大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 106

『法華玄義』現代語訳 106

 

e.大樹

大樹の位とは、別教の位である。この位について述べるにあたって、三つある。一つめは経論の不同をあげ、二つめは総合的に菩薩の位について述べ、三つめに別教の各位について述べる。

◎経論の不同をあげる

この別教の名称の意味は、真理の表現である理法・煩悩・智慧・煩悩を断じる断などについての教えがすべて同じではない、つまり別々ということである。これについて、因縁仮名(いんねんけみょう・因縁によって生じた事柄はすべて仮の個別の名称を持っているということ)、大河の砂の数ほどの仏法、如来の本性である如来蔵、常住の涅槃、無量の四諦などを用いて、位の段階を論じる。

無量の四諦に四種ある。一つめは、塵沙惑を抑えず破ることがなく、また無明を抑えず破らないことであり、二つめは、結果的に塵沙惑を抑え破ることになるが、無明を抑えず破らないことであり、三つめは正式に塵沙惑を抑え破り、また無明を抑えることであり、四つめは正式に塵沙惑を抑え破り、また無明を抑え破ることである。

(注:「正式に」と訳した言葉の意味は、「結果的に」と訳した言葉と対となる。つまり、結果的あるいは二次的にそうなるのではなく、最初からそのことを意識して、という意味である)。

一つめの塵沙惑を抑えず破ることがなく、また無明を抑えず破らないこととはどのようなことか。三蔵教の煩悩を抑える教えは、十六諦観(じゅうろくたいかん・四諦の苦諦に非常、苦、空、非我の四つ、集諦に因、集、生、縁の四つ、滅諦に滅、静、妙、離の四つ、道諦に道、如、行、出の四つ、すべてで十六の境を観心すること)があって、真理を妨げる煩悩に無量の種類があることを明らかにしている。これはすなわち見思惑を抑えることである。これは塵沙惑に関係するわけがない。たとえば、仏教以外の宗教である外道の世的な理論が、見思惑を抑えることにならないようなものである。

二つめの、結果的に塵沙惑を抑え破ることになるが、無明を抑えず破らないこととはどのようなことか。通教の已辨地の位は、三界から出て、煩悩とその対処を分別する。これは結果的には三界の塵沙惑を滅ぼすことになるが、正式に抑え破ることではない。

三つめの、正式に塵沙惑を抑え破り、また無明を抑えることとはどのようなことか。これは別教において三界の内外の四諦を分別して、無量の四諦とする。すなわちこれによって塵沙惑を抑え破り、また無明を抑える。さらにここには無明を破る意義も備えているが、この別教の特徴をわかりやすくするために、無明を抑えるとしたのである。

四つめの正式に塵沙惑を抑え破り、また無明を抑え破ることとはどのようなことか。円教の三諦は、共に法界の真理とその具体的な表われを照らして、明らかにしないところはない。自分の立っている境地における無明を破り、さらに上の境地の無明を抑える。

別教の無量の四諦は、蔵教・通教とも異なり、円教とも異なる。まさしく大河の沙の数ほどの仏法に基づいて名称を当てているのである。

しかし、実際は、無量の四諦は互いの四諦と関係性をもつのである。順序に従って論じれば、結果的にそうなるものと、最初から正式にそのようになるものとの違いがある。一つは、最初に無量の四諦に対して発心して誓願を立てるもの。二つめは、最初に正式に生滅の四諦をもって、通教の見思惑を抑え、結果的に無生の四諦と無量の四諦と無作の四諦を修すことになるもの。三つめは、正式に無生の四諦をもって通教の見思惑を破り、結果的に無量の四諦と無作の四諦を修すことになるもの。四つめは、正式に無量の四諦をもって、三界の内外の塵沙惑を破る。五つめは、正式に無作の四諦を用いて無明を抑える。六つめは、正式に無作の四諦を用いて、無明を破る。

このように、無量の違いがあるので、このため、経論における名称の数、煩悩を断じたり抑えたりすることの高下、あらゆる教えの形を見ると、多くの不同がある。たとえば、『華厳経』では四十一地(華厳経における位の立て方)を説く。それは三十心・十地・仏地の合わせて四十一地である。『瓔珞経』では五十二位を説く。『仁王般若経』では五十一位を説く。『新金光明経』ではただ十地と仏果をあげるのみである。『勝天王般若経』では十四忍を説く。『般若経』ではただ十地を説くのみである。『涅槃経』では五行(聖行・梵行・天行・嬰児行・病行)・十功徳を説く。その意義から見れば、それは三十心・十地・仏地を開いたものと考えられる。そのため、その経文に位の名称をあげないのである。

また経典ばかりではなく、『十地経論』『摂大乗論』『地持経論』『十住毘婆沙論』『大智度論』などの論書では、同時に菩薩の位を解釈している。しかしこれらも数の面など同じではない。

(注:今まで何度も述べてきたことであるが、各大乗経典は、それぞれの大乗仏教のグループが、それぞれの教理に基づいて記したものであるから、各大乗経典はそれぞれで独立しており、完結されたものである。したがって、それら一つの大乗経典だけを通して真理が明らかとなればそれでいいのであり、それ以上、他の経典を気にする必要は全くない。しかしそのことが明らかとなったのは、明治時代以降であり、天台大師の時代では、それらはすべて一人の歴史的釈迦の説いたものであると信じられてきた。そのため、一人の釈迦の説教にしては、各経典に多くの、そして大きな違いが生じてしまっているのであり、この『法華玄義』にもたびたび、多くの説に不同があると記されていることは、余りにも当然のことである。そしてこれは大乗仏教すべてに当てはまることであるが、各経典のこのような説の違いは、教化する対象の衆生に能力の違いがあって、その能力の違いに応じて教えを説いたからだ、という、いわゆる「対機説法」ということで解決したことになっている。このような認識から、「位」のことばかりではなく、『法華玄義』のすべてにわたる教理は、できる限り、各大乗経典を包括して、一人の釈迦という教主の「対機説法」に基づいた一つの流れに整理しようとしたものとなっている。しかしもともとそのようにできるわけのないものである。要は、そのように整理するにあたって基準となっている天台大師の教学が重要なのであり、それは天台大師の悟りによって得られた真理に基づいたものである。『法華玄義』を通しても、その教えを理解すればそれでじゅうぶんであり、今までも、そしてこれからも続く記述が、歴史的事実に照らしてどうであるのか、というようなことは考える必要が全くない)。

また、煩悩を断じたり抑えたりする程度の高下も異なっている。あらゆる教えを見ると、修行の位も異なっている。その理由は、すでに三界の内の身体を持った菩薩と、三界の外の体を持たない法身の二つの菩薩の修行の位を明らかにしているからである。如来は方便をもって四悉曇を用いて三界の内の衆生を教化し、その各自の能力に従って利益(りやく)を与える。どうしてそれらが一定のものであろうか。ただ漠然と各経論を調べても、それでは目が見えない者同士が、太陽がどのようなものであるのか論争するようなものである。ここでは、位の数を明らかにするに際して、すべて『瓔珞経』と『仁王般若経』によることにする。また、煩悩を断じたり抑えたりする程度の高下のことに関しては、すべて『般若経大品般若経)』の三観によることにする。また、その教えに関しては、『涅槃経』によることにする。このようにして、あらゆる経典の意義を用いて、共に初心の観心と教理の両門を成就して明らかにするのである。霊的段階の高い聖人の上の位は、凡夫の知るところではない。みだりに説くべきではない。ほぼその高い位については概略を知るだけでいいのであり、それによって修行者が慢心を起こさないようにするのである。また、経文を通して、崇高な段階に対して崇める心を起こさせるのである。偏った執着によって論争するべきではない。

(注:『法華玄義』は、『妙法蓮華経』に基づくものであるなら、「位」についても、煩悩の断じ方についても、教門についても、すべてこの『法華経』に基づくことでいいのではないか、と思われるが、先に記されていたように、『法華経』には、「位」については記されていないため、「薬草喩品」の記述に基づいて、「小の薬草」や「大樹」などの区別を立てて、それに他の経論の説を当てはめているわけである。また『法華経』にはどのような教理についても詳しく記されておらず、『法華玄義』で繰り返し述べられているように、『法華経』の役割は、他の経典の「権」や「麁」を開いて、真理である「実」や「妙」を表わすという「開権顕実」あるいは「開麁顕妙」にあると天台大師は述べているのである。つまり、『法華経』の真実の存在価値は、他のすべての経典の真実を明らかにするところにある、というのである)。

ここで、位の名称の数を判断するに際して、『瓔珞経』と『仁王般若経』によることは、『華厳経』の頓教は、円教の四十一地を明らかにして、十信の名称をあげていないからである。多くの大乗経典は、多くの法門を明らかにしているが、正式に位については論じていない。『仁王般若経』以前に説かれたとされる各『般若経』は、多くの菩薩の観心の修行についての法門の意義を明らかにし、正式には位について説いてはいない。また『瓔珞経』の五十二位は、名称と意義の両方がじゅうぶん整理されている。おそらくこれは、あらゆる大乗経典の別教と円教の位を結ぶものである。『仁王般若経』に五十一位が明らかにされていることは、おそらくこれはその前の各『般若経』の別教と円教の位を結んで成就させているものである。『法華経』はただ開権顕実して、一つの円教を表わすのみである。『涅槃経』もまた別教と円教の二つの位の大意を明らかにして、各名称はあげていない。

煩悩を断じたり抑えたりする程度の高下は、『般若経大品般若経)』の三観によることは、順序だてて意義について述べるに際して便利だからである。観心の修行の法門について、『涅槃経』の五行によることは、後の世において仏の道に入る場合に適切だからである。なぜなら、別教に観心の修行について明らかにする場合、二種ある。一つめは、二乗に共通しない教えであり、『華厳経』、『十地経論』、『地持経論』の九種の戒律・禅定・智慧の三学、および『摂大乗論』のようなものがこれである。二つめは、二乗に通じる教えであり、方等教に分類される経典と、『般若経大品般若経)』、『中論』、『大智度論』のようなものがこれである。『涅槃経』の五行は、凡夫から始まって究極に至るものである。このために、後の世において仏の道に入る場合に用いられる。