうか。しかし、試みに説いてみよう。仏に付き従っても、最後まで悟ることができなかった阿難(あなん・釈迦のいとこにあたり、弟子の中でも釈迦の付き人の働きをしていた)でさえ、釈迦の入滅の後に悟ったわけであるから、あなたにもその可能性もあるだろう。

(つづく)