大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 108

『法華玄義』現代語訳 108

 

f.最実事

最後に、第六の位とは、最実位である。すなわち円教の位である。この位について述べるにあたって、十の項目を立てる。名称とその意義について分類し、位の数を明らかにし、煩悩を抑え断じることについて明らかにし、功用(くゆう)について明らかにし、麁・妙について明らかにし、位が立てられた意味について明らかにし、位の意義が廃されることについて明らかにし、開麁顕妙し、経典から引用し、妙位の初めと終わりを明らかにする。

 

◎名称とその意義について分類する

名称とその意義について分類するにあたって、円教と別教が同じでないことにおいて、十種類の意義がある。これは、後に述べる弁体の項目のところで説くことにする。ここでは、通教と別教と円教によって、三句をもって分類する。一つめは名通義円であり、二つめは名別義円であり、三つめは名義俱円である。

○名通義円

名通義円とは、共通している名称でも円教ではその意義が異なっているものがあるため、その円教の意義を説明することである。『法華経』に「私たちは今日、本当の阿羅漢になることができました。あまねくこのことをもって供養を受ける資格があります」とある。また「私たちは今日、本当の声聞になることができました。仏の声を直接聞いたことによって、このことをすべての人々に聞かせます」とある。円教での阿羅漢や声聞という名称は、蔵教と通教と同じだが意義は異なる。なぜなら、蔵教と通教の阿羅漢や声聞は、まだ四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切処住地惑で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地惑で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地惑で、色界のすべての思惑のこと。第四は無色愛住地惑で、無色界のすべての思惑のこと)を滅ぼしただけであり、無明(ここでは四住地惑に対応する無明惑を指す無明住地惑のこと。この無明住地惑を四住地惑に加えて五住地惑とすることもある)はなお残っている。それでは不生(もうどの次元にも生まれ変わらないという意味)の意義が完全ではない。そのため、『維摩経』にあるように「煩悩が完全に断たれていないので、花が体についている」というのである。円教において、通教と別教で残っていた二つの惑を滅ぼして、如来の滅度(すべての煩悩を完全に滅ぼしたこと。そのために如来の姿さえ消えてなくなる)を得るために、煩悩を滅ぼし尽くす意義が完全となる。

また、円教以外では、分断不生(ぶんだんふしょう・分断とは、体にさまざまな違いがある身を指し、分断生死という。分断不生とは、そのような生死はもはや繰り返さないという意味)ではあるが、三界の外ではやはり生まれ変わる。『宝性論』には「声聞と縁覚の二乗は無漏において、三種類の意陰(いおん・もはや生まれ変わらない身とはなっていても、自分の意志で姿を現わすこと。変易生死という。『宝性論』では、阿羅漢、辟支仏(縁覚)、大力菩薩をあげる)を生じさせる」とある。円教では、分断生死でも変易生死でも不生であるので、不生の意義が完全である。円教以外の位の人は、三界の中では応供(おうぐ・供養を受けるにふさわしいという意味)であっても、三界の外では応供ではない。そのために『維摩経』では、「あなたに供養しても功徳は生じない」とある。すなわち、応供の意義が完全ではないのである。円教では遍く三界の内外で供養を受けるにふさわしいので応供の意義が完全である。

円教以外は小乗であって、円教以外の教えで四諦の教えを聞いても、その教えの声が偏っており、聞く耳も偏っている。円教はすべての世界において唯一の真理の四諦、そして仏道の声を聞かせるのである。すべてを聞かせるのであるから、声聞の意義が完全である。

このために知るべきである。名称が同じであっても、それによって判断するのではなく、その意義によって判断し、円教によって位を判断するべきである。

○名別義円

名別義円とは、名称は別教と同じであっても、円教では意義が異なっているものがあるため、その円教の意義を説明することである。十信・十住・十廻向・十地・等覚・妙覚の合わせて五十二位は、名称は別教と同じだが、最初も中間も最後も、各位は円融しており妙なる真理であって随自意語(ずいじいご・仏自身の意に随って説いた言葉)である。これは教えを説くにあたっての方便ではない。名称によって意義を知るのではなく、意義を見なければならず、まさに円教の義によって位を判断すべきである。

○名義俱円

名義俱円とは、『法華経』に「開示悟入はみな仏の知見であり、仏の一切種智の知であり、仏眼の見である。この知見は、欠けたところはない」とある。また「如来の部屋に入り、如来の座に座り、如来の荘厳を身に付ける」とある。これは名称と意義が完全に備えられており、円教と判断されるのである。

 

◎位の数を明らかにする

次に位の数を明らかにするとは、ここにも三つある。一つめは円教の位の数について明らかにし、二つめは経文を引用して証し、三つめは問答である。

○円位の数を明らかにする

位の数とは、学者の見解は同じではない。ある人は「頓悟(とんご・段階を経ずに瞬間的に究極の悟りを得るということ)はすなわち仏であって、そこには位などない」と言って、『思益経』を引用して「このように学ぶ者は、ひとつの位から他の位へ移ることはない」という。

またある師は、「頓悟の初心は、すでに究竟の円極である」という。しかし四十二位があるのは、能力の劣っている者を教化する方便であり、浅深の名称があるのみである。『楞伽経』を引用して、「初地はすなわち二地であり、二地はすなわち三地である。寂滅真如にどうして位の違いがあるだろうか」という。

またある師は、「最初に頓悟して十住に至るのは、すなわち十地のことである。それでも十行、十廻向、十地があると説くのは、これは重ねて説くのみである」という。

これらの解釈はみな、すべて偏った見解である。確かに、平等法界(びょうどうほうかい・真理の次元はすべてが平等であるので、このように表現する)は、悟ったとか悟っていないということとは関係がない。なぜ浅深をいえるだろうか。しかし、実際は、悟ったとか悟っていないということを論じることができるので、そこには浅深を論じることに妨げはない。究竟の大乗は『華厳経』『大集経』『大品般若経』『法華経』『涅槃経』以上のものはない。法界は平等であり、説もなく示すところもないことが明らかであるといっても、菩薩の修行の位は最初から最後まで明らかである。

またある人は「平等法界には位はない」と言っている。ここで、この言葉を例として論破する。真諦に区別があるだろうか。真諦に区別がないであろうか。しかし明らかに、その真諦を見る者に、七賢・七聖・二十七賢聖などの区別があるのである。すべての実在の真実の姿である実相(じっそう)は平等であり位などないといっても、その実相を見る者に位の順番があるということに対して、なぜ非難するのだろうか。『大智度論』に「たとえば海に入るにあたっては、初めて入る者、中間まで至った者、向こう岸に至る者の区別があるようなものである」とある。真諦を見るに際して、位を定めることは江河に深浅があるようなものであり、実相に位を判別することは、海に入る者にとって深浅があるようなものである。このために『観普賢菩薩行法経』に「大乗の因(修行およびその位のこと)とは諸法実相(すべての実在の真実の姿)である。大乗の果(悟りのこと)とは、また諸法実相である」とある。

このように、あらゆる位の段階を設けることは、いたずらに考え出されたものではない。経典に従い、四悉檀をもって位を明らかにすることに妨げはない。

円教では、十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の七種によって、位の段階を明らかにする。さらにその十信の前にも、五品(ごほん)の位をまず明らかにする。まず、五品の位について述べる。