大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  82

『法華玄義』現代語訳  82

 

c.五行によって行妙を述べる

次に、五行によって行妙を述べる。まず別教の五行について明らかにし、次に円教の五行について明らかにする。

(注:これから、別教の五種類の行と円教の五種類の行によって「行妙」が明らかにされるわけであるが、最初に述べられる「別教の五行」の内容は、他のどの箇所よりも非常に長い箇所となる。それはほぼ一巻の半分以上の分量となる。それほど長くなる理由は、各経典にそれぞれ少しずつ異なった「行」や、それに伴う「戒律」が記されているからで、天台大師はあくまでもすべての行を網羅しようとするため、述べるべき項目が非常に多くなるのである。

それに比べて、「円教の五行」についての記述はそれほど長くない。その箇所に「円の行は遠く求むべからず。心に即してしかも是なり」とある通り、円教の行は個別を超越しており、しかも心にすべて備わって円融しているからである。

またなぜ、蔵教と通教の五行はないのだろうか。それはすでに述べられたように、蔵教の教えは程度が低く、その行の種類も限定的である。そして次の通教も、これもすでに述べられていたが、すべての教えに通じるという性格から、特に「通教の行」というものを限定できないからである)。

 

第一.別教の五行について

別教の五行は、『涅槃経』に、「五種の行とは、聖行、梵行、天行、嬰児行、病行のことである」とある通りである。

 

(1)聖行(しょうぎょう)

この聖行にも三種類ある。戒聖行、定聖行、慧聖行である。

 

◎戒聖行(かいしょうぎょう)

(注:ここからはもっぱら、戒律の項目が数多くあげられることになる。戒律も行の一つの形体という認識がここにある)。

誓願を発し終わって、次に修行を始めるわけであるが、家にいたままでは牢獄のような逼迫があり、命終わるまで清い行ないを貫くことは不可能である。それに対して出家は静寂極まりないこと、虚空のようであると知り、家を捨てて戒律を受ける儀式をして、性重戒(しょうじゅうかい・不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒などの、釈迦以前から存在する、犯せばそれ自体が罪となる事柄を禁じる戒律)や息世譏嫌戒(そくせきげんかい・譏嫌は機嫌の本の文字。世間から悪い評価を受けないよう、一般人の機嫌を損ねないようにするための戒律で、不飲酒戒はこれに当たる。その他に、食五辛戒のように、口の息が臭くなるネギやニラなどを禁ずる戒律がある)などを保って、すべて等しく守る。愛見の羅刹(らせつ=鬼)に戒律を保っている袋を破られないようにすることは、『摩訶止観』に記されている通りである。

この持戒によって、根本業清浄戒・前後眷属余清浄戒・非諸悪覚覚清浄戒・護持正念念清浄戒・廻向具足無上道戒をすべて保つ。

根本業清浄戒(こんぽんごうしょうじょうかい)とは、十善性戒(じゅうぜんしょうかい・殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を禁じる戒律)であり、あらゆる戒律の根本である。煩悩を断つ心から生じるために、清浄という。

前後眷属余清浄戒(ぜんごけんぞくよしょうじょうかい)の前眷属とは、未遂の罪や重罪を犯さないための方便の戒律あり、後眷属とは、僧侶の資格を一定期間剥奪される重罪のことである。そして余とは、律蔵(りつぞう・戒律を専門とした経典)には記されていないが、他の諸経典に記されている戒律のことである。たとえば、『大方等陀羅尼経』に記されている二十四戒のようなものである。

以上の二つの戒律は律儀戒(りつぎかい・悪を抑制する戒律のこと)であり、受戒の儀式的作法によって受けるものである。後の三つの戒律は、作法によって受けるものではなく、修行によって得るものである。修行を通してこの戒律を自ら得るのである。

非諸悪覚覚清浄戒(ひしょあくかくかくしょうじょうかい)とは、定共戒(じょうぐかい)である。定共戒とは、この世の次元における禅定の状態において得る戒律である。その戒律そのものはまだ清浄ではないので、瞑想は実現していない。さらにそこから進めば、身体から来る妨げは除かれ、さらに修行が継続され、心から来る妨げが除かれ、さらに深い瞑想へと導かれる。禅定における悪い感覚を除くために定共戒というのである。

護持正念念清浄戒(ごじしょうねんねんしょうじょうかい)とは、四念処(しねんじょ・説明前述)のことであり、真理を観じる正しい念である。まだ真理に到達していないといっても、真理から来る念に似ることにより、よく真理の道に導かれ、道共戒(どうぐかい・煩悩から離れ、真理の道に入った時に得られる戒律)を成就するために、正念念清浄戒と名付ける。前の定共戒は禅定の心から発せられ、止観における善戒に属するが、道共戒は真理に基づいて分別する心から発せられ、行動における善戒に属する。動かない禅定の定共戒と、動く行動の道共戒も、共に戒律である。なぜなら、戒とは悪を防止するものであり、定共戒の心を得れば、また悪は起こさない。同じように道共戒を得て真理に向かう心を発すれば、そのままの状態にあれば罪過はない。そのために、共に戒律となるのである。

廻向具足無上道戒(えこうぐそくむじょうどうかい)とは、すなわち菩薩は諸戒律の中において、四弘誓願六波羅蜜を保ち、誓願を発して心を悟りに向けるために、これを大乗戒と名付ける。四弘誓願については前に述べた。

六波羅蜜とは、次の六つの波羅蜜(はらみつ・古代インド語のパーラミターの音写文字。完成という意味)のことである(注:これ以降、六波羅蜜についての説明となるが、ここでは戒律という範疇のものとして語っているので、一般的な行としての六波羅蜜の解釈とは異なっている)。

六波羅蜜の第一は布施波羅蜜(ふせはらみつ・檀波羅蜜(だんはらみつ)ともいう)であり、悪を嫌って出家し、愛するところを断つことである(注:布施とは、惜しみなく与えるという意味であるが、ここも、戒律を守るために惜しみなく家を捨てる、という解釈がされている)。

第二は持戒波羅蜜(じかいはらみつ・尸羅波羅蜜(しらはらみつ)ともいう)であり、少しも戒律を犯さず、煩悩の羅刹に反逆することである。

第三は忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)である。よく身と心を制御し、罵倒されても耐え忍ぶことを生忍(しょうにん)と名付ける。心を動揺させるあらゆること、寒熱、貪り、瞋恚に耐えることを法忍(ほうにん)と名付ける。煩悩も損することができないことが忍辱である。

第四は精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)であり、戒律を守るよう努力し、犯す心を起こさせないことである。

第五は禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)である。志を確固たるものとして戒律を守り、迷いを断ち切り、専心不動であることである。

第六は般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)である。明らかに因果を知り、戒律は悟りへの正しい本(もと)であり、声聞、縁覚、菩薩の三乗の聖人を生み出すものと知る。そして外道の多くの価値のない教えなどとは異なったものであると知ることである。