大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 110

『法華玄義』現代語訳 110

 

その2.七種の位について

五品の位の次に、十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の七種によって、円教の位の段階を明らかにする。

「十信」

七種の第一は十信の位である。最初に円教について聞くことにより、よく円教の信仰を起こし、円教の行を修し、よく巧みに利益を増し、この円教の行をもって利益を五倍にして深く明らかにする。この円教の行によって円教の位に入ることができる。よく平等法界(びょうどうほうかい・すべてはひとつの真理によって成り立っているため平等だと観じることを修すことによって信心に入り、よく慈愍(じびん・慈しみ哀れむこと)を修すことによって念心に入り、よく寂照(じゃくしょう・心が静かに落ち着いており、智慧によってすべてを照らすこと)を修して進心に入り、よく破法(はほう・偏った認識を破ること)を修して慧心に入り、よく通塞(つうそく・心の隔たったところと通じているところを知ること)を修して定心に入り、よく三十七道品を修して不退心に入り、よく正助(しょうじょ・中心となる教えと補助的な教えのこと)を修して廻向心に入り、よく凡聖の位を修して護法心に入り、よく不動を修して戒心に入り、よく無著(むちゃく)を修して願心に入る。以上を十信の位に入ると名付ける。

『瓔珞経』に「一信に十法があれば、十信に百あり。百法をすべての法の根本とする」とある。これを円教の鉄輪十信(てつりんじゅっしん)の位と名付ける。すなわち六根清浄位である。円教の相似即位(そうじそく・迷いから離れ、六根が清浄となり、真理に進んでいる状態。円教の十信の位)であり、煗法・頂法・忍法・世第一法である。『普賢観経』に「無生忍」を明らかにする前に「十境」があるとするのは、すなわちこの位である。この信心に入って、よく三界内の見思惑を破り尽くし、また三界外の塵沙無知惑(=塵沙惑)を破り、よく無明住地惑(=無明)を抑える。『仁王般若経』に「十善(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見)の菩薩は大いなる心を起こし、長く三界の苦輪海から離れる」とある。これもまたこの位のことである。この位については経典ごとに同じではない。『華厳経』では、法慧菩薩が正念天子に答えて、菩薩は十種の「梵行空」を観じ、十種の「智力」を学び、「初住」の位に入ることを明らかにしている。十種の梵行空とは、すなわち一実諦である。また無作の滅諦である。十種の智力を学ぶとは、すなわち無作の道諦を観じることである。すなわち十信の位である。『大品般若経』に「たとえば、海に入るに際して、まず平らな様相を見るようなものである。またこの乗は三界の中から出るのである」とある。『仁王般若経』、『普賢観経』は、前に引用した通りである。『法華経』の「法師品」にある「如来の室に入り如来の衣を着て如来の座に座る」とは、四安楽行の行処と親近処を修すことである。『涅槃経』に「また一行あり。これは如来行であり、いわゆる大乗である」とある。『大智度論』には「菩薩は初発心から、すなわち涅槃を観じて道を行じる。もし涅槃を観じて道を行じ、相似即の理解を生じれば、すなわちこれが一行如来行である」とある。

「十住」

七種の第二は十住の位である。相似即の十信より十住の真実の中道の智慧に入ることである。初発心住(=初住)の発する時、三種の心が発する。一つめは縁因(えんいん・すべての行のもととなるもの)の善心が発し、二つめは了因(りょういん・真理を表わす智慧)の慧心が発し、三つめは正因(しょういん・先天的に備わったもの)の理心が発する。すなわちこれは、前に説いた境妙・智妙・行妙の三種が開発(かいほつ)されることである。住とは、三徳涅槃(さんとくねはん・法身、般若、解脱の三徳を備える涅槃)に立脚することである。縁因の善心が発することは、すなわちこれは不可思議解脱であり首楞厳定(しゅりょうごんじょう・=首楞厳三昧。煩悩を調伏する勇猛で堅固な三昧)に立脚することである。了因の慧心が発することは、すなわちこれは摩訶般若であり畢竟の空に立脚することである。正因の理心が発することは、すなわちこれは実相法身・中道第一義諦に立脚することである。要するに、すなわち三徳涅槃がすべての仏法に立脚することである。また清浄円満の菩提心、無縁の慈悲、無作の誓願が普く法界を覆うことに立脚することである。また、一念の中にすべての万行・諸波羅蜜を成就することに立脚する。また、一切種智が完全に法界の見思惑・無明惑を断じることに立脚する。また仏眼を得て、完全に十法界の三諦の法を見ることに立脚する。また、完全にすべての法門に入ることに立脚する。いわゆる二十五三昧が意識せずとも衆生を利益(りやく)することである。

また、菩薩の円満の業を成就し、よくすべての神通を表わす。仏の身口意の三輪(さんりん)の不思議の教化、法界に満ち、目に見える形で衆生を利益することをいう。また、よく開権顕実を成就して、一乗の道に入る。またよくすべての仏国土を厳浄し、よく身口意の三業を起こし、すべての方角の仏を供養し、円満陀羅尼を得、すべての仏法を保つことは、雲に雨を保つようである。またよく一地よりすべての諸地の功徳を具足し、各心すべて寂滅し、自然と薩婆若海(さつばにゃかい・一切種智の広大なさまを海に喩えた古代インド語の音写語)に流入することに立脚する。『華厳経』に「初住の菩薩のあらゆる功徳は、三世の諸仏が讃嘆しても尽くすことができないほどである。もしそれらを完全に説くならば、凡人は聞いて迷い乱れ、心が狂ってしまうであろう」とある。

私的に解釈するならば、次のようになる。初住に十徳を成就するのは、まさにこれは十信の中の十法であり、相似位を転じて分真即位として十住を具足する。詳しく見るならば、初住の十徳と十信の十法が一致する。なぜなら、十信の百法(注:上に引用した『瓔珞経』の文にあり)は、すべての法の本となるからである。どうしてこのように解釈できないことがあろうか。初住がすでにこうであるなら、三観が現前し、無功用(むくゆう・全く意識しないで自然に行なわれること)の心に法界の無量の無明を断じることは測ることができない。概略的に分別すれば、十段階の智慧と煩悩の断とする。これがすなわち十住である。このために『仁王般若経』に「真理に入る般若を住と名付ける」とある。すなわち、十段階を進んで無漏を発し、同じく中道仏性・第一義の真理を見る。留まることのない法によって、浅い段階より深い段階に至り、仏の三徳およびすべての仏法に立脚する。このために十住の位と名付ける。

この位については、各経典は一致していない。『華厳経』には「初発心の時、すなわち正覚を成就して、あらゆる実在の真実の本性に達することを完了する。いわゆる教えを聞くことで悟るのではない。この菩薩は、十種の智慧の力を成就し、究竟して虚妄を離れ、煩悩がないことは虚空のようである。清浄で妙である法身は、静かにしてすべてに応じる」とある。まさに知るべきである。すなわちこれは真実の無漏を発して、無明の最初を断じるのである。『維摩経』に「一念にすべての法を知る。これが道場に座ることである。一切智を成就するためである」とある。またこれは不二の法門にはいり、無生忍を得ることである。『大品般若経』に「初発心より道場に座り、教えの法輪を転じて衆生を悟りに導く」とある。まさに知るべきである。すわなちこれは、『法華経』においては、衆生に仏知見を開かせるためである。また『法華経』の「提婆達多品」にある龍女は、一瞬にして悟りを求める心を起こし、等正覚(とうしょうがく・完全な悟りに等しいという意味)を成就した。すなわちこれは『涅槃経』に「発心と畢竟の二つは別ではない。このような二つの心について言うならば、前の発心の方が難しい」とある。このあらゆる大乗の教えは、すべて円教の初発心住(十住の最初。初住のこと)の位を明かす。そして第十住(注:この後の記事は未記述か)。

(注:十信も十住も、その各十段階についての説明はない。ただ、浅い段階から深い段階に至る、あるいは十段階の智慧と煩悩の断をもって、十種類の無明を破るとあるのみである。特に十住の初住について長い説明があり、最後に発心と究極的悟りは二つではない、という円教の教えが経典を引用しつつあげられている。ここから、もともと円教には段階はないが、方便として、浅い段階から深い段階に至る位はある、としていると解釈できる。そもそも、『法華経』の開権顕実においては、すべてが究極的悟りの表われとなるわけである)。

「十行」

七種の第三は十行の位である。すなわち、十住より後はすべて、実在の真実の姿を明らかにする不可思議な段階である。さらに十段階の智慧と煩悩の断をもって、十種類の無明を破る。しかし、一つの行はそのまますべての行であり、一念ごとに進んで、平等法海に流れ入り、諸波羅蜜は意識せずに進み深まる。自らの修行も衆生を教化することも虚空と等しいため、十行の位と名付ける。

「十廻向」

七種の第四は十廻向の位である。これは十行の後、不可思議であり、真理を明らかにすることは一念一念に進み、すべての法界の誓願も修行も事象も理法もすべて自然と和融して、平等法海に巡り入る。さらに十段階の智慧と煩悩の断をもって、十種類の無明を破るために廻向と名付けるのである。

「十地」

七種の第五は十地の位である。これは無漏が真理を明らかにすることであり、無功用の道に入る。なお大地のように、よくすべての仏法を生じ、法界の衆生を導いて、遍く三世の仏地に入る。また十段階の智断(ちだん・智慧と煩悩を断じること)をもって、十種類の無明を破るために十地の位と名付けるのである。

「等覚地」

七種の第六は等覚地の位である。等覚地とは、始めのない無明の底を達観して、辺際智(へんざいち・究極の仏の智慧の周辺という意味)を満足し、究竟清浄である。最後の極みの源の微細の無明を断じて、中道の山頂に登り、無明の父母と別れる。これを『涅槃経』では「まだ断じるものがある者を有上士と名付ける」とある。

「妙覚地」

七種の第七は妙覚地の位である。これは究竟の解脱、無上の仏智である。このために『涅槃経』では「断じるものがない者を無上士と名付ける」とある。これはすなわち三徳が別々ではなくひとつであり、究極的な後心(ごしん・菩薩が最後に成就する心)の大涅槃である。すべてが偉大であるために、理大・誓願大・荘厳大・智断大・遍知大・道大・用大・権実大・利益大・無住大である。前に述べた十乗観法の円極は、仏にあるのである。悉曇(しったん・古代インド語のサンスクリット語を文字として表現したもの)の最後の「荼」の文字が過ぎれば、説く文字がないようなものである。このために廬舎那仏(るしゃなぶつ=毘盧遮那仏)を浄満(じょうまん)と名付ける。すべてを満たしているからである。