大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  85

『法華玄義』現代語訳  85

 

○世間禅 ②根本浄禅

根本浄禅は、先にも述べた通り、不隠没・無垢・有記である。前の根本味禅とは異なっている。そしてこれには六妙門(ろくみょうもん・数息門、随息門、止門、観門、還門、浄門)と十六特勝(じゅうろくとくしょう・後説あり)と通明(つうみょう・前述の四禅、四空定などを指す)の三つがある。涅槃自体が妙である。この涅槃に通じる数息観・随息観・止門・観門・還門・浄門の六妙門が妙と名付けられるのである。この三つは、慧性(えしょう・智慧の本質)が多い場合と、定性(じょうしょう・禅定の本質)が多い場合と、慧性と定性が等しい場合の三つに対応する。慧性が多い場合は、六妙門を説く。このひとつひとつの教えは、欲が残っている次元において、よく煩悩から離れさせるからである。もし定性が多い場合は、十六特勝を説く。初歩的な段階では煩悩から離れられず、程度の高い禅定においてよく悟ることができるからである。そして、慧性と定性が等しい場合は、通明を説く。通明の観心の智慧は深く微細で、初歩的段階から程度の高い段階に引き上げ、煩悩から離れさせる。これは、修行者の程度の違いによって説くものである。もし、その時その時の状態に対応する教えについて述べるなら、また別にある。もし広く修習について説き明かせば、すべての禅定を網羅しなければならない。今はただ、段階的に生じる状態に対する竪の見方による意義を説いたのみである。

この六妙門を修す時、修行と証悟が合わされば、十二の法がある。仏は「十二の法に自在に留まり、十二の法を出生する」と言っている。すなわちこれは、最初の数息観を修行し、数息観を証悟し、最後の浄門までを修行し、浄門を証悟することである。数息観を修行するとは、修行者は初めに息を調和させ、滞ることなく滑らかすぎることもなく、心安らかにゆっくり数え、一から十に至る。心を収めて数に集中し、散乱させない。これが数息観を修行することである。数息観に相応することは、目覚めた心を一から十に至るまで、力を加えず、心自らを数に留める。息は微細となり心も微細となる。これが数息観を証悟することである。もし数息観が乱れてしまうならば、数を数えることはやめて、随息観を修すべきである。これは、最後の浄門に至るまで同じであり、六妙門のそれぞれにこの修行と証悟があるので、十二となる。

さらに六妙門の中の観門に三つある。一つめは、真理を観じる慧観である。二つめは、仮想(けそう)を観じる得解観である。三つめは、実観である。このうち、最初は実観を用い、後に慧観を用いる。実観を修すとは、次の通りである。禅定の心の中において、心の眼をもって明らかに自分の身体を観じて、微細に出入りする息の姿は、空中の風のようで、体を構成する皮膚や筋や肉や骨などは、中身が入っていない芭蕉の幹のようなものであり、外側も内側も不浄であり嫌悪すべきものだと知る。また、禅定の中の喜・楽などは、すべて確固たるものではなく、これは結局、苦であって楽ではないことを知る。また、禅定の中の心における認識を観じて、それは無常であって、一瞬たりとも定まらず、拠り所となるものはないと知る。また、禅定中の善悪の想念を観じると、すべて因縁によって生じているもので、みな自らの定まった本性はないことを知る。このように観じる時、四顛倒(してんどう・無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と認識する誤り)を破って、自我が消滅するので、頼るものは何もなくなる。これを修観と名付ける。このように修する時、呼吸がすべての毛孔に及んでいることを悟り、心の眼が開き、体の中のあらゆる臓器や器官、およびあらゆる微生物、内外すべてのものが不浄であることを徹見する。それらはもともとあらゆる苦しみに逼迫し、一瞬に変化するものである。すべての実在は、ことごとく定まった本性などないと見る。心に悲しみや喜びを感じて、寄り頼むべきところなどない。四念処を得て、四顛倒を破る。これを、観と相応するという。具体的にすべて記すことはできない。仏は樹下に座って、内に平安を得ている。ひとつは数息観であり、二つは随息観などである。以上が六妙門の禅定である。

次に十六特勝(①~⑯)とは、まず名称を解釈する。これは十六項目の特に優れた禅定という意味である。修行の形は、数息観の代わりに、息の入ること(①念息短)を知り、息の出ること(②念息長)を知るのである。それは、息を綿細に整え、一心に息に委ねる。入る時は鼻より臍に至ると知り、出る時は臍から鼻に至ると知り、そのように照らすことにおいて乱れない。音の出る息や、あえぐ息や、乱れる息を麁であるとし、息を微細に知る。麁の状態になったことを知れば、すぐに整えて微細にする。門を守る人が、誰が入ったか、誰が出たかということを知り、悪しき者は遮り、良い者は通らせるようなものである。渋滑、軽重、冷暖、遠近、難易などみな知る。息は命の依るところとなり、一つの息が還らなければ、命は尽きると知る。生きと命とは危うく無常であることを悟って、愛着や慢心を生ぜず、息は自我ではないと知れば、誤った見解を持つことはない。そして、息の長短を知ることは欲界定に相当し、息が体全体に行き渡ることを知ること(③念息遍身)は未到地に相当し、あらゆる身体の動きを除くこと(④除身行)は初禅の覚と観に相当し、喜びが生じること(⑤覚喜)は喜に相当し、楽が生じること(⑥覚楽)は楽に相当し、あらゆる心の動きが生じること(⑦覚心行)は一心に相当し、心の中に喜びが生じること(⑧令心喜)は喜と共にある禅定、心にすべてを摂取すること(⑨令心摂)は二禅の一心、心が解脱すること(⑩令心解脱)は三禅の楽、無常を観じること(⑪無常行)は四禅の不動、出散(しゅっさん・無限の広がり)を観じること(⑫断行)は空無辺処、欲を離れること(⑬離行)を観じることは識無辺処、滅を観じること(⑭滅行)は無所有処、棄捨を観じること(⑮除心行)は非想非非想処に相当する。棄捨を観じるならば、すぐに声聞、縁覚、菩薩の三乗の涅槃を獲得する(⑯覚心)。もし同等の位の観心の智慧について述べるならば、それは四念処に相当する。

次に通明禅とは、修行者が息・認識対象・心の三つを観じる時、その区別がないことである。明らかに息の出入りを観じる時、入っても積み重なっていくという感覚はなく、出ても分散していくという感覚はなく、入って来るということに、どこかを経て来たという感覚はなく、出て去って行くということに、干渉することはない。空中の風のようであり、本性はない。息は本来、身体的作用であるが、身体はもともと存在しないのであり、存在すると感じることは、前世からの業による妄想であり、それが結果的に現在の身体を作り上げているのである。虚空を囲んで、これが身体だと言っているようなものである。頭、胴体、両手両足、さまざまな臓器、視覚、嗅覚、味覚、触覚のどれを取っても身体ではない。身体を観じることは心によるのである。心はさまざまな条件によって起る。生滅が目まぐるしく、留まるところやその姿は見えない。ただ心という名称あるだけである。その名称さえ空である。このように息・認識対象・心を観じる時、この三つの本性の違いはない。このように三つの本性がないのであるから、すべての実在もない。これは修行の形式的なことである。

修行の証とは、内に真諦の空を証することであり、すでに六妙門の観門のところで述べた通りである。次第にこの身に体得して、認識対象も息も分明となる。また世間の天文学や地理学で言われることも、この身体に相当することを知る。よくこの世の禅定を備え、非想非非想処に微細な煩悩があることを知り、煩悩の迷いを破り、真理を悟り、声聞、縁覚、菩薩の三乗の涅槃を得る。以上すべては、『次第禅門』に記されている。以上、根本浄禅の説明は終わり、これで、根本味禅と根本浄禅の世間禅の説明は終わったことになる。