大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  81

『法華玄義』現代語訳  81

 

b.項目が少ない行から多い行へと述べる

次に、四教それぞれの行において、項目の数が少ないものから多いものへと順を追って述べる(注:一つずつ項目を増す、ということは、単に頭の中で整理しやすくするためであり、どれが優れているか劣っているかという意味はない)。

◎三蔵教の行について

まず、三蔵教において、項目の数が少ないものから多いものへと順を追って述べる。それは『阿含経』の中に記されている通りである。

最初に、一項目のみの行について述べれば、仏は僧侶たちに次のように語った。「まさにたった一つの行を修するべきである。そうすれば、私はあなたがたが四沙門果(ししゃもんか・四果ともいう。四つの修行者の悟り。後に詳しく述べられる)の悟りを得ることを証明するであろう。それは心不放逸(しんふほういつ)である。まさに心をよく守って行をやめるという放逸に陥らないことであり、それを広演広布(こうえんこうふ)すれば、なすべき行は満ち、正しく涅槃を得る」。また僧侶たちに「まさにたった一つの行を修すべきである。その行以外のものを取らないことを願う」と言ったとある。すると、僧侶たちは仏に「私たちはすでにそれを知っています」と言ったので、仏は「あなたたちは何を知ったのか」と述べると、僧侶たちは仏に「行以外の他のものとは、六境である色・声・香・味・触・法です」と言った。すると仏は「よろしい。もしこの六境を取らねば、なすべき行は満ち、正しく涅槃を得る」と言った。この言うところの「広演広布」とは、不放逸の心をもって、すべての教えを経て、この世の次元と「六境」のすべてにおいて放逸せず、悟りを得ることを言うのである。

(注:つまり、人間の六つの感覚器官で受けるすべての情報を捨て、ただ修行に打ち込む、ということである)。

次に一つ項目を増して二項目の行とは、『阿含経』に「静かな修行道場にいる僧侶たちは、まさに二つの行を修すべきである」とある。それは止と観のことである。止を修すとは、すなわちあらゆる悪をせず、戒律、威儀、あらゆる行、禁戒をすべて失わず、あらゆる功徳を成就することである。また観を修すとは、すなわち人生は苦しみであることを観じ、それを体験として知ることである。これが苦諦であるが、次に苦の原因を知る集諦を行じ、苦の滅を知る滅諦、苦から離れる具体的な道である道諦を観じて、体験的にこれを知ることである。そして、煩悩を滅ぼし、この世に再び生まれないようにする。如来もこのように修したのである。

次に一つ項目を増して三つの行とは、戒・定・慧(注:戒律と禅定と智慧)の三学のことである。この三学はこの世から離れる三つの項目であり、仏の教えの軌儀(きぎ)である。『戒経』に「あらゆる悪をするな。あらゆる善はせよ。自らの心を清めよ。これは諸仏の教えである」とある。「あらゆる悪」とは、重いものから軽いものへと分類された罪過のことである。それは律についての五学派それぞれにその具体的な事項が明らかにされている。このような悪は戒律の禁止するところである。「あらゆる善」とは、初歩的な瞑想である散禅、欲から離れた静禅、そして数多くの瞑想における前後の方便の三業を指す。これらは上の霊的次元に引き上げるものなので、善というのである。「自らの心を清めよ」とは、あらゆる誤った見解を破り、この世と霊的次元での因果、仏の教えの核心と補助的な教えを理解し、心の垢を除いて、あらゆる汚れを清める。これが智慧でなくて何であろうか。

(注:ここにある「あらゆる悪をするな。あらゆる善はせよ。自らの心を清めよ。これは諸仏の教えである」とは、「阿含経典類」に記されているところの、いわゆる「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ・過去から現在の仏までの七仏に共通する基本的な教え)」と呼ばれる教えである。これは仏教における基本的な教えである)。

仏の海のように広い教えは、この三学に集約できる。この意義を知れば、四、五、六、七、そして百千万億の教えを行として、ここに同様に集約できる。

以上は、最も能力の低い者たちの教えである蔵教によって、行が導かれることである。

◎通教の行について

次に、通教において項目が一つずつ増える行について述べる。そもそも通教とは、すべての経典の教えに通じるという意味なので、ある特定の教えをあげることはできない。ただここでは、声聞と縁覚と菩薩の三乗共学の教えを取って、通教とする。

大智度論』において、一つずつ項目が増える行について述べられている箇所を引用する。そこには、「菩薩が般若を行じる時、すべての教えがただ一つの形であるということを知るとしても、同時に、すべての教えのそれぞれ個別の形も知る。そしてすべての教えのそれぞれ個別の形も知るとしても、同時に、すべての教えがただ一つの形であるということを知る」とある。「すべての教えがただ一つの形であるということを観じる」とはどのようなことか。それはいわゆる、すべての教えには形がないということである。たとえば、すべての存在を形成するとされる地・水・火・風の四大がばらばらでないようなものである。地に水・火・風がある。ただ地が多ければ、地と名付けられただけである。水・火・風もまた同様である。このように、異なった形があるのではないことを観じるのである。もし火の中に風・地・水があれば、この三つは同様に熱いであろう。もし地・水・風の三つが火の中にあっても、熱くはないので火と名付けないまでである。もしこの三つが同様に熱ければ、三つのそれぞれの自性(じしょう)はなくなり、みな火と名付けられ、この三つはなくなる。もし三つがあるが、あまりにも微細であり知ることができないとするならば、それは無とどうして異なるであろうか。もし粗雑なものとして認識できるならば、そこに微細なものもあることを知る。もし粗雑なものがなければ、微細なものもない。したがって、火の中にあらゆる形を認めることはできない。すべての教えの形も同様である。このために、すべての教えはすべて一つの形である。これは一つの形であるということをもって、異なる形を否定することである。また、形がないということをもって、一つの形であるということを否定することである。形がないということも自ら消える。木に火があれば、その火はあらゆる薪を燃やし尽くし、また元の木も燃えてなくなるようなものである。これが、すべての教えは一つの形であり、一つの形は形がないということを観じることである。このように、無量のすべての教えはすべてみな一つの形であり、一つの形は形がないことである。そして、一つの教えから進んで、二つの教えをもとに行じてすべての行を総括し、さらに百の教え、千万億の教えをもとに行じてすべての行を総括することも、同様に考えるべきである。細かくは記さない。

◎別教の行について

次に、別教において、項目が一つずつ増える行について述べる。ここで、『華厳経』の「入法界品」に記されている善財童子(ぜんざいどうじ)の物語をあげる。一人の良き師匠の所において、あらゆる教えを聞いてそれを行じた。ある時はあらゆるものを作り出す如幻三昧(にょげんざんまい)を行じ、ある時は岩に身を投げたり火の中に入ったり、砂の数を知り、ほくろによって占ったりした。悟りを求める心を起こして道を求めたのであるが、それについて一つ一つの行がある。そして「仏の教えは海のようである。私はただこの一つの教えを知るのみである。他は知らない」とある。どうように、その良き師匠が百十人いても、一つ一つの教えは同様である。このような行は無明を破って、深い境界に入る。二つの教え、三つの教え、そして百千万億の教えもまた同様である。

◎円教の行について

次に、円教において、項目が一つずつ増える行について述べる。『文殊問経』(注:実際は、『文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経』)に次のように記されている通りである。「菩薩は常座三昧(じょうざざんまい)を修する時、静かな部屋において結跏趺坐(けっかふざ)し、すべての世界を対象とし、一念をすべての世界と一つとして、すべての顛倒した無明は、虚空のように永遠に寂なるものにするのである」。この一つの行を修す人は、すなわちすべてにおいて妨げのない人であり、一つの道より生死の繰り返しを出るのである。すべての実在において、すべてを平等に観じることができる。智慧の理解の心は寂然として、この世の次元のものではなくなっている。これはすなわち一つの行にすべての行が総括されていることである。ここから、一つの行を増して二つとし、すべての行を総括すれば、いわゆる止観となり、さらに一つの行を増して三つとし、すべての行を総括すれば、聞・思・修または戒・定・慧となり、さらに一つの行を増して四つとし、すべての行を総括すれば、四念処となり、さらに一つの行を増して五つとし、すべての行を総括すれば、五門禅(ごもんぜん・無常、苦、空、無我、寂滅の五種)となり、さらに一つの行を増して六つとし、すべての行を総括すれば、六波羅蜜となり、さらに一つの行を増して七つとし、すべての行を総括すれば、七善法(しちぜんぽう・仏の説法の七種類の優れたところ)となり、さらに一つの行を増して八つとし、すべての行を総括すれば、八正道となり、さらに一つの行を増して九つとし、すべての行を総括すれば、九種の大禅(だいぜん・最高の九種の禅)となり、さらに一つの行を増して十とし、すべての行を総括すれば、十境界(じゅっきょうかい・十種類の観心の対象)または十乗観法(じゅうじょうかんぽう・十種類の観心の方法)となる。

(注:十境界とは、①陰入界境、②煩悩境、③疾患境、④業相境、⑤魔事境、⑥禅定境、⑦諸見境、⑧増上慢境、⑨二乗境、⑩菩提境。十乗観法とは、①観不可思議境(観心の対象である境が不可思議であること)、②真正発菩提心(慈悲の心によって発心すること)、③善巧安心止観(巧みな禅定により心は常に平安であること)、④破法徧(すべてに渡って執着を破ること)、⑤識通塞(真理に通じるものと塞ぐものを認識すること)、⑥修道品(三十七道品を具足し悟りに向かうこと)、⑦対治助開(この心の中心となる教えと補助的な教えを理解すること)、⑧識次位(自らどの行位にいるか認識すること)、⑨能安忍(心を安んじて動ぜず、堕せず、退くこともなく、散ることもないこと)、⑩無法愛(真理を知っても、それに執着を生じないこと)。

百、千万億、阿僧祇不可説(あそうぎふかせつ・とても数が多く言葉に表現できないと言う意味)の教えの門を増して行とすることについては、もちろんすべて記すことはできない。以上の意義を理解すれば、自然とわかるであろう。

しかし、このように行の項目が増して行っても、各行が対象とする者の能力が同じということはない。ここでも麁と妙を判別するべきである。

三蔵教の項目が増す行は、生滅の智をもって導き、ただ苦から出ることだけを期待するのであり、まさにこれは『法華経』に記されているところの、旅の途中の仮に作られた町に留まってしまうようなものである。このため麁である。

通教の項目が増す行は、体空観が巧みであるといっても、ただ導かれて苦から出るだけである。ただ煩悩が灰となって消えるのと同じである。

別教の項目が増す行は、智慧が遠くまで導いてくれることは確かである。しかし、浅い所から深い所に上り、それぞれの行がばらばらであり、具体的な事柄は融合しない。そのために麁である。

円教の項目が増す行は、行が融合して智が円満である。このために妙とする。『法華経』は円教の項目が増す行に属する。『法華経』の「結経」である『観普賢菩薩行法経』に「二十一日間、一心に精進する」とあり、これは一つの行における行妙を指す。また『法華経』に「あるいは歩きながら、あるいは座ってこの経を思惟する」とあり、これは二つの行における行妙を指す。また『法華経』に「もしこの経を聞いて、思惟し修し学べば、菩薩の道を歩む」とある。これは三つの行における行妙を指す。また『法華経』にある四安楽行(しあんらくぎょう・身、口、意、誓願の四つにおける安楽に至る行)は、四つの行における行妙を指す。円教の行位である五品弟子位(ごほんでしい・智慧が中道に応じている位で、随喜、読誦、説法、兼行六度、正行六度の五つ)においては、五つの行における行妙を指す。同じく円教の行位である六根清浄位(ろっこんしょうじょうい・この世における見思惑を滅し、無明惑を抑えて眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清められる位)においては、六つの行における行妙を指す。これらは、麁に相対する相待妙である。

麁を開いて妙を述べれば、『法華経』に記されている通り、仏に対して、少しでも頭を下げたり、手を挙げたり、土を積んだり、遊びでも砂を積んだりすることは、すべて仏の道を行じていることになるのである。仏があらゆる教えを説くことも、すべてそれは『法華経』の一乗(いちじょう・すべての者が仏になるということ)のためである。すべての行はみな妙であるので、麁に相対することなく、相待妙ではなく絶待妙なのである。