大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  94

『法華玄義』現代語訳  94

 

第二.円教の五行について

五種の行(五行)によって行妙について述べるにあたって、別教の五行が終わり、続いて、円教の五行について明らかにする。

(注:これより「円教の五行」の説明となる。「別教の五行」では、聖行・梵行・天行・嬰児行・病行が個別に説かれたが、円教においては、この五行がそれぞれ別ではなく円融していることが説かれる。したがって、円教の五行においては、新たな項目が説かれるのではなく、すでに説かれた五行が再び用いられて説かれる形となっている)。

円教の五行は、『涅槃経』に、「また一行がある。これは如来の行である。いわゆる大乗の大般涅槃である」とある。この「大乗」は円教の因であり、「涅槃」は円教の果である。これをあげて「如来の行」という。これは、六波羅蜜や通教や別教の行ではない。これらは大乗と名付けられるが、完全なものではない。この六波羅蜜や通教や別教の行の果は涅槃と名付けられるが、その先がある。すなわち、これは菩薩の行であるので、如来の一行と名付けることはできない。円教の行は、完全に十法界を備え、一つの行がすべての行となる。これこそ、大乗と名付けられるものである。すなわち仏乗であるために、如来の行と名付けられる。『涅槃経』に「初めに悟りを得ようと発心した時から、常に涅槃を観心して道を行じる」とある通りである。また『般若経』に「初めに悟りを得ようと発心した時から行じ、生じ、修し、修行の道場に座ってまた行じ、生じ、修す。究極的には、初発心と涅槃は別ではない」とある。これはみな如来の行の意味である。

法華経』の『安楽行品』に「安楽行」を説くことは、「安楽」を涅槃とするのである。すなわちこれが円教の果である。その行は円教の因である。涅槃と意義が同じであるために、如来の行という。『法華経』の『法師品』に「如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座す」とあって、すべて「如来の」ということは、人についての言葉であり、「涅槃」は法についての言葉である。人について法をいうならば、如来はすなわち涅槃である。法について人をいうならば、涅槃はすなわち如来である。『涅槃経』と『法華経』の意義は同じである。『涅槃経』では、「また一つの行がある」と述べて、詳しく別教の「次第する五行」と比較解釈し、『法華経』では、安楽行をもって、詳しく円教の意義を解釈している。

ここでは『法華経』によって、円教の五行を解釈すれば、五行は一心の中にあって、すべて備え合って欠けたところがないことを如来の行と名付ける。『法華経』に「如来は荘厳をもって自らを荘厳する」とあるのは、如来の行のことである。そして、上の『法師品』の経文に続いて「そしてすなわちまさに四衆のために、広くこの法華経を説くべきである。如来の室とは、すべての人々に対する大慈悲心のことである。如来の衣とは、柔和忍辱の心のことである。如来の座とは、すべては空であるということである」とある。「如来の室」とは、円教の梵行のことである。「如来の座」とは、円教の天行である。「如来の衣」に二種あって、「柔和」とは円教の嬰児行のことであり、「忍辱」とは円教の病行である。この五種の行はすなわち実在の一の真理の行である。一であるから五種にならず、五種は一ではなく、共通しておらず、別々でもなく、不可思議であることを「一の五行」と名付ける。

なぜ荘厳を聖行と名付けるのだろうか。『法華経』に「仏の清浄な戒を持つ」とある。仏の戒とは円教の戒である。また「深く罪福の形を見抜き、遍く十方を照らす」とある。罪において福において、その真実の形を見ることを「深く見抜く」というのである。真実を見抜く心をもって、『安楽行品』に説かれる十種の乱れを離れることは、みな円教の戒である。また「仏は自ら大乗に住む。その得るところの法は、定慧の力をもって荘厳されている」とある。これはすなわち、仏の禅定と智慧が荘厳であるために、仏の聖行と名付けるのである。

なぜ「如来の室」を梵行と名付けるのだろうか。仏の「無縁(無条件という意味)」の慈悲は、よくすべての世界の拠り所となることは、磁石が鉄を吸い付けて離さないようなものである。また四弘誓願・神通力・智慧をもって人々を引き寄せ、その真理の中に住まわせるようにするため、「如来の室」をもって梵行とするのである。

なぜ「如来の座」を天行とするのだろうか。「第一義天(真理の唯一の次元という意味)」、あらゆる実在の妙なる真理は、諸仏が師とするところ、すべての如来が同じく安らかに居るところである。『法華経』の『安楽行品』には「すべての実在は空であることを観じて、不動、不退である。また上、中、下の教え、有為、無為、実、不実の教えを区別しない」とある。このために、「如来の座」はすなわち天行である。

なぜ「如来の衣」は嬰児行・病行なのであろうか。騒がしさを遮断し、静けさを遮断するために忍辱と名付け、同時に真諦と俗諦を照らすことを柔和と名付ける。『法華経』の『信解品』に「よく下劣の人たちのためにこのことを忍ぶ」とある。すなわち、窮子となった息子を導くために、きらびやかな衣を脱いで汚れた衣を着るのは病行に同じ、方便をもって息子に近づくのは嬰児行に同じである。また、十法界の寂滅を観じるのは、すなわち如来の座であり、天行と名付ける。仏界以外の九法界の本性と形体を見抜くために悲を起こし、仏界の一法界の楽を与えるために慈を起こすことは、すなわち梵行である。柔和にして善の本性と形体を照らすのは嬰児行と同じであり、悪の本性と形体を照らすのは病行と同じである。また、戒・定・慧の三学の中で、善の本性と形体を照らすのはすなわち戒であり、禅定の中で静かに照らすのは定と慧であり、これが聖行である。まさに知るべきである。一心に十法界を照らすは、円教の五行が備わっているである。

また、一心の五行は、すなわち三諦三昧である。聖行はすなわち真諦三昧である。梵行・嬰児行・病行は、すなわち俗諦三昧である。天行はすなわち中道三昧である。

また、円教の三諦三昧は、完全に二十五有を破る。即空であるがために、二十五種の悪業・見思惑などを破り、即仮であるがために、二十五種の無知を破り、即中であるがために、二十五種の無明を破る。一に即してしかも三、三に即してしかも一であるがために、一空一切空・一仮一切仮・一中一切中である。このために、如来の行と名付ける。

また、如来の室は、深く十法界に遍満している。慈善根力は、本体を動じないまま、光で塵や汚れを照らし和らげ、病行の慈悲をもってこれに応じ、あらゆる身となって現わすが、耳の聞こえない、口のきけない者のようである。あらゆる教えを説いても、狂人のようであり痴人のようである。善を生じる機縁があれば、嬰児行の慈悲をもってこれに応じる。それは、幼児の声であり、玩具の牛であり、黄色の柳の葉である。入空の機縁あれば、聖行の慈悲をもってこれに応じる。『法華経』の窮子の父親が息子に近づいた時のように、糞器を持って人に怖れを抱かせる姿である。入仮の機縁あれば、梵行の慈悲をもってこれに応じる。慈善根力をもって、『法華経』の窮子の父親の本来の姿のように、立派な椅子に座り、宝の台の上に足をのせている。さらに、商売する人を他国に派遣し、貿易していない場所などないほどである。入中の機縁あれば、天行の慈悲をもってこれに応じる。優れた馬が、鞭の影を見ただけで真っすぐ走って足を緩めることがないようなものである。前なく後ろなく、並列的でなく個別的ではなく、無分別の教えを説く。あらゆる実在の本来の姿は、常に自ら寂滅の姿である。それは、弾く者がなくても鳴る阿修羅の琴のように、自然と完璧に衆生の機縁に応じる。少しずつ導いて円教に入らせる場合は、前に説いた通りである。一瞬にして円教に入らせる場合は、ここで説いている通りである。どのように入ろうとも、円教に入ればすべて等しく悟って、差別はない。別教と円教に初めて入る門を明らかにするために、慈善根力をもって、少しずつ導かれる者と一瞬にして入る者において、このように説いたのである。

また、円教の五行は、すなわち思議生滅の十二因縁・思議不生不滅の十二因縁・不思議生滅の十二因縁・不思議不生不滅の十二因縁の四種の十二因縁の智慧の行である。十二因縁の無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の内、円教の不思議不生不滅の十二因縁の識・名色などが清浄であることは、戒聖行である。行・有などが清浄であることは、定聖行、無明・愛などが清浄であることは、慧聖行である。

(注:戒・定・慧の三学の中、戒律は取捨選択することである。そのため、十二因縁の内、取捨選択が行なわれることにより、その後に変化をもたらす段階は、識・名色である。円教の場合は、これが相対的ではなく絶対的次元で行なわれるので清浄である。次の禅定は心の奥深くにおいて、すでに業が動き出した働きを観じることである。その働きは、前世からの業が動き出した行の段階であり、また今生のすべてによって来世の業を作り出す働きである有の段階である。円教の場合はこれも清浄である。次の智慧は、業そのものを照らすので、その対象は前世からの無明と今生の愛であり、円教の場合はこれも清浄である)。

円教の不思議不生不滅の十二因縁により、十二支がすべて寂滅し、また円教の前の思議生滅の十二因縁・思議不生不滅の十二因縁・不思議生滅の十二因縁の三種がなく働くのは天行である。そして、前の思議生滅の十二因縁・思議不生不滅の十二因縁・不思議生滅の十二因縁の三種の滅に同調するのは嬰児行であり、前の三種の生に同調するのは病行である。

またこれは、蔵教・通教・別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の七種の二諦の智慧の行である。円教の真諦の方便はすなわち聖行、円教の真諦の真理のままの働きは天行、七種の俗諦を悲によって応じ、七種の真諦を慈によって応じるのは梵行、七種の俗諦に同調するのは病行、七種の真諦に同調するのは嬰児行である。

(注:「俗諦」は真理に相対するものなので、それに同調するのは「病行」である。しかし、「嬰児行」の対象は単なる未熟ということなので「真諦」である)。