大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 100

『法華玄義』現代語訳 100

 

〇総相念処

第三に、総相念処(そうそうねんじょ・四念処を別々ではなく総合的に行なうという意味)の位とは、前にすでに別相念処の智慧をもって四顛倒を破っているが、ここでは、深く微細な観心の智慧をもって総合的に四顛倒を破るのである。あるいは、境と観心を共に総合的に行じ、境を個別として観心を総合に行じ、境を総合し観心を個別的に行じ、あるいは、五陰の中、二、三、四、五を総合的に観じることをすべて総相観と名付ける。その中で、また巧みな方便をもって、よく四正勤・四如意足・七覚支・八正道を生じさせ、速やかに次の教えの段階に入るために、総相念処の位と名付けるのである。

〇煗法

第四に、煗法(なんぽう・=煖法。煗/煖とは暖かいという意味)の位とは、別相念処と総相念処の観心をもって、よく十六諦観(じゅうろくたいかん・四諦の苦諦に非常、苦、空、非我の四つ、集諦に因、集、生、縁の四つ、滅諦に滅、静、妙、離の四つ、道諦に道、如、行、出の四つ、すべてで十六の境を観じること)を発して、仏の教え独特の流れをつかむことである。たとえば、火を起こす時にまず煙が出るように、また春の日差しが暖かさをもたらすようなものである。智慧をもって境を照らせば、真理に近づく理解を発する。その理解を暖かさに喩えるのである。また、春夏に草花を集めれば、自然と熱が生じるようなものである。四諦智慧をもって、あらゆる行を集めれば、行の功徳が積み重なり、智慧の理解が起こる。そのために「煖=煗」と名付けるのである。すなわちこれは内凡(ないぼん)の初位である。まだ悟りを開いていないので凡夫(ぼんふ)であるが、自らの内に真理を求めるので内凡という。これは仏教以外の外道にはない。これを煖法の位と名付ける(注:原文では前に「煗法」とあり、ここでは「煖法」と表記されているが、意味は全く同じである)。

〇頂法

第五に、頂法(ちょうぼう)とは、さらに真理に近づくことが増して、四如意足の禅定を得て十六諦観がさらに明らかとなる。煗法の上にあることは、山の頂上に登って四方を眺めると、すべて明らかに見えるようなものである。このために頂法と名付けるのである。

〇忍法

第六に、忍法(にんぽう)の位とは、またさらに真理に近づくことが増長し、五根が増し加わる。四諦の中においてよく忍んで真実の楽を求めるために、忍法の位と名付ける。十六諦観のひとつひとつを観じることを下忍といい、次第に対象を減少させていくのに従って中忍・上忍となるが、すべて忍法の位である。

〇世第一法

第七に、世第一法(せだいいっぽう=世間第一法)の位とは、前段階の忍法の上忍の一刹那に、凡夫において最高の行を成就することを世間第一法とするのである。これは、前に述べた智妙の段落においてすでに説いている。

 

2.七聖

七聖の位とは、前の七賢が凡夫の段階であったことに対して、この位は聖人の段階である。この位に七つの段階があるので七聖という。第一に随信行(ずいしんぎょう)、第二に随法行(ずいほうぎょう)、第三に信解(しんげ)、第四に見得(けんとく)、第五に身証(しんしょう)、第六に時解脱羅漢(じげだつらかん)、第七に不時解脱羅漢(ふじげだつらかん)である。これらをすべて聖と名付けるのは、正しいという意味である。行の苦しみを忍ぶ智慧が発して、凡夫の本性を捨てて聖人の本性を得て、真実なる智慧をもって真理を見るために聖人と名付ける。

さらにこの聖人の位に三つある。見道(けんどう・四諦の真理の教えを明瞭に見る位)、修道(しゅどう・四諦の真理をあらゆる事例に当てはめて修す位)、無学道(むがく・もはや学ぶべきものがなくなった位。これに対して見道と修道の二つは有学(うがく)という)の三つである。

○随信行

第一に随信行の位とは、能力が劣った人が見道に入るために名付けられる。自らの智慧の力ではなく、人から学んで理解している段階である。この人は方便の道にあって、まず信心があるといっても、真実を学んでいないので信という言葉をつけて、純粋に行とはいわない。信行の行とは「進む」という意味である。見道において四諦によって十六心が起こる。十六心とは、苦法智忍(欲界の苦諦を具体的に観心し、煩悩を断じること)、苦法智(欲界の苦諦を具体的に観心し、苦諦の真理を証しすること。以下意味的には、集諦、滅諦、道諦も同様)、集法智忍、集法智、滅法智忍、滅法智,道法智忍、道法智。そして苦類智忍(色界と無色界の苦諦を具体的に観心し、煩悩を断じること)、苦類智(色界と無色界の苦諦を具体的に観心し、苦諦の真理を証しすること。以下意味的には、集諦、滅諦、道諦も同様)、集類智忍、集類智、滅類智忍、滅類智、道類智忍、道類智の十六であり、十六刹那ともいう。この位では、この十六心の最初の苦法智忍から十五番目の十五刹那の道類智忍まで進み、真理を見る。このために、随信行の位と名付ける。

○随法行

第二に随法行の位とは、すなわち能力の高い人が見道に入るために名付けられる。能力が高いとは、自ら智慧の力をもって真理を見て煩悩を断じることである。七賢(=七方便)にあってよく自ら観心を用いて四諦の法を観じ、まだ真理を悟っていないので、純粋に行とはいわない。七賢の最後の世第一法によって、十六心の最初の苦法智忍から十五番目の十五刹那の道類智忍まで進み、真理を見るために、随法行の位というのである。

○信解

第三に信解の位とは、すなわち随信行の人が修道に入ることを、信解の人と名付けるのである。能力の劣った人は、信心によって進んで真実の理解を発するので、信解と名付ける。この人の証果に三つある。それは三果である(注:声聞の位には四果あるが、まずその中の三果をあげている)。

「初果=須陀洹」

初果を証するとは、十六心の最後の道類智に応じて須陀洹(しゅだおん・流れに預かるという意味。預流果ともいう)を証する。漢語では修習無漏(しゅうじゅうむろ)と翻訳する。『成実論』では「なおこれは見道の段階である」とある。説一切有部(せついっさいうぶ・法則的なものは不変に存在するという主張をもった小乗仏教の中では最大の部派)では、証果すれば修道に入るとする。これを用いて修習無漏の義を説明すると便利である。見道が断じることは、略して有身見結(自分の認識を自我だとする煩悩)、戒禁取結(誤った戒律に対する執着)、疑結(疑い)の三結(結=煩悩)が尽きることだとし、広くは八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする教え)と説かれる。この位に上れば、遅くとも七回生まれ変わって、その次には輪廻から解放されるとする。

「二果=斯陀含」

二果を証するとは、ここにも二種類ある。一つは「向(こう・果に向かっているという意味)」であり、二つは「果」である。向とは、初果の心を得て後、さらに十六諦観を修して、七菩提行(しちぼだいぎょう・三十七道品の中の七覚支のこと)が現前することであり、すなわち、この世において無漏をもって煩悩を断じる。一つの無礙道(むげどう・煩悩を断じつつある状態)によって、欲界の全部で九品(くほん・上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下の九種類の煩悩)」ある煩悩のうち、ひとつを断じ、そのようにして五品の煩悩を断じる。これはみなこの向の位で行なわれる。また勝進須陀洹(しょうしんしゅだおん)とも名付けられる。これによって、家家(けけ・人界と天界を行ったり来たりすること)という。また二つめの果とは、六品の煩悩を断じ尽くして、欲界の第六番目の解脱を証することは、斯陀含果(しだごんか・一度、天界に生まれて、再び人界に戻って来て声聞の悟りを開く段階。一来(いちらい)ともいう)である。インドでは「薄(はく)」という。欲界の煩悩を薄くするためである。

「三果=阿那含

三果である阿那含(あなごん・欲界には二度と戻って来ない位なので不還ともいう)を証することにおいて、また向と果の二つがある。向とは、欲界の七品ないし八品を断じることを向と名付け、また、勝進斯陀含(しょうしんしだごん)とも名付けられる。この段階では、一度欲界の人界あるいは天界に生まれるという。そして果とは、九無礙(注:九種類の煩悩が断じられつつある段階)に欲界の煩悩を断じる。第九の煩悩を断じることによって阿那含果と名付ける。インドでは「不還(ふげん)」という。欲界に還らないためである。

「阿羅漢果」

また、「須陀洹」「斯陀含」「阿那含」について再び述べると、須陀洹は三種あることになる。一つめは修行中の須陀洹である。すなわち向である。二つめは住果(じゅうか・果を得たということ)である。正しくはこれが須陀洹である。三つめは勝進須陀洹である。また家家と名付ける。すなわちこれは斯陀含向である。そして斯陀含にはただ二種あるのみである。一つめは住果、二つめは勝進斯陀含である。この勝進斯陀は一種子と名付ける。すなわち阿那含向である。そして阿那含にはまた二種ある。一つは住果、二つめは勝進阿那含である。この勝進阿那含は五上分結(ごじょうぶんけつ・色界と無色界の煩悩の五つの縛りのこと。色貪結、無色貪結、掉挙結(じょうこけつ・頭に血が上った状態のこと)、慢結、無明結)を断じる。これは色界・無色界の煩悩のことである。そしてこれは阿羅漢向(あらかんこう・阿羅漢は声聞の最後の第四果のこと。阿羅漢は聖者という意味)である。そして阿羅漢は一つだけである。すなわち住果である(注:つまりこの最初の三果は向と果に分ければ、それぞれ重なりながら位を上げて行くということであり、そうして最後の四番目の果である阿羅漢に到達するというのである)。

「超果」

また次に超果(ちょうか・向と果を順番に上るのではなく飛び越えて進むこと)とは、凡夫の時、欲界の六品あるいは八品の煩悩を断じ尽くして、見道に入り、十六心の最初の苦法智忍の智慧を発する。十五心までは斯陀含向である。十六心ですなわち斯陀含果を証する。もし凡夫の時、先に欲界の九品の煩悩を断じ尽くして、そして無色界の無所有処まで尽くし、後に見道に入るならば、十五心までは阿那含向と名付け、十六心ですなわち阿那含果を証する。これを超越(ちょうおつ」の人が須陀洹果を超越して斯陀含果を証することであり、また須陀洹果と斯陀含果を超越して阿那含果を証することとする。

この第三の信解の位は、阿羅漢の最後の段階である不動法阿羅漢(ふどうほうあらかん・阿羅漢果にあって動じないという意味)ではなく、動であるが、それぞれ能力は同じではない。すなわち、退法阿羅漢(たいほうあらかん・阿羅漢の悟りから退きやすい者)、護法阿羅漢(ごほうあらかん・退かないよう守る者)、思法阿羅漢(しほうあらかん・退くことが絶対にないよう自殺まで考える者)、住法阿羅漢(じゅうほうあらかん・その位に留まって進みもしなければ退きもしない者)、進法阿羅漢(しんぽうあらかん・さらに位を上げる者)の五種の阿羅漢である。もし阿那含果を証するならば、それぞれ五種般(ごしゅはつ)・七種般(しちしゅはつ)・八種般(はっしゅはつ)がある。五種般とは、中般(ちゅうはつ・欲界で死んで色界に生まれる時、その中間の中有(ちゅうう・いわゆる「よみ」)において涅槃を得る(般涅槃))、生般(しょうはつ・色界に生まれてからすぐに般涅槃する)、行般(ぎょうはつ・色界に生まれてから長い間修行して般涅槃する)、不行般(ふぎょうはつ・色界に生まれてから修行しないまま長い間を経て般涅槃する)、上流般(じょうるはつ・色界に生まれ、さらに無色界の最高の天まで生まれて般涅槃する)を指す。七種般とは、中般を分けて、般涅槃する期間の長短によって速般・非速般・経久の三種としたものであり、八種般とは、五種般に現般(げんはつ・欲界にあるままで般涅槃する)、無色般(むしきはつ・欲界で死んで次の色界ではなく無色界で般涅槃する)、不定般(ふじょうはつ・三界のどこで般涅槃するか定かではない)の三つを加える。