大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 6

観心本尊抄』解説および現代語訳 6

 

問う:まだ先にあげた論難について理解ができないが、どうなのか。

答える:『無量義経』に「まだ六波羅蜜(ろくはらみつ・大乗の修行者が行なう六つの修行項目)が成就されていなくても、六波羅蜜自体は自然と存在する」とある。『法華経』に「具足(ぐぞく・備わっているものがじゅうぶん満ち足りているという意味の言葉・これも天台教学において重要な用語)の道を聞こうと願う」とある。『涅槃経』に「菩薩の薩とは具足という意味である」とある。龍樹菩薩は「薩とは六の意味である」と言っている。『無依無得大乗四論玄義記』に「沙とは訳して六という。インドでは、六という数を具足の意味とする」とある。吉蔵の疏に「沙とは訳して具足とする」と記している。天台大師は「薩とは古代インド語である。これを妙と翻訳する」と言っている。これについて、私的に解釈を加えると、かえって本文を汚してしまう。

しかし、あえて言うならば、釈迦仏の修行とそれによって得られた悟りの功徳は、「妙法蓮華経」の五字に具足する。私たちはこの五字を受け保てば、自然に釈迦仏の因果の功徳を譲り与えられるのである。

(注:この箇所は、非常に有名な箇所であるが、日蓮上人が「妙法蓮華経の五字」にすべての功徳が具足するということは、『立正安国論』の前から述べていたことである。たとえば、『一念三千法門』の中にも、「さては経を読まずとも、心地の観念計りにて成仏すべきかと思ひたれば、一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まれり。妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納めて候ひけり。天台の所釈に『此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵、三世の如来の証得したまふ所なり』と釈したり。さて此の妙法蓮華経を唱ふる時、心中の本覚の仏顕はる」と述べている。私がこの『観心本尊抄』で知りたいことは、この一念三千、一心三観の止観の境地が、この「妙法蓮華経の五字」に置き換えられるという積極的な証文である。しかし、それはないようである。この後は、目に見えるいわゆる大曼荼羅の書き方が説かれる内容に移ってしまう。止観という、とても日蓮上人当時はもちろん、現在では絶対に実行不可能な修行が、どうして、「妙法蓮華経の五字」に置き換わるのか。「妙法蓮華経の五字という一念三千の法門」などと、言葉ばかりで表現するのではなく、一念三千という止観の境地を表わす言葉を乱用するのではなく、修行しなくても、「妙法蓮華経の五字」で悟りに到達できる、という証拠を出してほしい。天台大師が、妙法蓮華経は諸仏の証得したところだ、というのは極当然のことで、それだからこそ、天台大師は『法華経』を中心に講義を構築しているわけであり、それは、ただ題目を唱えれば、それらがすべて得られる、という意味であるはずがない。その諸仏の証得した悟りを得ようとするならば、必ず止観修行が必要だと説かれていることは、天台大師の講述を見る者なら誰でもわかることである)。

法華経』に記されているところの、四人の代表的な声聞たちの理解の告白に「無上の多くの宝は求めないにもかかわらず、自ら得られた」とある。まさにこれは、私たちの心の中にある声聞界である。さらに「すべての衆生を教化して、すべて仏の道に入らせようとする昔立てた誓願は、今まさに少しも異なることなく、すべて満足された」とある。妙なる悟りを得た釈迦仏は、私たちの血肉である。その修行と悟りの功徳は、私たちの骨髄でないわけがない。『法華経』の「見宝塔品」に「この『法華経』の教えを与えられた者は、私(釈迦仏)と多宝如来を供養することになる。さらに、この場に集まった釈迦仏の分身である諸仏の多くの世界を荘厳し、光によって飾る者(注:その仏の国土にあるすべてを指す)を供養することになる」とある。釈迦仏や多宝仏や十方の諸仏は、私の中の仏界である。その仏界の導きによってその功徳を受け取るのである。「少しでもこの『法華経』を聞くならば、最高の悟りを究めることができる」とあるのはこのことである。「寿量品」には「私(釈迦仏)が仏となってから、無量無辺百千万億那由佗劫(むりょうむへんひゃくせんまんのくなゆたごう・とても数えることもできず、想像すらできないほどの無量の歳月という意味)である」とある。私たちの心の中の釈迦仏は、五百億塵点劫(ごひゃくおくじんてんごう・これも無量の歳月という意味)の応身仏、報身仏、法身仏の三身であり、無始の古仏である。『法華経』に「私(釈迦仏)がもと、菩薩の道を行じて成就した寿命は未だに尽きていない。先にあげた無量の歳月のさらに倍以上である」とある。これは私たちの心の中の菩薩界などである。これも『法華経』にある地涌の千界の菩薩は、私たちの心の中の釈迦仏の眷属である。たとえば、中国の太公は周の武王の臣下、周公旦(しゅうこうたん)は幼いころの成王の眷属であり、武内宿禰(たけしうちのすくね)は神功皇后の棟梁であり、同時に仁徳王子の臣下であるようなものである。上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩地涌の菩薩を代表する四人の菩薩)たちは、私たちの心の中の菩薩である。妙楽大師(=荊渓湛然)は「まさに知るべきである。身と国土は一念に備わっている三千である。このために、仏が悟りを開いた時、この真理によって一身一念が法界に遍満した」と言っている。

釈迦仏が最初、寂滅道場で悟りを開いて仏となり、『華厳経』を説いた華蔵世界より沙羅双樹の林で亡くなるまでの五十余年の間、華蔵世界、密厳世界、そして『法華経』の三変の世界、『涅槃経』の四見の世界などの、さまざまに現わされた国土である三土四土は、みな四劫のひとつである成劫(じょうこう・四劫は、仏教の世界観における形成から滅亡までの増、減、成、壊の四つ(異説あり)の段階を指す。成劫は、世界が形作られていく段階の時代という意味)の上の無常の国土に変化するところの、方便、実報、寂光、安養、浄瑠璃、密厳と、さまざまに名付けられた仏の国土である。変わりゆくこの世における仏である教主の釈迦仏が涅槃に入れば、同じく変わりゆく諸仏も従って滅尽する。もちろん、その仏の国土も同じである。

以上は『法華経』の迹門で説かれる真理であるが、本門に至って、永遠の仏である久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦仏が説かれた。その今こそ、この娑婆世界は、水災、風災、火災の破滅的な三災を離れ四劫とは関係のない次元の常住の浄土と言える。真実の仏は、過去にも滅せず未来にも生ぜず、永遠に変わらない教化の主である。これこそ、自分の心に三千が具足していることであり、三種世間(さんしゅせけん・説明前出)である。『法華経』の迹門の十四品にはまだこれを説いておらず、それは、『法華経』の中においても、時が至っていなかったからだと考えられる。

この本門の肝要の中心である「南無妙法蓮華経」の五字においては、仏は文殊菩薩や薬王菩薩のような大菩薩にさえ、これを委ねなかった。ましてや、その他の者たちに委ねるわけがない。ただ、地涌の千界の菩薩を召して、本門の八品を説いてこれを委ねた。

(注:「地涌の千界の菩薩」とは一般的に「地涌の菩薩(じゆのぼさつ)」と呼ばれる『法華経』の「従地涌出品」で登場する数多くの菩薩であり、地面の下から湧き出して来た。この菩薩たちについては、これ以降の箇所で繰り返し語られることになる)。

この本尊の姿は次の通りである。本師である久遠実成の釈迦仏のいる娑婆世界の上に多宝塔が空中にあり、その塔の中の『妙法蓮華経』の左右に釈迦仏牟尼仏と多宝仏がおり、釈迦仏の脇士として上行菩薩などの地涌の四大菩薩、そして文殊菩薩弥勒菩薩などは、四大菩薩の眷属として末座におり、仮の教えによって教化された他方の大小の諸菩薩は、まるで万民が大地に座って雲閣月卿を仰ぎ見るようにおり、十方の諸仏は大地の上にいる。なぜなら、その諸仏は仮の仏であり仮の仏国土を表わしているからである。このような本尊は、釈迦仏の在世五十余年には説かれず、最後の八年の間の、さらに『法華経』の八品に限る。正法像法の合わせて二千年の間は、小乗の釈迦仏は迦葉と阿難を脇士とし、権大乗ならびに『涅槃経』と『法華経』の迹門における釈迦仏は文殊菩薩普賢菩薩をもって脇士としている。今までは、これらの仏を仏像として作り、仏画に描かれてきたが、まだ永遠の寿命を持つ本門の久遠実成の釈迦仏の仏はなかった。末法に入ったからこそ、この仏が出現したのである。

 

(つづく)