大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 103

『法華玄義』現代語訳 103

 

d.小樹

小樹の位とは、すなわちこれは通教である。通教は声聞、縁覚、菩薩の三乗に通じる教えである。この三乗の人は、共通して言葉を用いない行をもって煩悩を断じ、第一義諦に入ることを明らかにする。体法(たいほう・教えを体得すること)の観心の智慧は異ならず、ただ智慧の力に強弱があるのみである。そして煩悩が断たれた後に残る習気(じっけ・残っている気配という意味)まで尽くされているか、尽くされていないかの違いもある。まず三乗共(さんじょうぐう)の十地の位を明らかにし、次に名別義通(みょうべつぎつう・名称は別教で、その義は通教という意味。通教の人が次の段階である別教に入りやすくするための教え)を述べる。

◎十地

①乾慧地(けんねじ)

乾慧地の位とは、三乗の最初の位を同じく乾慧と名付ける。すなわちこれは体法の五停心・別相念処・総相念処の四念処観である。具体的な形は三蔵教に異なることはない。この五停心・別相念処・総相念処の法門において、五陰・十二入・十八界は幻の如く幻の化作したところと体得して、総合的に誤った見解と愛着による八倒(はっとう・この世に常・楽・我・浄があるとする誤りと、涅槃が無常・苦・無我・不浄であるとする誤りの合計八つの本末転倒)を破ることを四念処の中の身念処と名付ける。受念処・心念処・法念処も同様である。この観心の中にあって、四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を修す。まだ煗法に相当する真理を得ていないが、総相念処の智慧が深く鋭いので、乾慧地の位というのである。

②性地(しょうじ)

性地の位とは、乾慧地を過ぎて、煗法を得終り、よく最初から最後まで増進し、頂法から世第一法に入ることを、すべて性地と名付ける。性地の中の無生の方便の観心の智慧が巧みであり、前の段階よりも優れ、無漏に相当する本性を得るために、性地というのである。

③八人地(はちにんじ)

八人地の位とは、すなわち三乗の随信行と随法行の二人が見仮(けんけ・見惑が真実ではなく仮であること)を体得して、真理の智慧を発して惑を断じ、無間三昧(むけんざんまい・順序に従って間を置かず行なわれる禅定)の中にあって、八忍八智の十六心の内、八忍は具足して十五心が備わり、最後の道比智が欠けるために、八人の位と名付けるのである。

④見地(けんじ)

見地の位とは、すなわち三乗は、同じく第一義である無生の四諦の真理を見て、同じく見惑の八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする教え)を断じ尽くすのである。

⑤薄地(はくじ)

薄地の位とは、愛仮(あいけ・思惑が真実ではなく仮であること)が真理であることを体得して、九品の煩悩のうちの六品に対する無礙を発し、欲界の六品の煩悩を断じて、第六の解脱を証し、欲界の煩悩を薄くするのである。

⑥離欲地(りよくじ)

離欲地の位とは、すなわち三乗の人は、愛仮は真理だと体得して、欲界の五下分結(ごげぶんけつ・欲界の煩悩の五つの縛りのこと。有身見結(自分の認識を自我だとする煩悩)、戒禁取結(誤った戒律に対する執着)、疑結、欲貪結、瞋恚結)を断じ尽くして、欲界の煩悩を離れる。

⑦已辨地(いべんじ)

已辨地の位とは、すなわち三乗の人は、色界・無色界の愛仮は真理だと体得して、真実の無漏を発し、五上分結(ごじょうぶんけつ・色界と無色界の煩悩の五つの縛りのこと。色貪結、無色貪結、掉挙結(じょうこけつ・頭に血が上った状態のこと)、慢結、無明結)、七十二品(色界の四禅(しぜん・色界における禅定の四つの段階)と無色界の四空処(しくうしょ・無色界における空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の四つの段階)の八つにそれぞれ九品の思惑の煩悩があるとして、8×9=72となる)を断じ尽くす。三界のすべての煩悩を断じることを究竟するために、已辨地という。

⑧辟支仏地(びゃくしぶつじ)

辟支仏地の位とは、三乗のうちの縁覚と菩薩は、真無漏を発して、功徳が偉大であるため、よく煩悩の残りの気配である習気(じっけ)までを除くのである。

⑨菩薩地(ぼさつじ)

菩薩地の位とは、空より仮に入り、道観双流(どうかんそうる・人を教化することと観心することが両方ともよく行なわれること)する。深く二諦を観じ、進んで習気と色心の無知を断じ、法眼・道種智を得て、神通力を自由自在にして、仏国土を清め、衆生を導く。仏の十力(じゅうりき・仏の持つ十種の智慧の力)と四無所畏(しむしょい・仏の持つ恐れのない四つの事がら)を学んで、習気を断じ、それを尽くそうとするのである。このために「小樹」の位と名付ける。

⑩仏地(ぶっじ)

仏地とは、大いなる功徳の力により智慧を発揮し、一念相応(いちねんそうおう・禅定と完全に一致するという意味)の智慧をもって真諦を観じて究竟し、習気もまた究竟する。劫火(ごうか・世界中を焼き尽くす火)が木を焼けば炭さえ残らないように、また象が川を渡る時、足が川底につくようなものである。菩薩と仏は、名称は声聞と縁覚の二乗と異なるとはいえ、共通して無生の真理を観じる。同じく無学である。有余涅槃(うよねはん・涅槃は得たが肉体が残っている状態を指す)と無余涅槃(むよねはん・涅槃を得て肉体も滅んだ状態を指す)の二つの涅槃を得て、共に灰断(けだん・無余涅槃と同義であるが、身も智慧も何もかもなくなることを指す)に帰す。果を証得するところがひとつであるため、通というのである。