大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 111

『法華玄義』現代語訳 111

 

○経文を引用して証する

次に、経文を引用して証することは、あらゆる経典の文を引用して、位の数の多少を明らかにすることである。『涅槃経』に「月愛三昧(がつあいざんまい・月の光の増減を禅定に喩えたもの。『涅槃経』に説かれる)は、初めの一日より十五日に至って、光が次第に増長する」とある。また「十六日より三十日に至って、光が次第に損減する」とある。光が増長するのは、十五の智徳ある摩訶般若をたとえ、光が次第に減るのは、十五の断徳(だんとく・煩悩を断じる徳)の煩悩のない解脱を喩えている。十住・十行・十廻向の三十心を三つの智断として、続く十地を十の智断として、等覚・妙覚を各一つずつの智断とする。合わせて十五の智断となる。月そのものは法身を喩えている。『涅槃経』に「月の本性は常に丸く、実際に増減しているわけではない。須弥山のために、満ち欠けがある(注:仏教の宇宙観では、月が須弥山によって隠されるため、満ち欠けがあるとされる)。増すわけではないが増すように見え、やがて白月(満月に向かう月)が現われる。減るわけではないが減るように見え、やがて黒月(新月に向かう月)がなくなる」とある。法身もまた同様である。智断は実際にはないのである。無明によるために、真如(しんにょ・真理のこと。真理は言葉で表現できないため、如という言葉を用いる)によって智慧を論じるが、実は真如は智ではない。真如によって断を論じるが、実は真如は断ではない。智はないとはいえ智と表現するので、般若(はんにゃ・ここでは真如の智慧を指す)は次第に増す。断はないとはいえ断と表現するので、解脱は次第に離れる。月をもって喩えとすることは、円教の智断の位について述べるためである。『涅槃経』に「初めから弟子たちを秘密の蔵である三徳涅槃に置いて、その後、私はまさにこの秘密の蔵において、般涅槃(はつねはん・涅槃を得ること)する」とある。これはすなわち最後の智断である。

問う:なぜ月の喩えは位のことを喩えているということがわかるのか。

答える:『仁王般若経』に「十四忍」を説いている。三十心を三般若とし、十地を十般若とし、等覚を一般若としている。この十四般若は菩薩の心の中にあるということを、名付けて忍としている。そして仏心に至ることを、名付けて智としている。これは十五日をもって智を明かす位と同じである。『勝天王般若経』に「十四般若」の位を明かすことは、まさに十四日の月を喩えとしていることである。このために、月を用いて解釈するのである。『大品般若経』に「四十二字門(しじゅうにじもん・阿字を初めとし荼字を終りとする梵字の母音と子音のおのおのに意味を付加したもの)」「語等字等(ごとうじとう・等とは涅槃のこと。陀羅尼の文字や語はそのまま悟りの表現とすること)」を明かしている。南岳慧思は「これは諸仏の秘密の言葉である。どうして四十二字門に限って表わせるだろうか」と言っている。多くの学者は『大智度論』にこのような解釈はないと言って、疑って用いることはない。しかし、『大智度論』の本文は千巻だという。翻訳者の鳩摩羅什はそれを簡略化して十巻とした。なぜ『大智度論』にこの解釈がないと言えようか。

(注:ないことに対して「あったはずだ」ということは正しい論理ではない。また、『大智度論』がもともと千巻だったという証拠もなく、実際にそのようなことはあり得ない)。

ここで言う。この解釈は深く真理に合っている。なぜなら、『大品般若経』に「初めの阿の文字と最後の荼の文字との間に四十文字ある。初めの阿字門に四十一を具足する」とある。最後の「荼」の文字も同様である。『華厳経』に「初めの一地よりすべての諸地の功徳が具足している」とある。この義は同じである。またある経には「もし阿字門を聞けば、すなわちすべての義を理解する。いわゆるすべての実在は最初から生じていないためである」とある。これはどうして円教の初住にすでに無生法忍(一切のものは不生不滅であることを悟ること)を得ることでないことがあろうか。「荼」の文字の先には文字はないということは、どうして妙覚がこれ以上ない位であり、この位を過ぎるものがないことを表わしていないことがあろうか。『大品般若経』の「広乗品」に、すべての法はすべて摩訶衍(まかえん・大乗のこと)であることを説き終わって、次に「四十二字門」を説いている。これこそ、円教の菩薩が、初発心より諸法実相(すべての実在の真理の姿)を得て、すべての仏法を具足するために「阿字」と名付け、妙覚地に至ってすべての法のそこまで究めるために「荼字」と名付けていることでないわけがない。この義は、その数と円教の位において、自ら明らかである。また、四十二字の後に、すなわち菩薩の十地を説くことは、別教の方便の位の次第を表わしている。また十地の後に続いて、三乗に共通する十地を説くことは、通教の方便の位を表わしている。この経文の次第を比べることで、円教と別教と通教の位の義が明らかとなっている。ここでは四十二字を用いて円教の位を証明した。

法華経』の「分別功徳品」に、初心の五品弟子の位を明かしている。その文は大変明らかである。「法師功徳品」に、六根清浄について証している。「方便品」には「諸仏は一大事因縁のために、世に出現する。衆生に仏の知見を開かせるためである」に続いて「示すため」「悟らせるため」「入らせるため」の四句がある。南岳慧思が解釈して「仏の知見を開かせるとは、十住の位、仏の知見を示すためとは、十行の位、仏の知見を悟らせるためとは、十廻向の位、仏の知見に入らせるためとは、十地および等覚の位である。みな仏の知というのは、一切種智を得るからである。みな仏の見というのは、みな仏眼を得るからである」と言っている。また『法華経』に「これを諸仏の一大事因縁とする」とあるのは、同じく一乗・諸法実相に入ることである。また「ただ仏と仏のみがよく諸法実相を究める」とあるのは、すなわち妙覚の位である。また「譬喩品」に「子どもたちは門の外に出て、車を求めた。父親である長者は、それぞれに同じ一つの大きな車を賜った。この時、子供たちはこの宝の車に乗って、四方に遊び、遊戯を楽しみ、自由自在であった」また「この車に乗ってまっすぐに道場に至る」とある。四方とは、すなわち、開・示・悟・入の四十位を喩えているのである。「まっすぐに道場に至る」とは、すなわち実相を究め尽くす妙覚の位である。「序品」の中の「天より四華を注ぐ」とは、この四十の因の位を表わす。以上引用した諸経の文を根拠とし、および『法華経』の文に四十二位を明らかにしている文を引用すれば、これらははっきりとした位のない位であることがわかる。実相に達する程度に従って、仏道が増し、煩悩が減るために、位を論じているのみである。