大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  84

『法華玄義』現代語訳  84

 

◎定聖行(じょうしょうぎょう)

定聖行について述べるにあたって、三つの項目を立てる。一つめは、世間禅(せけんぜん)、二つめは、出世間禅(しゅっせけんぜん)、三つめ、出世間上上禅(しゅっせけんじょうじょうぜん)である。

 

○世間禅

世間禅にも二つの項目がある。一つめは、根本味禅(こんぽんみぜん)であり、これは隠没(おんもつ)・有垢(うく)・無記(むき)である。二つめは、根本浄禅(こんぽんじょうぜん)であり、これは不隠没・無垢・有記(うき)である。

根本味禅と根本浄禅の「根本」とは、世(この世の次元)と出世(霊的次元)の根本である。『涅槃経』に「諸仏の成道、転法輪、入涅槃は、すべて禅の中にある」とある。よくこの根本を観じれば、そこから最も優れた上定(じょうじょう・優れた禅定)が生じるので、根本という。

(注:ここまで見てきたように、天台大師はすべての経典に記されているすべての項目、用語を網羅しようとする一方、自分の造語も多く述べている。そのため、畳みかけるようにさらに用語が多くなることは避けられない。しかし、究極的に伝えようとしていることは「絶待妙」であり、「開麁顕妙」であることは一貫しているので、それを見失わない限り、用語の海に迷うことはない。これよりは、禅定についての非常に細かな内容となる。そして、段落の最後に、『次第禅門』あるいは『摩訶止観』にある通りだと記されている箇所も、複数あることから明らかなように、『次第禅門』や『摩訶止観』に記されている内容の項目を並べて、簡単に説明している形となっている。したがって、『法華玄義』のこの記述を見て、正しく理解してさらに修する、ということは最初から期待されておらず、ここでは「行妙」の具体的な内容として、全体像を把握することでじゅうぶんであり、詳しくは『摩訶止観』や『次第禅門』を読むように、ということであろう)。

 

○世間禅 ①根本味禅

隠没とは、悟っておらず、観心の智慧がないことである。有垢とは、観心のそれぞれの段階に執着があることである。無記とは、行の段階に明らかな区別がついていないことである。ここに三つある。すなわち十二門禅(じゅうにもんぜん)を三つに分けたものであり、この世の次元の禅定である初禅・二禅・三禅・四禅の四禅(しぜん)と、四無量心(しむりょうしん・慈、悲、喜、捨の四つによって無量の衆生を救おうとする心)と、四空定(しくうじょう・空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の精神的世界における四つの禅定)である。

最初に禅定に入るための方便を修し、音の出る呼吸や乱れた呼吸を捨て、正しい呼吸法を知るべきである。ゆったりと呼吸の数を数え、増やしたり減らしたりはしない。もし数が定かでなくなれば、調節して散逸にならないようにして、心を粗雑な状態から繊細な状態に安定させるようにする。そして体をまっすぐに安定させる。さらに進んで、肉体の欲がそのままであっても禅定の状態に入り、体の微妙な感触が起こる。そして、覚・観・喜・楽・一心の五つが起こる。

こうして初禅が成就する。『大智度論』に「すでに淫らな思いの火から離れることができれば、清涼なる禅定を得る。暑い状態から冷たい地に入れば、涼しさを楽しむようなものである」とある。もし先に進むことを願えば、出家していない一般人の者ならば、六行観(ろくぎょうかん・これから述べられるところの苦・麁・障を離れて、勝・妙・出に至る観心のこと)を修し、出家者は八聖種(はちしょうしゅ・初禅の状態を病・癰(おう・できもの)・瘡(そう・湿疹)・刺のように観じ、苦・空・無常・無我と観じること)を修す。行者は、覚と観の状態において、覚と観を嫌い離れ、この初禅の段階も苦・麁・障とする。覚と観は結局、禅定の心を乱すために、苦である。覚と観から喜と楽が生じるので麁である。覚と観はさらに上の禅定を妨げるので障である。

(注:最初に禅定が思い通りに行くように思えると、その状態に留まり、しばし得られた平安に満足してしまい、それ以上のものを求めなくなることがないように、その平安な状態さえ厭い離れるようにする、ということである)。

二禅は初禅と異なっているので、勝・妙・出と名付ける。総合的に言えば、初禅の誤りを知って執着せず、次に呵責し、さらに析破(しゃくは)して初禅を離れる。これが二禅を修す姿とする。巧みに初禅を嫌い離れれば、内側も外側も明るくなり喜びと共に内・浄・喜・楽の四つが起こる。このために『大智度論』に「このために覚と観を除き、統一した精神状態に入る。内の心が清浄となるために、確実に喜と楽を得る」とある。二禅のなか、すでに覚と観を離れているので、方便を用いる必要はない。禅定から出る時、さらに上を求めることにおいて、初禅から二禅に進む時と同様、六行観を修す。

(注:人は、何か今までとは違った「悟り」のようなものを体験すると、それにしがみつこうとしてしまう。それは当然のことであろう。しかしそれでは一生、その体験に留まってしまい、全く全進がなくなり、新たな体験もできなくなる。そして融通性のない頑なな宗教人となってしまう。「初禅」に至ったならば、すぐに「二禅」に進むよう、徹底的に「初禅」の体験を嫌い、さらに「二禅」からも離れるようにする、ということは、人間の本来の姿を見抜いた導きと言える)。

よく修行するために、心が明らかに開けて、呼吸に左右されず、執着を捨てることが起こって、明るい空に陽に静寂となり、不苦不楽・捨・念・一心が成就する。楽が妨げであることを知って不動を得れば、大いに平安である。憂と喜はすでに除かれ、苦と楽も今ここで断たれる。

修行する者はすでに内に四禅まで修し、外に福徳を修することを願うならば、まさに慈・悲・喜・捨の四無量心を学ぶべきである。これには通修と別修がある。通修とは、『大智度論』に「この慈は、この世において欲を離れた四禅の中間に修すことができる」とある。この言葉は通である。別修とは、初禅の覚と観は、四無量心の悲を修しやすくし、同じく初禅の喜は四無量心の喜を修しやすくし、楽は慈を修しやすくし、一心は捨を修しやすくする。また次に、初禅は悲を修しやすくし、二禅は喜を修しやすくし、三禅は慈を修しやすくし、四禅は捨を修しやすくする。これらはすなわち、四無量心の禅定を修すことである。

また次に、修する時、先輩の修行者が苦を離れ、楽を得、歓喜し、平等の智慧をえる姿によって禅定に入る。禅定が発する時、内に喜びや楽や平等の智慧を得て、同時に、先輩の修行者の苦を離れ、楽を得ることを見る。あるいは、内にそれらを得ても外には表われず、あるいは、外にそれが表われているようだが、実は内には得ていない、ということもある。真実と偽りを見分けることが必要である。

修行者は、認識対象に囲まれている状態から出ようと願い、四空定(しくじょう)を修す。認識の対象が滅してもなお心があり、その心は存続するために四空と名付ける。程度の低い状態を嫌って、さらに上を目指すことは、確かに執着の心であるが、それを方便として用いるべきである。認識対象は苦しみの本である。そこには飢渇寒熱があり、認識対象を苦の集まりという。空をあがめて浄妙とする。あらゆる逼迫を離れる。すべての認識対象を過ぎて、空定の状態になれば、不苦不楽はますますさらに増長する。深い禅定の中において、ただ虚空を見るだけであり、あらゆる認識対象の姿はなく、心は分散しない。

また次に、この空定を得るために、認識対象のみが存在する色界(しきかい・この世の次元を表わす欲界、色界、無色界の中間)を出る。それは、すべての認識対象の姿を過ぎることである。空の真理が心を満たし、あらゆる認識対象が起こらないために、それは、対象となる姿形を滅ぼすことである。すでに空定を得て、揺るぎなく認識対象を捨てて、思ったり慕ったりしない。それはあらゆる認識の姿を念じないことである。程度の低い状態を嫌って、さらに上を目指す方便は、あらゆる場合にある。詳しくは『次第禅門(しだいぜんもん)』にある。

以上で、根本味禅を述べ終わる。