大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  95

『法華玄義』現代語訳  95

 

またこれは別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の三諦の智慧の行である。俗諦の中の善行は戒聖行、真諦の中の禅定は定聖行、真諦の智慧は慧聖行、中諦は天行、五種の俗諦の苦を抜き、五種の真諦と中諦の楽を与えるのは梵行、五種の俗諦に同調するのは病行、五種の真諦と中諦に同調するのは嬰児行である。

またこれは一実諦の智慧の行である。一実諦の道共戒(どうぐかい・悟り得た道そのものが戒として働くこと)は禅定であり、智慧は聖行、一実諦そのものは天行、真理において人々と同体であるという慈悲が働くことは梵行、相対的な次元において働くことは病行と嬰児行である。

観心の円教の五行とは、ここまで述べて来た円教の行は、遠くに求めるものではない、ということである。心においての働きであると同時に、心そのものである。すべての実在においては、そのすべてに安楽の本性がある。すなわち、心の本性である心性を観じることを上定とする。心性は即空・即仮・即中である。五行・三諦などのすべての仏の教えは、心にすべてが備わっている。修行の最初の心に、すでに如来の行が備わっている。そのために、『法華経』に記されている通り、どのような初歩の段階であっても、仏の道を歩む者は如来のように供養すべきなのである。どの方角に向かっても礼拝し、至るところに塔を建てるべきなのである。それはそこに仏の全身の舎利があるからである。修行の最初でさえ、このようであるのだから、ましてや、円教の位では言うまでもなく、そして円教の最終段階である十住の位に入ったならば、さらに言うまでもない。

(注:間もなく「行妙」の段落が終り、続いて「位妙」の段落となり、そこで「位」について詳しく述べられる)。

『地持経』に「自性禅より一切禅が発せられる。一切禅に三種ある。ひとつは現法楽禅であり、すなわち実相空慧、中三昧である。ふたつに出生一切種性三摩跋提である。二乗の八背捨・八勝処のことである。すなわち真三昧である。みっつに利益衆生禅である。すなわち俗三昧である」とある。まさに知るべきである。五行・三諦は「一切禅」の中においてすべて成就する。すなわち初住の位である。この位に入る時は、仏の教えでないものはない。これを円心の行とする。前に説いた五行の次第の意味と同じである。

まさに知るべきである。次第することは麁であり、一行が一切行であることを妙とする。これは相待妙の意味である。もし、開麁顕妙を行なえば、麁に相対するものはない。すなわち絶待妙の行妙の意味である。

問う:『法華経』において、麁を開けば麁はすべて妙に入る。『涅槃経』はどのような意味でさらに次第する五行を述べているのか。

答える:『法華経』は、仏が世にいた時代の人のために、権を破って実に導いたのであり、もはや麁はなく、教えの意味はすべて整っていた。一方、『涅槃経』は、末代の一般の人々の見思惑の病重く、一つの真理の言葉に執着して、方便を誹謗して、真理の甘露が与えられても、具体的な事例に左右されて、それがそのまま真理であることがわからない。それでは命を傷つけ、早死にしてしまうために、戒・定・慧をもって大いなる涅槃を表わすのである。『法華経』の真意を得れば、『涅槃経』のような次第は用いる必要はない。

(注:ここで行妙は終わる)。