大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 7

観心本尊抄』解説および現代語訳 7

 

問う。正法像法の二千余年の間は、四依の菩薩(しえのぼさつ・『涅槃経』に記されている仏のいない世で拠り所となる四種類の人物像)ならびに人師などは、他の仏たち、小乗、権大乗、『法華経』以前や『法華経』の迹門の釈迦仏などのために寺塔を建立しているが、本門の「寿量品」で説かれる久遠実成の釈迦の本尊ならびに四大菩薩は、インド、中国、日本のどの王も大臣も共にこれを敬わないことはすでに聞いた。しかしこのようなことは前代未聞のことであり、大変驚き心が迷うばかりである。このことについて、さらに詳しく述べてほしい。

(注:ここから、『法華経』の構成について、長い記述をもって、天台大師の教えに基づいた説明が始まる)。

答える:『法華経』の一部八卷二十八品は、天台大師の説いた五味の教え(ごみのおしえ・釈迦一代の教えとされるすべての経典を、乳製品の熟成過程にたとえて五段階に分けた分類方法。乳味(にゅうみ)、酪味(らくみ)、生蘇味(しょうそみ)、熟蘇味(じゅくそみ)、醍醐味(だいごみ)の五つ。醍醐味はすでに日本語になっている。『涅槃経』に基づく分類方法)によれば、前の四味の教えから始まり、『法華経』の後に説かれた『涅槃経』までの一代の諸経を総括するのである(注:『法華経』の特徴を一言で言うならば、ここで日蓮上人が述べている通り、すべての経典を「総括」する働きである)。

最初の『華厳経』が説かれた寂滅道場より『般若経』に至るまでは序分であり、『無量義経』、『法華経』、『観普賢菩薩行法経』の十巻(『無量義経』一巻、『法華経』八巻、『観普賢菩薩行法経』一巻の合わせて十巻)は正宗分(しょうしゅうぶん・中心の箇所という意味)である(『無量義経』は『法華経』の開経(『法華経』の前座のような経典)、『観普賢菩薩行法経』は『法華経』の結経(締めくくりの経典)とされる)。釈迦入滅の直前に説かれた『涅槃経』は流通分(るつうぶん・応用編のような役割)である。

(注:以上は、すべての経典を『法華経』を中心として、序分、正宗分、流通分の三つに分けた見方による。これ以降、まず正宗十巻を三つに分ける見方、迹門を三つに分ける見方、本門を三つに分ける見方について述べられる)。

正宗十巻の中においても、また序分と正宗分と流通文がある。『無量義経』と『法華経』の「序品」は序分である。『法華経』の「方便品」より「分別功徳品」の十九行の偈に至るまでの十五品半は正宗分である。「分別功徳品」の四信を述べる箇所から『観普賢菩薩行法経』に至るまでの十一品半と一巻は流通分である。

また『法華経』の十巻においても迹門と本門の二つに分けられる。またその二つに各々、序分・正宗分・流通分がある。

まず迹門を見ると、『無量義経』と『法華経』の「序品」は序分であり、「方便品」より「授学無学人記品」に至るまでの八品は正宗分であり、「法師品」より「安楽行品」に至るまでの五品は流通分である。この迹門の教主について述べれば、この世ではじめて悟りを開いた仏であり、理論的には、最初がなく現在も実在する百界千如について説いた。それは過去現在を超越する仏自らの悟りの告白であり、信じがたく理解しがたい正しい教えである。その教えを受ける者たちの過去に仏と結ばれた結縁(けちえん)について述べれば、釈迦仏が大通智勝如来の子である十六王子だった時、仏の道に入り悟りに向かうという仏種を下され、さらにこの世においては、『華厳経』などの『法華経』以前の四味の教えをもって補助的な縁として、大通智勝如来の時に下された仏種を覚知させたのである。しかし、ここまでの悟りで満足してしまうことは、もちろん仏の本意ではない。ここで満足することは、かえって体の中に潜んでいた毒が表に出るようなことの一分としなければならない。声聞と縁覚の二乗や凡夫などは、前の四味の教えを縁として、次第に『法華経』の教えに到達して仏の種子を表わし、真実の悟りを開き表わす者たちである。また、この世においてはじめて正宗の八品を聞く人天などは、『法華経』の一句一偈を聞くことを仏の種が下されたこととし、ある者は熟し、ある者は悟りに至り、ある者は『普賢経』や『涅槃経』に至り、ある者は正法・像法・末法などにおいて小乗や権経を縁として、結局は『法華経』に至るのである。たとえば、それはこの世において『法華経』以前の四味の教えを受けている者のようである。

また、『法華経』の本門の十四品にも序分・正宗分・流通分の三つがある。「従地涌出品」の半品を序分とし、「如来寿量品」と前後の二品の半分を正宗とする。その他は流通分である。この本門の教主について述べれば、この世ではじめて悟りを開いた仏ではないのである。その説かれる法門も他とは天地の違いである。十界は永遠であるうえに、その国土世間も表わされ、それは一念三千の教えとほとんど竹の中の膜ほどの違いしかない。また迹門と前の四味の教え、そして『無量義経』や『涅槃経』などの過去・現在・未来に説かれるべき三つの教えは、すべて聞く者の能力を考慮に入れたものであり、理解しやすいが、本門はこれらの教えと違って、信じがたく理解しがたい仏の悟り自らの告白なのである。

以上は、『法華経』の中での本門の序分・正宗分・流通分の分科であるが、さらに霊的次元における本門の教えの位置から見た序分・正宗分・流通分がある。過去の大通智勝如来が説いていた『法華経』からはじまり、現在の『華厳経』から、『法華経』の迹門十四品、さらに『涅槃経』の一代五十余年の諸経、さらには十方三世諸仏の微塵の数ほど多くの各経典は、すべて本門の「如来寿量品」から見た序分となる。この正宗である「如来寿量品」と前後の二品の半分以外は、小乗教、邪教、末得道教、覆相教(真理の姿が覆われた教えという意味)と名づける。これらの教えを受ける者について述べれば、徳が薄く煩悩が重く、幼稚であり、貧窮、孤露であり、禽獣に等しい。『法華経』以前の経典、さらに『法華経』の迹門の円教(四教の分類の中で、最も優れた円満な教え。ただし、天台大師の説によるならば、円教に、迹門の円教も本門の円教もない。円教はそれらを超越しているから円教なのである。これも日蓮上人独特の説である)すらなお、仏因ではない。ましてや『大日経』などの諸小乗経はなおさらである。さらに華厳・真言などの代表的七宗等の論師・人師の教えはなおさらである。あえて述べるならば、これらは円教の前の「別教」「通教」「蔵教」の三教の範囲内である。さらに言えば、「蔵教」「通教」と同じである。たとえ、その教えは大変深いと言われていても、いつ仏の種が下されたか、いつそれが熟すか、いつそれが悟りに至るか述べられていない。かえって、ただ煩悩を立って灰のようになってしまうことを教えるのみである。教化される者の最初から最後までも述べられていない。たとえば、王女だとしても畜生の種を懐妊すれば、その子は最下級の民にも劣るようなものである。このことはこれ以上ここでは述べない。

迹門の十四品の中の、正宗の八品は、声聞と縁覚の二乗を中心とし、菩薩や一般人は傍らの存在である。さらに考察すれば、一般人における正法、像法、末法を中心としている。正法、像法、末法の三時の中にも末法の始めの現在をもって中心の中心としている。

問う:そのようなことの証拠は何か。

答える:『法華経』の「法師品」に「しかもこの『法華経』は如来の現在すら反対する者が多い。ましてや、仏の亡き後は言うまでもない」とある。また「見宝塔品」に「仏の教えが長く留まるようにする。ここに集まった釈迦如来の分身の諸仏もこの意味を知るべきである」とある。また「勧持品」「安楽行品」などを見るべきである。迹門ですらこのように、それ以降の世について述べられているのである。

本門をもってこのことについて述べれば、末法の初めの現在をその中心としている。一応、表面的に見るならば、過去の仏の結縁をもって仏の種を下されたこととし、大通智勝如来から『法華経』以前の四味の教え、さらに『法華経』の迹門をその種が熟したこととして、本門に至って仏と同等の妙なる悟りに入らせている。しかしさらにこれを見るならば、迹門とは全く異なって、本門の序分、正宗分、流通分はみな共に、今現在である末法の始めをもって中心としている。釈迦仏在世中の本門と末法の初めの本門は、同じく純粋に円満な教えである。ただし、釈迦仏在世中は究極的悟りであり、現在は仏の種である。釈迦仏在世中は本門の一品二半であり、現在は「南無妙法蓮華経」の題目の五字である。

問う:その証拠は何か。

答える:「従地涌出品」に「その時に、他の方角の仏国土から来た、大河の砂の数を八倍したほど多くの数の大いなる菩薩たちは、大衆の中において起立し、合掌し、礼拝して仏に次のように言った。『世尊よ。私たちが仏の滅度の後に、この娑婆世界にあって、努め精進し、この経典を守り保ち、読誦し、書写し、供養することをお許しいただけましたら、この国土において、広くこの教えを述べ伝えます。』その時に仏は、多くの菩薩たちに次のように語られた。『良き男子たちよ。やめなさい。あなたたちがこの経を守り保つ必要はない』」とある。しかし、「法師品」より以降の五品の経文は、すべて水と火のようにこれと相容れない内容である。すなわち、「見宝塔品」の最後に「(釈迦牟尼仏は)大きな声で次のように語られた。『誰がこの娑婆国土において、広く妙法蓮華経を説くだろうか』」とある。たとえ、教主の仏がひとりであっても、このように奨励したならば、薬王菩薩などの大菩薩や梵天帝釈天、日月天子、四天王などはこの言葉を重んじるであろうし、さらに多宝仏や十方の諸仏は、娑婆世界に客仏となって来てまでこのことを奨励しているのである。諸の菩薩はこの度重なる奨励を聞いて、「自分の命さえ惜しまず」という誓願を立てた。これらは仏の意志にかなうためである。ところが、この後、すぐに仏の言葉は変わってしまい、大河の砂の数を八倍したような数多くの菩薩たちの娑婆世界における布教を制止したのである。このような矛盾するようなことは、一般人の智慧では及ばない。

天台智者大師は、この矛盾するような記述について、前三後三の六釈を作ってこれを説明している。つまり、迹門によって教化された者や、他方の大菩薩たちには、釈迦仏の内証の「如来寿量品」を授与することはできないということである。末法の初めは仏法を誹謗する国であり、人々の能力も劣っているのでこれを止め、地涌の千界の大菩薩たちを召して「如来寿量品」の肝心である妙法蓮華経の五字をこの世の衆生に授与させたのである。また迹門によって教化された大衆は、久遠実成の釈迦の最初からの弟子たちではないからである。天台大師は「仏の弟子であるので、仏の教えを広めさせた」と言い、妙楽大師は「子が父の教えを広めてこそ、世界の利益となる」と言っている。また『法華文句輔正記(ほっけもんぐふしょうき)』には、「教えは永遠の昔から変わらない教えであるので、永遠の昔からの者に託すのだ」とある。

また、弥勒菩薩は疑いを晴らそうと、次のように『法華経』にある。「私たちは、仏の適切な教えや仏の口から出た言葉は、すべて虚妄ではなく、仏の教えはすべてに通達していると信じていますが、しかし、初めて悟りを求める心を起こした菩薩などは、仏の滅後にもしこのような言葉を聞けば、あるいは信じ受けることをせず、教えを破る罪業の因縁を起こしてしまうかもしれません。ただ願わくは世尊よ、そのために説き明かして、私たちの疑いを除いて下さい。さらに未来世の多くの良き男子はそれを聞けば、疑いを生じさせることはないでしょう」。この文の意味は、「如来寿量品」の法門は、仏の滅後のために説かれているということである。

如来寿量品」に「あるいは本心を失い、あるいは本心を失っていない者がいた。失っていない者は、その良薬の色香り共に良いのを見て、すぐにそれを服用したので、病はすべて除かれ癒された」とある。これは、久遠の昔に仏の種が下され、大通智勝如来の時の結縁から『法華経』の前の四味の教え、さらに迹門のすべての菩薩、声聞と縁覚の二乗、人天などが、本門において悟りを得ることを指すのである。またそこには、「他の本心を失ってしまった者たちは、その父が帰って来たことを見て喜び、病を治してほしいと求めはしたものの、その薬が与えられても、あえて飲もうとはしなかった。なぜなら、毒気が深く入ってしまい、本心を失っていたために、色も香りも味も良い薬にもかかわらず、良い薬とは思わなかったのである。これを見た父は、次のように思った。『この子たちは憐れむべき者たちだ。毒によって心が混乱してしまっている。私を見て、喜んで治療されることを求めても、この良い薬を飲もうとはしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませるべきである。』そして次のように言った。『あなたたちはまさに知るべきである。私は今老衰によって死の時が近づいている。この良い薬をここに置いておく。あなたたちは取って飲みなさい。治らないと心配することはない。』このように教えて、他の国に行き、そこから使いを送って、『あなたたちの父は死んだ』と伝えさせた」とある。また「分別功徳品」には「悪世末法の時」とある。

(つづく)