大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  87

『法華玄義』現代語訳  87

 

〇出世間禅の総論

以上見てきた出世間禅の各禅定を総合的に見るならば、練禅すなわち九次第定は、よく観禅の八背捨に入り、熏禅すなわち獅子奮迅三昧は、よく八背捨を出て、修禅すなわち超越三昧は、よく八背捨に留まる。『法華経』に「よく百千の三昧に入り、出て、留まる」と記されているのはこのことである。たとえば、画師が五つの色彩をそれぞれ合わせて無量の色彩を作り出すようであり、あるいは、この世の目に見えるすべてのものが、地・水・火・風の四元素を人の認識作用である五陰が認識することによって生じているようなものである。禅定の法もこの通りである。ただ観禅・練禅・熏禅・修禅をもって、すべての神通変化(じんつうへんげ)を生み出しても、あらゆる功徳の備わらないものはない。『涅槃経』に「菩薩は禅定にあって堪忍地(かんにんじ=歓喜地)を得る」とある。地はすべてを支えつつ、すべてを生み出すのである。各々の禅定の中に、みな慈悲、誓願、三十七道品(さんじゅうしちどうほん・後述あり)、菩薩の行なう六波羅蜜などの行があって、欠けるところはない。なぜなら、戒律と禅定の中において観心の智慧を明らかにすることは、総合的に行なわれるために共念処(ぐうねんじょ)である。単に観心のみを論じるのは、他のものは本性として備わっているので性念処(しょうねんじょ)である。共通して戒律や禅定など、境に対する智慧や文字などを扱うことは、悟りの条件であるので縁念処(えんねんじょ)である。

また、不浄観は、身体に清らかなものがあるという誤った認識を破る。これは身念処(しんねんじょ)である。あらゆる禅定において心が受けるものこそ、苦しみや安楽そのものであり、過去現在未来の内や外において受けるものは不可得であると観じて、安楽が実在するという誤った認識を破ることは、受念処(じゅねんじょ)である。あらゆる禅定における心は、心というものがあるために善悪が作られ、心がなければ善悪を作る主体もないと観じて、自我があるという誤った認識を破ることは、法念処(ほうねんじょ)である。心は生滅して前後のつながりもないと観じて、常に心のようなものがあるという誤った認識を破ることは、心念処(しんねんじょ)である。

また次に、八背捨は四念処(=不浄観・一切皆苦諸行無常諸法無我)を観じ、九次第定は四念処を練り、獅子奮迅三昧は四念処を充実させ、超越三昧は四念処を修す。声聞と縁覚の二乗は自らの悟りのために、この五つの禅定を修し、苦・空・無常・無我の四枯(しこ)の念処を成就しても、それは堪忍地(=歓喜地)とはいわない。菩薩は衆生を悟りに導くために、深く念処を観じ、慈悲、誓願をもって衆生のために常・楽・我・浄を成就する。これこそ大乗であって、堪忍地(=歓喜地)と名付けるのである。

問う:これら出世間禅は、純粋な精神的次元である無色界のものであるならば、なぜ四念処があるのか。

答える:『阿毘曇論』に「無色界に道共戒(どうぐかい・悟りを得たことにより身に付けられる戒律)がある。その戒は無作色(むさしき・物質的な物から生じたものではないが認識の対象となるもの)である。煩悩から離れたという条件によるものであるので、この戒の対象は煩悩から離れた状態に従って無色界に至る」とある。また一方、『成実論』の学者は「認識の対象は、もともと物質的な物から生じたものではないので、無色界には至らない」と言っている。また『舎利弗毘曇論』には、「無色界に認識の対象はある」とある。ここから明らかなことは、小乗の教理においては、二つの相反する説がある。大乗の『涅槃経』には、「無色界の認識対象は、小乗の声聞は知ることができない」とある。もしそうならば、四念処が無色界にあっても問題ではない。

問う:あらゆる禅定において、ただ三十七道品の中の四念処だけを論じているが、その他の道品はないのか。

答える:悟った次元において論じるならば、四念処以外の道品は必要ない。修行において論じるならば、四念処に他のすべての道品が備わっている。『大智度論』に「初めにこの世において善いとされることを、この世の認識において行ない、この世の常識の範囲内で正しい思念を得るならば、それは三十七道品の中の四念処の智慧である。この四念処の努力は、正しい行ないである。また禅定の中の心の中において修行することは、三十七道品の中の四つの神通力である四如意足(しにょいそく)のことである。眼耳鼻舌身の五根が清められることが三十七道品の中の五根であり、その五根がさらに働き出すことが三十七道品の中の五力と名付け、自覚・選択・努力・喜び・安楽・集中・無執着の七種の分別を三十七道品の中の七覚とし、平安な心をもって行なう行を八正道という」とある。このように、最初のこの世の常識の範囲内にすでに四念処が備わっている。なぜ悟りの次元で初めて八正道があるとするのか。もし四念処に他の三十七道品が備わっているならば、四念処の次の段階とされる四善根(煖法・頂法・忍法・世第一法の四つ)も同じである。このように観禅がそうならば、練禅・熏禅・修禅も同じである。しかし大乗の菩薩は、各々の禅定の中において、その教えに従いつつも迷う衆生に対して慈悲の心を失わないことは、父母が食物を得ればまず子供のことを思うようなものである。愚か者は、自らの内に真実の平安を求めることをせず、他の人々と同じように、自分以外の外界に安楽を求め、さまざまな欲望におぼれて苦しみ、何かを得ては失うことを恐れ、失っては憂い、欲望を満たしても安楽を得られないことを嘆き、このような現実に対して菩薩は哀れむ心を持つ。欲望の憂いはこのようなものである。どうしてこれを捨て去って、禅定の安楽を得て、欲望から離れないことがあろうか。このために菩薩は衆生を慈しむのであって、そこに四弘誓願があるのである。

また、あらゆる禅定の中で六波羅蜜を修すということは、次の通りである。衆生は世間の生活のことに縛られて、少しの間でさえ、そこから離れることはできないが、菩薩はそれらから離れて、一心に禅定に励む。これが、檀那(だんな=布施波羅蜜)であり、略して檀という。またもし、戒律を持たなければ禅定に入ることはできない。戒律を持つならば、禅定において雑念は起こらず、その進行に妨げはない。これが、尸羅(しら=持戒波羅蜜)であり、略して尸という。身と口を引き締め、労を厭わずして苦を忍び、外界から入って来る情報を制して執着せず、内なる認識作用を抑えて起こさないようにすることは、忍(=忍辱波羅蜜)である。夜の最初、中ごろ、終わりにおいても精神の統一を持続し、行住坐臥において心は常に禅定にあって、雑念を生じないのは、精進(=精進波羅蜜)である。一心に禅定にあって、乱れず三昧にあることは、定(=禅定波羅蜜)である。もし一心に禅定にあって、よく世間の生滅の真実の在り方を知り、深く誤りや偽りを見抜くならば、般若(=般若波羅蜜)である。すべての行は、みな禅定の中に備わっている。各々の禅定の中に、よくあらゆる功徳を生じ、慈悲を担う。これこそ、堪忍地(=歓喜地)と名付けるにふさわしいのである。

 

○出世間上上禅

定聖行について述べるにあたっての最後の第三は、出世間上上禅(しゅっせけんじょうじょうぜん)である。

出世間上上禅とは、すなわち九種類の大いなる禅定(九種大禅)のことである。『菩薩地持経』に解釈されている通りである。ここでは詳しくは論じない。たとえば、九種の禅定の第一は自性禅(じしょうぜん)であるが、これはすなわち心の真実の本性を観じるものであり、上定(じょうじょう)と名付けられる。すべての実在は、心によらないものはない。心にすべてが摂せられていることは、如意宝珠のようである。この九種の大いなる禅定は、みなそれがそのまま真理の世界である。すべてはこの禅定に赴き、この禅定の対象である境界が現われれば、それがそのまま真理である。認識対象のうちの一つでも、その香り一つでも真理である中道でないものはない。声聞と縁覚の二乗はこの名称さえ知らない。ましてや、この禅定による悟りを得ることなどできるであろうか。

前に述べたa.世間禅の根本味禅と根本浄禅および出世間禅の観禅は乳のようであり、出世間禅の練禅は酪のようであり、熏禅は生蘇のようであり、修禅は熟蘇のようであり、九種の大いなる禅定は醍醐のようである。この醍醐を妙とするのである。

また次に、世間禅の根本味禅と根本浄禅において、愛着が断ち切れていない状態で修することは乳となり、自ら悟った心の中で修することは酪となり、慈悲の心をもって修することは生蘇となり、慈悲の心を次第に深めていく中で修することは熟蘇となり、実在の真実の姿の中で修することは醍醐となる。他の出世間禅の観禅・練禅・熏禅・修禅の四つも同様である。もし、実在の真実の姿の中で修することをしなければ、すべてそれらは麁とする。

もし麁を開いて妙を顕わせば、数息観(すそくかん・息を数えながら禅定に入ること。原文では阿那波那(あなはな・ānāpāna)とある)は、大乗である。すべての実在の真実の在り方は、すべてを摂取し保つのである。この他に別の妙はない。したがって知るべきである。諸仏が悟りを開き、教えを説き、涅槃に入るまでのことは、すべてこの観禅・練禅・熏禅・修禅の四禅にある。四禅の中に真理を見ることを禅波羅蜜という。ましてや、他の禅定においても同じである。これは絶待妙の意義である。

以上で定聖行を終わる。