大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 114

『法華玄義』現代語訳 114

 

◎功用について

第六の位である円教の位について述べるにあたっての四つめの項目は、功用(くゆう)について明らかにすることである。この功用という言葉について、まず二つに分けると、「功」とは、自ら進むことであり、「用」とは、ある物事に利益(りやく)を与えるということである。そしてこの二つを合わせると、正式に他の人々を教化することをいう。

円教の五品弟子の位は、真理がまだ明らかに表わされていないといっても、観心の智慧はすでに完全に備わっている。そこに煩悩の本性はありながら、如来の秘密の蔵を知り、世間のために仏法の最初の拠り所となるにじゅうぶんである。この人を通して仏法に触れることは、如来に触れることである。まさに知るべきである。このような人は、いずれ悟りを象徴する菩提樹の下に行くのであり、最高の悟りに近づく。この世のすべてはまさにそのような人を尊び、すべての賢人や聖人は会いたいと願う。

そして五品弟子の次の位である六根清浄の相似即の位は、円教の観心がさらに明らかとなり、苦しみの世から長く離れる。その人の説く一つの仏の教えは、すべての世界に遍満し、思うがままにすべての天や龍はその所に向かって教えを聞き、その人の説くところがあれば、大衆を導いて歓喜させる。これを、第一の拠り所とする。

『涅槃経』に「四依(しえ・拠り所とすべき四種類の人のこと)」を説くことは、その義は円教と別教に通じる。多くの師は、別教によって判断している。十地の前はすべて初依と名付け、十地の初地から三地に至って、見惑を断じ尽くす人を須陀洹と名付け、五地に至って思惑を抑える人を斯陀含と名付け、これらを第二依と名付ける。七地に至って思惑を断じ尽くす人を阿那含と名付ける。これが第三依である。八地から十地に至って欲界・色界・無色界の習気が尽きる人を阿羅漢と名付ける。これが第四依である。

もし円教によって別教と比較するならば、まさに十住によって三依を明らかにし、十住の前を初依として、全部で四依とすべきである。もし、円教の最初から最後までを判断すれば、五品弟子と六根清浄(=相似即)の位を初依として、十住を第二依とし、十行十廻向を第三依とし、十地・等覚を第四依とする。十住の初住より上の位の巧用を論じると次の通りである。もし縦の巧(注:位の高さのこと)が深くなければ、横の用(注:その位の働きのこと)は広くない。縦の巧がもし深ければ、横の用は必ず広い。たとえば、あらゆる樹木の根が深ければ、その枝も広く張り、花や葉が多いようなものである。縦においては、初住に一つの無明を破り、一つの二十五三昧を得て、一つの仏性を表わす。この真実の境地を論じれば、不可思議である。教門によれば、横においてはすなわち百仏世界に身を分かち影を投じて、十法界にその姿を現わし、衆生を助け利益する。このように、十住における各段階を進み、ますます深くなる。無明は次第に尽き、三昧もますます増して、仏性が次第に表われ、横である働きがだんだん広くなる。千仏界、万仏界、大河の砂の数ほどの仏界、不可説不可説仏界にまで広まる。このように世界に遍くして、八相成道(はっそうじょうどう・釈迦の一生を八つの場面に分割したもので、一人の仏の生涯を指す)して衆生を教化する。仏法界がこうであるならば、他の九法界の身はなおさらである。あらゆる行、あらゆる位もまたこの通りである。この完成について述べるならば、ただ仏と仏だけがよく無明の源を滅し尽くす。このために、ある経典には「仏の心の中には無明はない。ただ仏法王のみ究竟の王三昧に立脚する。法身である毘盧遮那仏は、横に法界に遍く、縦に悟りを究め、大いなる位が満たされ、優れた働きが具足している」とある。

 

◎麁妙について

第六の位である円教の位について述べるにあたっての五つめの項目は、麁・妙について明らかにすることである。『法華経』の「薬草喩品」の譬喩によって表わされた位について述べると、小草はただ地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣を逃れて人間に生まれただけであり、それ以上動かず出ることもない。中草は動いて出るとはいえ、智慧の源を究めず、その恩恵は他の衆生に及ばない。上草はよく自らも衆生も救済するとはいえ、ただ目に見える存在を否定するだけであり、拙いのである。小樹は巧みであるとはいえ、その位の進む範囲は三界の中に限られる。このため、以上の位はみな麁である。大樹と最実事は共に中道をもって無明を破り、共に三界の外において働く。このために、この位を妙とする。しかし別教は方便の門からその拠り所は拙いので、その位は麁である。円教は真実の門である。そのため妙とする。

また、三蔵教の菩薩は、全く惑を抑えるだけで断じることはない。円教の五品弟子位と比べると、同じところもあれば劣っているところもある。共に惑を断じないことは同じである。しかし、五品弟子位は完全に真理が常住であることを理解しているが、三蔵教の菩薩は常住を聞かない。そのために劣っているのである。

三蔵教の仏の位は、見思惑を断じ尽くす。六根清浄(=相似即)の位と比べれば、同じところもあれば劣っているところもある。共に四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)を除くことは同じである。しかし無明を抑えることにおいては、三蔵教の仏は劣る。仏すら劣るとするのであるから、声聞と縁覚の二乗はわかるであろう。まさに知るべきである。小草・中草・上草の三つはただ生い茂るばかりであり、その働きは浅く短い。このためにこの位は麁である。

通教の乾慧地・性地と五品弟子位と比べれば、同じところもあれば劣っているところもある。前に上げた通りである。

通教の八人地から離欲地に至って見思惑が尽くされ、已辨地に方便を修し、仏に至って習気を断じ尽くすことと、円教の相似即の六根清浄の位と比べれば、同じところもあれば劣っているところもある。前のことを参考に理解すべきである。まさに知るべきである。小樹の位は、まだ雲に達するほど伸びて枝を大きく広げるまでの能力がない。このために麁である。

もし別教の十信と円教の五品弟子位と比べれば、同じところもあれば劣っているところもある。両方ともまだ惑を断じてはいない。この点は同じである。十信は段階的に位を上げて行くが、五品弟子位はすべて円融している。この点は優れている。別教の十住は、通教の見思惑を断じ、十行は塵沙惑を破り、十廻向は無明惑を抑える。ただ円教の十信の位と同じである。優劣はわかるであろう。もし、十地の初地に登って無明惑を破れば、円教の十住の初住と同じになる。なぜなら、十地は、その十段階において無明を破る。円教の十住もまた、十段階において無明を破る。たとえ十地を開いて三十品としたとしても、やはり円教の十住の三十品と等しい。さらに加えて述べるならば、円教は十住を開くことはせず、十住・十行・十廻向の三十心を合わせて三十品として、別教の十地の三十品と等しいとするならば、すなわち別教の十地と円教の十廻向と同じとなる。また加えて述べるならば、別教の仏地と円教の十行の初行は同じである。またさらに述べるならば、別教の仏地と円教の十地の初地は同じである。したがって次のことがわかる。別教の権説において仏について判断して、その位は高いとしても、実際にはその仏の位は低いのである。たとえば、辺境の地がまだ平定されていない時に官位を授けることは価値が高く、爵位を定め勲功を論じれば、官位を置くことは価値が低いようなものである。別教の権説では位が高いといっても、麁である。円教の実説では位が低いといっても、妙である。この喩えはわかるであろう。

こちらの因をもって向こうの果とするならば、別教の位は麁である。まさに知るべきである。大樹は幹がとても太いといっても、必ずその地によって少しずつ成長したものである。ここでわかることは、円教の位は最初から最後まですべて実説である。このためにすべて妙とする。『大智度論』に「たとえば樹があって、好堅(こうけん)といい、地面の中に百年間居続けたが、一度地上に出ると、その高さは百丈となって、あらゆる他の樹木の頂を覆うようになる」とある。これは円教の位を喩えているのである。