大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 101

『法華玄義』現代語訳 101

 

「見得」

第四に見得(けんとく)の位とは、随法行の人が修道に入ることを、見得と名付ける。これは能力の高い人が、自ら智慧の力をもって教えを見て、真理を見るために、見得と名付ける。この人は修道にあって、順に須陀洹・斯陀含・阿那含の三果を証する。また超越(ちょうおつ)の人が須陀洹果を超越して斯陀含果を証すること、あるいは須陀洹果と斯陀含果を超越して阿那含果を証することの二果についても、また信解の位の中で説明した通りである。ただその異なる点は、能力の高い人であるため、教えに頼らず、あらゆる道具なども用いずに、自らよく教えを見て、真理を見るのである。見得は、ただ不動の根性を持つ者のみである。もし、阿那含果を証するならば、前に述べたように、五種般・七種般・八種般の違いがある。

「身証」

第五に身証(しんしょう)の位とは、信解と見得の位の人が修道に入り、無漏智を用いて、欲界・色界・無色界の煩悩を断じ、色界の四禅と無色界の四無色定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を発する。すなわち、四念処が総合的に行なわれる共念処(ぐうねんじょ)を用いて、八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)、八勝処(はちしょうしょ・八通りの認識の対象を観じて執着を捨てる方法)、十一切処(じゅういっさいしょ・すべての実在を十種類に分類して観じる方法)を修し、九次第定に進み、空解脱門(くうげだつもん・すべては実体がないと見ること)・無相解脱門(むそうげだつもん・自分を中心とした相対的存在はすべて存在しないと見ること)・無願解脱門(むがんげだつもん・願うところをすべてなくすこと)の三解脱門により、目に見える事柄と目に見えない事柄における煩悩を断じ尽くす。また、無色界の煩悩を断じ、四諦の真理をもって心と心の働きを滅して、滅尽定(めつじんじょう・感覚、意識のはたらきをすっかり止めてしまう禅定)に入る。この禅定を得るために、阿那含果を身証するというのである。なぜなら、滅尽定に入れば、涅槃に似た状態を身の中に安置して、三界のすべての労務を止め、身に認識作用が滅ぼされたことを証するために、身証というのである。もし初果について身証を説けば、ただまず凡夫において有漏智を用いて煩悩を断じ、四禅・四無色定を得ることをもって、後に見道に入り、十六心に阿那含果を証し、共念処を修す。そして欲界において八背捨・八勝処・十一切処を修し、九次第定に入ることは、身証である。この阿那含果に二種ある。ひとつは住果であり、これはただ阿那含果に留まるだけであるが、二つめは帯果行向(たいかぎょうこう・阿那含果を保ちつつ次の阿羅漢果に進むこと)であり、すなわちこれは勝進阿那含である。またこれは阿羅漢果の向を取ることである。『大智度論』に「阿那含に十一種ある。五種はまさしく阿那含であり、後の六種は阿羅漢果の向を取ることである」とある。この身証とは、すなわちこの勝進阿那含であり、阿羅漢果の向を取ることである。五種般・七種般にそれぞれさらに上に向かう上流般がある。しかし順序がない八種般には、ただ現般・無色般だけがある。『阿毘曇論』に阿那含を分別して一万二千九百六十種がある。

「時解脱羅漢」

第六に時解脱羅漢(じげだつらかん)の位とは、これは信行の劣った能力の人である。時間をかけ、あらゆる条件がそろうのを待って、ようやく解脱するために、時解脱羅漢と名付ける。羅漢(=阿羅漢)には漢語の翻訳はない。この言葉の意味に三つある。殺賊(せつぞく・賊である煩悩を滅ぼしたという意味)・不生・応供(おうぐ・供養を受けるにふさわしという意味)」である。位は、これ以上学ぶ必要がないという無学である。羅漢に五種ある。随信行において退法阿羅漢・護法阿羅漢・思法阿羅漢・住法阿羅漢・進法阿羅漢の五種が生じる。智慧を尽くし、もはやこの位の人に差別はない。金剛三昧(こんごうざんまい・最後の煩悩を尽くして阿羅漢果を得る禅定のこと)を用いて、無色界の非想非非想処の九品の煩悩を尽くし、次の瞬間に非想非非想処の第九の煩悩からの解脱を証して智慧を尽くせば、何ら差別のない無学を得る。あるいは、この時に退く者もいるので、四諦智慧を尽くしたという無生智を得たとは説かない。この五種の阿羅漢は、信種性(しんしゅしょう)である。能力が劣っていて、修行する時に、必ず衣食、床具、居場所、説法および人の手を借りて修行を進めるのみであり、意のままにすべての時に修行をすることはできない。この五種それぞれに二種ある。滅尽定を得ない人は、ただ慧解脱のみである。滅尽定を得る人は、すなわち俱解脱(ぐげだつ)である。もし滅尽定を得なければ、この人は修行中にただ性念処(しょうねんじょ・観心だけを行なうことを修すことになる。もし滅尽定を得れば、この人は修行中に性念処と共念処を修すことになる。果を証する時、三明(さんみょう・悟りの三つの智慧。自他の過去世のあり方を自由に知る宿命明、自他の未来世のあり方を自由に知る天眼 (てんげん) 明、煩悩を断って迷いのない境地に至る漏尽明)と八背捨を一時に得るために俱解脱と名付ける。

「不時解脱羅漢」

第七に不時解脱羅漢(ふじげだつらかん)の位とは、すなわち随法行の能力の高い人であり、不動法の阿羅漢と名付ける。この人は果の因となる修行において、すべての時に願うところに従って善業を修し、他の条件を待つことないために、不時解脱と名付ける。この人は煩悩が動かすことがないので、不動と名付ける。不動は不退の義がある。尽智・無生智・無学等見の三智を成就する。よく重空三昧(じゅうくうざんまい・空空三昧ともいう。すべてが空であると観じることが空三昧であるが、その空さえも空と観じること)」を用いて聖の善法を撃つ。禅定をもって禅定を捨てるために、「撃つ」と表現するのである。この不動羅漢にまた二種ある。一つは滅尽定を得ない人は、ただ慧解脱のみである。滅尽定を得る人は、すなわち俱解脱である。もし仏の三蔵教の教門を説くことを聞き、縁念処(えんねんじょ・総合的に戒律と禅定の中において観心の智慧を明らかにすることを共念処といい、他のことは本性として備え、観心のみを明らかにすることは性念処といい、行の境に対する智慧や文字などを扱うことは、悟りの条件(縁)であるので縁念処という)を修して四弁(しべん・法無礙弁、義無礙弁、辞無礙弁、楽無礙弁)を発するので無礙解脱と名付ける。これを波羅蜜の声聞と名付ける。よく究極に達しすべての阿羅漢の功徳を備えるためである。沙門那(しゃもな・沙門の原語シャマナの音写語)とは沙門果である。

 

◎縁覚

中の薬草の位の二番目は、辟支仏(びゃくしぶつ・原語の略音写語)の位である。漢語では「縁覚(えんがく・十二因縁を悟ったという意味)」と翻訳される。この人は前世において福徳が厚く、神根猛利(じんこんみょうり)にしてよく集諦を観じて仏の道に入る。『大智度論』には「独覚(どっかく・ひとりで悟ったという意味)」あるいは「因縁覚」と称する。もし仏のいない時代に生まれ、自然と道を悟るならば、すなわちその人は独覚である。もし仏のいる時代に生まれ、十二因縁の教えを聞き、これを受け入れて道を得れば、その人は因縁覚と名付けられる。仏のいない時代に生まれる独覚には小と大がある。小とは、もともと有学の人であり、仏が滅度した後に生まれ、七回生まれ変わって八回目は生まれ変わらない段階に上り、自然と道を成就するなら、仏とはいわない。また阿羅漢でもない。小辟支迦羅(しょうびゃくしから・辟支迦羅も原語の略音写語)と名付ける。その霊的力を論じれば、大阿羅漢である舎利弗も及ばない。大とは大辟支迦羅である。二百劫の間、功徳を積んで、その身に仏の三十二相を得て、三十二相でなければ三十一、三十、二十九ないし一相である。福徳の力は増長し、智慧が豊かである。総相念処・別相念処においてよく知り、よく入る。長く禅定を修して、常に一人居ることを願うがために、大辟支迦羅と名付けるのである。もし因縁によって大小を論じれば、またこのように分別するべきである。この人は能力が高く、その果の段階を順に経るのではなく、それでも煩悩の本を断じて、業の流れを減らす。たとえば、その身が壮大であり、行くべきところに直ちに赴き、中間で休むことはない。そのため、果の段階を設けないのである。

以上で中の薬草を終わる。