大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 5

観心本尊抄』解説および現代語訳 5

 

問う:龍樹や天親などについてはどうか。

答える:これらの聖人は、知っていても説かなかった人たちである。あるいは、迹門の一部分だけを述べて、本門と観心は語らず、あるいは、語る相手はいても、時至っていなかったので語らなかったのか、あるいは、相手もおらず時も至っていなかったとも考えられる。天台大師と伝教大師以降は、これを知る者が多いのは、この二人の聖人の残した智慧を用いたからである。いわゆる三論宗の嘉祥大師をはじめ、南の三宗北の七宗の百人あまり、華厳宗の法蔵や清涼大師など、さらに法相宗玄奘三蔵や慈恩大師など、真言宗の善無畏三蔵や金剛智三蔵や不空三蔵など、律宗道宣などは、初めは批判したけれども、後はすべて受け入れた。

ただし、批判に対する反論を述べるならば、『無量義経』に次のようになる。「たとえば、国王とその夫人との間に王子が生まれたとする。その王子は一日、二日、七日に至り、一か月、二か月、七か月に至り、一歳、二歳、七歳に至り、まだ国事を執り行なうことはできないといっても、すでに臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を友とする。王と夫人の愛心は大変重く常に与え共に語る。これはなぜであろうか。それは、ただこの子が幼いということではないことと同じく、この経典を保つ良き男子も同様である。国王のような諸仏と、その夫人のような経典が和合して、この菩薩の子が生まれた。もしこの菩薩がこの経典を聞くことができ、一句もしくは一偈、もしくは一転もしくは二転、もしくは十もしくは百、もしくは千もしくは万、もしくは大河の砂の数を億万倍するほどの無量無数回読めば、まだ真理の極みを体得することができないとしても、すでにすべての僧侶や尼僧や在家信者や天龍八部衆に尊ばれ仰がれ、多くの大菩薩を友とする。さらに常に諸仏に護念せられ慈愛に覆われるであろう。これは新学であるためである」。また『観普賢菩薩行法経』に「この大乗経典は諸仏の宝蔵であり、十方三世の諸仏の眼目であり、さらに三世の多くの如来を出生する種である。あなたは大乗を行じて仏種を断つようなことがないようにせよ」とある。また「この方等経(=大乗経典)は諸仏の眼であり、諸仏はこれによって肉眼(にくげん)、天眼(てんげん)、慧眼(えげん)、法眼(ほうげん)、仏眼(ぶつげん)の五眼を備えることができる。仏の応身、報身、法身の三種は方等(=大乗)より生じる。これは大いなる教えの表われであり、涅槃の海に表われる。このような海の中に三種の仏の清浄の身が生じる。この三種の身は人天の福の本である」とある。釈迦仏の一代の教え、顕教密教(注:仏教はこの二つに分かれる)、大乗と小乗の二教、華厳宗真言宗などの諸宗の所依の経典など、それらについてよく考察すれば、蓮華蔵世界の蓮華座の毘盧遮那仏、雲のように集まる多くの諸仏如来、『般若経』には染浄の千仏が現われたとあり、『大日経』や『金剛頂経』に記されている千二百尊などは、ただ近い因果を説いているだけで、永遠の過去の因果は説いておらず、速やかな悟りの成就は説いても、気の遠くなるほどの過去からの仏の教化については失われており、過去からの因縁でこの世における仏と弟子の関係があることについても、削られたように見えない。『華厳経』や『大日経』などは、一応これを見れば、天台教学における四教の分類における程度の高い経典に当たるようにも思えるが、よくその内容を検討すれば、最も程度の低い「蔵教」や、その次の「通教」の二教程度で、その次の「別教」や「円教」には及ばない。なぜなら、根本的な三因仏性(さんいんぶっしょう・説明は前出)もないので、どうして仏となる可能性である種子(しゅじ=仏性)を定めることができるだろうか。しかし、玄奘三蔵がインドから新たな経典類を持って中国に帰って来て以来、天台教学の一念三千の法門を見聞して、自らの所持の経典に添加し、それらはインドから自分が持って来たもののようにした。それにもかかわらず、天台宗の学者などは、彼らの教えが自分の宗派の教えに同じであることを喜び、インドからもたらされた教えばかりを尊んで、中国で起こった教学を軽んじ、昔から受け継がれてきた教えを捨てて、新たにもたらされた教えを取り、まるで魔のような心、愚かな心となってしまった。しかし、これらの教えも、天台教学の根本である一念三千が教える仏性とは異なっているので、すべての成仏、木画二像の本尊は有名無実となってしまっている。

(注:ここで日蓮上人は具体的な事例を挙げていないので、この主張が何を指しているのか、明確ではないが、玄奘のことを中心に述べていることと、「『華厳経』も別教や円教に及ばない」と述べているところから、後に天台宗の中でも「山家山外論争(さんげさんがいろんそう)」と呼ばれる宋の時代の知礼と源清の弟子慶昭を中心とした論争の本となった「心(心性)がすべてのもとであり、そこからすべてが生じる」とする教理について、批判的に述べているのではないかと思われる。正統な天台教学においては、ひとつの「心性(しんしょう)」のようなものは認めず、まさに「一念三千」「十界互具」などの教理に表わされているように、「互いに備え合っている」という「互具思想」である。しかし、玄奘がインドから持ち帰った典籍などにより、特に玄奘の弟子の基(き)によって実質的に成立した唯識派法相宗や、『華厳経』による華厳教学は、まさに「心がすべての実在を作り出す」という思想であり、宋の時代以後、中国で盛んとなった禅宗も、そのような考え方が強い。天台宗の中でも、天台教学を二分するような論争が生じるほど、この「唯心(ゆいしん)思想」あるいは「性起(しょうき)思想」と、すべてが備わっているとする天台教学(「性具(しょうぐ)思想」とも呼ばれる)は、表面的には微妙でありかつ決定的な違いを有する二つの思想である。「心性」のようなものを認めると、当然、観心の考え方も違ってきてしまい、すべてが一念の中に備えられているということを観心の対象とする「一念三千」ではなく、この「心性」を観心の対象とするようになる。日蓮上人は最初から、特に『立正安国論』以降、引き続き、正統な天台教学を維持し続けていることがここからもわかる)。

(つづく)