大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  99

『法華玄義』現代語訳  99

 

b.中の薬草

中の薬草の位は、すなわち声聞と縁覚の二乗である。これはそれぞれの修行の結果に基づいて位を判別するのである。以前の解釈の中に、「『成実論』では深く大乗を解き明かし、菩薩の義を解釈するのである」とあるが、これは誤りである。この論主自ら「今正しく自ら三蔵の中の真実の義を明らかにする」と言っているが、この真実の義とは三蔵であり空のことである。論主がこのように述べているのであるから、この教えはそれ以上のものはない。

これすなわち空の教えでは、二十七賢聖(にじゅうしちげんじょう)における煩悩を抑えて断つ位を明らかにし、阿毘曇の有門(うもん)では七賢・七聖(しちけん・しちしょう・後に説明あり)の煩悩を抑えて断つ位を明らかにしている。詳しくは『成実論』と『阿毘曇論』に記されている通りである。

(注:これ以降の記述は、智妙の箇所でも説かれたことである。つまり、各行位で働く智慧について述べられるわけであり、それは見る立場が変わったということだけである。つまり本来、「境」と「智」と「行」と「位」は全く同時のことであるから、繰り返されるのも当然なのである。このように、『法華玄義』の中では、結局同じことが再び述べられる箇所が非常に多い。このような繰り返しは、最初にも指摘したが、天台大師も筆録者の章安灌頂も認識していたと考えられる。繰り返し述べられれば、それだけ確実に学べるということである。しかし、現代ではこのような論法は歓迎されないのも事実である)。

◎声聞

ここでは概略的に、有門の中の薬草の位をあげる。最初に七賢を明らかにして、次に七聖を明らかにする。

(注:声聞の位については非常に細かく項目も多い)。

1.七賢

七賢(=七方便)とは、第一に五停心(ごじょうしん・初賢(しょけん)の位と表現される)、第二に別相念処(べっそうねんじょ)、第三に総相念処(そうそうねんじょ)、第四に煗法(なんぽう)、第五に頂法(ちょうほう)、第六に忍法(にんぽう)、第七に世第一法(せだいいっぽう)である。これらにすべて「賢」という名称が付けられていることは、「聖」の手前の段階を賢と称しているからである。よく教えを解釈し、誤った考えを抑え、真実を伝える教えを通してその真実を悟るために、聖の手前というのである。また、他の宗教の魔に騙されている誤った教えは、本能的な衝動や誤った見解に翻弄されて、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦を知らない。この七賢の位の人は、明らかに四諦を知っている。『涅槃経』に「私は昔(注:正しい教えに出会っていなかった時を指す)、あなたたちと同じく四つの真諦(=四諦)を知らなかった」とある。四諦を見るということは、本能的な苦しみに対処する四諦を知り、誤った見解に対処する四諦を知れば、すべて明らかとなるということである。もし四諦を理解すれば、すなわち見るところすべて真実にして正しく、誤った見解などないために、これこそ賢人の姿ということである。

〇初賢

第一に初賢の位とは、五停心を学び、それによる観心によって五つの煩悩を破ることである。すなわちこれが、初賢の位である。

(注:「五停心」とは、禅定に入る前の心を落ち着かせる段階の観法のこと。欲望の対象の実体は汚れたものだと観じて欲望を消す「①不浄観」、怒りの対象に対して慈悲の心を起こして怒りを消す「②慈悲観」、自分を中心とした誤った思考を、因縁の法則を観じることによって正す「③因縁観」、禅定にあたって、意識が朦朧としたり、眠気や体の痛みなどのさまざまな妨げに対して、仏を念じて仏の力によってそれらの妨げを除く「④念仏観」、呼吸を数えることによって心を集中させる「⑤数息観(すそくかん)」の五つである。この「五停心」で五つの煩悩を破るとは、「①不浄観」によって貪欲を抑え「②慈悲観」によって怒りを抑え、「③因縁観」によって愚痴を抑え、「④界分別観」によって我執を抑え、「⑤数息観」によって散心を抑えること)。

なぜなら、誤った教えを受けている者は、三宝四諦を知らずに、生死に深く染まっている。人が三宝に帰依し、四諦を理解して悟りを求める心を起こし、生死の執着から離れて涅槃の楽を求めようとすれば、五つの煩悩はそれを妨げようとして四諦を観じさせないようにする。この五停心を修して成就すれば、煩悩は破られ道が明らかとなり、修行と理解が伴うために、初賢と名付けるのである。

〇別相念処

第二に別相念処(べっそうねんじょ・四念処を別々に観じるという意味。四念処については後述)の位とは、五つの煩悩の妨げがすでに除かれることをもって、観心の智慧が働き、よく四諦を観じて、しかも正しく苦諦をもって最初の教えとし、四念処観(しねんじょかん・四念処とは、世のものは無常であるという諸行無常を観じる心念処(しんねんじょ)、この世は苦しみであるという一切皆苦(いっさいかいく)を観じる受念処(じゅねんじょ)、この世は汚れているという不浄観の身念処(しんねんじょ)、自我というものはないという諸法無我(しょほうむが)を観じるという法念処(ほうねんじょ)の四つ)を修して、四顛倒(してんどう・無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と認識する誤り)を破る。慧解脱(えげだつ・知性的な理解のみの解脱という意味)を本性としている人は、ただ理性の次元での四念処観を修して、理性の次元での執着である四顛倒を破るのみである。俱解脱(ぐげだつ)の人は、理性的次元のみならず具体的次元を伴った四念処観を修して、具体的次元と理性的次元の四顛倒を破る。無礙解脱(むげげだつ)を本性としている人は、理性的次元の四念処観と理性的次元のみならず具体的次元を伴った四念処観に加えて、仏教以外のすべての教えにも通じる四念処観を修して、すべての理性的及び具体的及び教学的四顛倒を破る。善巧方便(ぜんぎょうほうべん)は、四念処観の中において、四正勤(ししょうごん・①「断断」―既に生じた悪を除くように勤めること。②「律儀断」―まだ生じない悪を起こさないように勤めること。③「随護断」―まだ生じない善を起こすように勤めること。④「修断」―既に生じた善を大きくするように勤めること)の精進があって、四如意足(しにょいそく・①「欲神足」―すぐれた瞑想を得ようと願うこと。②「精進神足」―すぐれた瞑想を得ようと努力すること。③「念神足」―心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること。④「慧神足」―智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること)の禅定を修す。そして五根(ごこん・修行における根本的な五つの要素。①信根、②精進根、③念根、④定根、⑤慧根のこと)を生じさせ、五力(ごりき・五根から生じる力のこと。すなわち①信力、②精進力、③念力、④定力、⑤慧力)をもって五つの煩悩を破る。そして七覚支(しちかくし・悟りを七種類に分けたもの。①念覚支―瞬間の心の現象を自覚すること。②択法(ちゃくほう)覚支―教えの中から真実のものを選ぶこと。③精進覚支。④喜覚支―悟りの喜びを感じること。⑤軽安(きょうあん)覚支―心身に軽やかさを感じること。⑥定覚支―心が集中して乱れないこと。⑦捨覚支―対象に囚われないこと)を分別し、八正道(はっしょうどう・悟りに至る八種類の徳目。①正見(しょうけん)―正しい見解。②正思(しょうし)―正しい思考。③正語(しょうご)―正しい言葉。④正業(しょうごう)―正しい行ない。⑤正命(しょうみょう)―正しい生活。⑥正精進(しょうしょうじん)―正しい努力。⑦正念(しょうねん)―正しい心の働き。⑧正定(しょうじょう)―正しい禅定)を安穏に行じる。よく四諦を観じ、四念処を別々に観じる別相念処の位を成就するのである。

(注:この「別相念処の位」の説明において、いわゆる小乗仏教つまり声聞の教えにおけるすべての修行方法を三十七種類として集めた「三十七道品(さんじゅうしちどうほん)」を網羅している。あらためてここに整理すると、「四念処」の四つで①身念処、②受念処、③心念処、④法念処、「四正勤」の四つで⑤断断、⑥律儀断、⑦随護断、⑧修断、「四如意足」の四つで⑨欲神足、⑩精進神足、⑪念神足、⑫慧神足、「五根」の五つで⑬信根、⑭精進根、⑮念根、⑯定根、⑰慧根、「五力」の五つで⑱信力、⑲精進力、⑳念力、㉑定力、㉒慧力、「七覚支」の七つで㉓念覚支、㉔択法覚支、㉕精進覚支、㉖喜覚支、㉗軽安覚支、㉘定覚支、㉙捨覚支、「八正道」の八つで㉚正見、㉛正思、㉜正語、㉝正業、㉞正命、㉟正精進、㊱正念、㊲正定の三十七種となる。

あくまでもこれらの項目は、四教の分類の蔵教であって、必ずすべての修行者はこれらを修行して少しずつ位を上げて、やがて円教に至るということを教えているのではない。もちろん、この最初から修して位を上げていく者もいない、ということではないが、かえってそのような修行者は能力の低い人とされるのである)。