大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 104

『法華玄義』現代語訳 104

 

◎名別義通

先に三乗共(さんじょうぐう)の位である十地について述べたが、次に名別義通(みょうべつぎつう・名称は別教で、その義は通教という意味。通教の人が次の段階である別教に入りやすくするための教え)を述べる。そしてここに、さらに二つある。一つめは、「意義は三乗に共通」ということである。すなわち、三乗共の位の中において、菩薩は別に忍の位の名を立てるが、意義は三乗に共通している。二つめは、「意義は通教」ということである。すなわち、別教の名を用いるが、名称は別教のものであっても、意義は通教である。通教の詳しい意義はすでに前に述べた通りである。

 

○意義は三乗に共通

①伏忍

意義は三乗に共通ということにおいては三つある。菩薩のために別に伏忍(ぶくにん)、柔順忍(じゅうじゅんにん)、無生法忍(むしょうぼうにん)の名を立てる。十地の第一の乾慧地(けんねじ)は、三乗の三人同じく見惑を抑える。しかし菩薩はさらに伏忍という位の名を加えるのは、菩薩は、因縁はすなわち空であると信じて、無生の四諦において、その心を定め、四弘誓願を起こすからである。衆生は虚空のようだと知ってはいても、心を発してすべての衆生を悟りに導こうとする。この菩薩が衆生を導こうと願うことは、虚空を悟りに導こうとするようなものである。このために『金剛般若経』に「菩薩は、次のように心を定める。つまり、無量の衆生に悟りを得させても、実は衆生で悟りを得る者はない」とある通りである。

以上が、四弘誓願衆生無辺誓願度についてであったが、次に四弘誓願の残りの三誓願をもって心を定めることも、また同じである。これは菩薩が乾慧地にあって、五停心・別相念処・総相念処の観心を修す時に、他の二乗と異なるところである。このために、別に伏忍というのである。

②柔順忍

また次に、三乗の人は、同じく善有漏の五陰を発して、真理に向かう理解を生じ、みな見惑を抑えて、第一義に従う。しかし、菩薩だけに柔順という名称があるのは、菩薩はただ煩悩を抑えて真理に従うだけではないからである。またよくすべての衆生のために、心を調伏してあまねく六波羅蜜を行じ、すべての事柄の中、福徳の智慧を究竟させるからである。三蔵教の菩薩が、忍法の中の中忍において、三阿僧祇劫の間、六波羅蜜を行じて身命を惜しまないように、この菩薩もまた同じである。三解脱門(さんげだつもん・空解脱門(くうげだつもん・すべては実体がないと見ること)。無相解脱門(むそうげだつもん・自分を中心とした相対的存在はすべて存在しないと見ること)。無願解脱門(むがんげだつもん・願うところをすべてなくすこと)をもって、自らの認識を調伏して、衆生のために、六波羅蜜を満足するために、柔順忍と名付けるのである。

③無生法忍

また次に、三乗の人は、同じく真無漏を発する。その智慧の徳と、煩悩を断じた徳を無生と名付ける。しかし菩薩だけには無生法忍がある。真理に向かってひとつひとつの煩悩を断じても、何かを証するというような心を生じないので、別に無生法忍の名称がある。なぜなら、何かを得て証するという心を生じさせれば、すなわち声聞と縁覚の二乗の位に堕し、菩薩の第九地に入ることができないからである。

また次に、三乗は同じく神通力を得る。しかし二乗はこれを用いて衆生を導き、仏国土を清めることができないために、遊戯(ゆげ)という名称は受けることができない。菩薩はそのようにできるので、別に神通に遊戯するという名称を受ける。声聞の阿那含果では、色界の煩悩である五下分結(ごげぶんけつ・有身見結(自分の認識を自我だとする煩悩)、戒禁取結(誤った戒律に対する執着)、疑結、欲貪結、瞋恚結)を断じるといっても、深い禅定を捨てて欲界に戻って、人々に合わせて導くことはできない。衆生の汚れに合わせることができないからである。一方、菩薩はこのことができるので、別に離欲清浄(りよくしょうじょう)という名称を受ける。このために三乗の人は、同じく真諦と俗諦の二諦を観じるが、その用い方が異なっているのである。二乗は二諦を観じるといっても、一方的に仮を体得して空に入り、真諦によって煩悩を断じ、無学果に至る。菩薩もまた二諦を観じるが、最初の乾慧地から見地に至るまでは、多くの従仮入空観を用いて、三智の中の一切智と五眼の中の慧眼を得て、多くの真諦を用いる。そして次の薄地から神通に遊戯することを学んで、多くの従空入仮観を修して、三智の中の道種智と五眼の中の法眼を得て、多くの俗諦を用いるのである。続いて次の辟支仏地から従仮入空観と従空入仮観を同時に修すことを学んで、菩薩地に入り、自然と薩婆若海(さつばにゃかい・一切種智の広大なさまを海に喩えた古代インド語の音写語)に流入する。これはすなわち、物事を行なっているという意識のない心をもって、三智の中の一切種智と五眼の中の仏眼を修し、仏地が円に明らかにして、一切種智を成就する。仏眼は同じく二諦を照らすことを究竟する。このために『大智度論』に「声聞の教えの中では乾慧地と名付け、菩薩においてはすなわち伏忍である。声聞の教えには性地と名付け、菩薩の教えの中においては柔順地と名付ける。声聞の教えには八人地と名付け、菩薩においては無生忍の道と名付ける。声聞の教えには見地と名付け、菩薩の教えにおいては無生法忍の果である。声聞には薄地と名付け菩薩の教えにおいては五神通に遊戯すると名付ける。声聞の教えには離欲地と名付け、菩薩の教えにおいては離欲清浄とする」とある。

阿羅漢地は、声聞の教えにおいては仏地である。なぜなら、三蔵教の仏は、三十四心(蔵教の八忍・八智・九無碍・九解脱を合わせて三十四心という)において真理を悟り、三界の煩悩を断じ尽くすことは阿羅漢と同じであるために、仏地と名付ける。菩薩の教えの中においては、なお無生法忍と名付ける。このために『般若経』には「阿羅漢の智慧あるいは煩悩を断じることは、菩薩の無生忍である」とある。辟支仏地もまた同じである。

十地の第九番目は、支仏地を過ぎて菩薩の位に入る。菩薩の位とは、九地と十地である。これはすなわち十地の菩薩である。まさに知るべきである。それは仏のようである。しかしこの位は、習気は尽くされていない。菩薩地を過ぎてすなわち仏地に入ったとはいっても、それでは三界に生まれて衆生を導くことはできないので、習気を残し、四弘誓願をその助けとして用いて、この人間の地に生まれ、八相成道(はっそうじょうどう・釈迦が衆生を導くためにこの世に生まれて死ぬまでの行程を八種類に分けたもの。すなわち、下天、託胎、降誕、出家、降魔、成道、転法輪、入涅槃)する。八相の中の五相までは三蔵と異なることはない。ただ六相の成道は、菩提樹の下に一念相応(いちねんそうおう・禅定と完全に一致するという意味)の智慧を得て、無生の四諦の真理と相応し、すべての煩悩を断じ尽くす。大慈悲・十力・四無畏などの十八不共法(じゅうはちふぐほう・仏だけが持つ特性のこと。大慈悲、十力、四無畏、三念住(さんねんじゅう・熱心な弟子に喜ばない、不熱心な弟子を憂うことがない、弟子の様子に一喜一憂しない)の十八種)のすべての功徳を具足する。これを仏と名付ける。七相の転法輪は、権智をもって三蔵教の生滅の四諦の教えを開き、実智をもって大乗の無生の四諦の教えを説き、共通して三乗の人を教えるのである。八相の入涅槃の相は、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下に無余涅槃(むよねはん・悟っても肉体が残っている状態は有余涅槃であり、肉体も滅び尽くされるのが無余涅槃である)に入り、薪が尽きて火が消えるように、骨の舎利を残して、すべての天と人との福徳の基となった。

以上は通教の共通の位である。別に菩薩のために、この名の位を立てるのである。