大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 117

『法華玄義』現代語訳 117

 

◎開麁顕妙について

第六の位である円教の位について述べるにあたっての八つめの項目は、開麁顕妙について明らかにすることである。三乗を破って一乗を顕わす相待妙(そうだいみょう)の意義は、前に説いた通りである。三乗をそのまま一乗とするという絶待妙(ぜつだいみょう)の意義は、前の通りではない。なぜなら、前の権は実を包んでいるのであり、それは蓮の花が実を包んでいるようなものである。その権を開いて実を顕わすことは、蓮の花が開いて実が現われるようなものである。この花を離れて別に実はなく、この麁を離れて、別に妙はないのである。なぜ麁を排除して妙に行くことができるだろうか。権の位を開いて、すなわち妙の位を顕わすのである。

この世の生死の麁の心を開けば妙が顕われることを知れば、凡夫に仏に対する恩があることになり、悟りを求める心を起こしやすくなる。生死がそのまま涅槃であるので、二つあることなく別であることなく、麁がそのままで妙である。もし凡夫が三蔵教・通教・別教・円教の四つの心を起こせば、またこの四つの初心は、みな因縁によって生じるところの心である。すなわちこの因縁は、即空・即仮・即中であるので、円教の初心と別々であるのではない。

蔵教・通教・別教・円教の四教の初心は乳に喩えられ、この喩えは妙を顕わす。すなわち、乳の中に毒を入れれば、飲む人は死ぬ。この殺すことに早い遅いの違いが生じる(注:毒で人を殺すことは悪いことであるが、ここでは、「発菩提心」である「初心」を乳に喩え、どの教えにも妙はあるが、それはまだ顕わされていないという教えを毒に喩え、人を殺すということを、その妙についての教えによって煩悩を断じることに早い遅いの違いが生じることを喩えている)。もしその位をそのまま妙とするならば、五品弟子の位の仮名妙(=観行即の妙)を成就し、もし上に進んで方便に入るならば、相似即の位の相似妙(=相似即の妙)を成就し、もしさらに進んで真理に入るならば、分真即の位の分真妙(=分真即の妙)を成就する。

もし六波羅蜜の権位の行を開けば、檀波羅蜜はすなわち因縁によって生じるものであり、因縁は、即空・即仮・即中であるので、檀波羅蜜を開いて仏性を見ることができる。その他、般若波羅蜜に至るまで同様である。これもまた、毒を乳の中に入れて人を殺すことに喩えられる(注:これ以降、毒を入れるものが、乳、酪、生蘇、熟蘇、醍醐となり、「五味」の教えの喩えが用いられる。つまり五味の教えの初心に毒を入れる、ということになる)。もしその位をそのまま妙とするならば、五品弟子の位の仮名妙を成就し、もし上に進んで方便に入るならば、相似即の位の相似妙を成就し、もしさらに進んで真理に入るならば、分真即の位の分真妙を成就する。

円教の位にまだ入らない方便の声聞が、開権顕実することも同様である。三蔵教の煩悩を断じる位において、もし開権しなければ、永遠に進むことはなく、焦げた種のように悟りへの芽が出ることはない。ここで、三蔵教の析空を開けば、即仮・即中となる。それは、毒を酪の中に入れることに喩えられる。これもよく人を殺す(注:つまりよく煩悩を断じるということ)。この麁の位をそのまま妙とすることは、相似即の位である。もし進んで次の位に入るならば、その位に従って妙を判断する。次に通教の二乗と菩薩を開くことも、同様である。出仮の菩薩の位は、この仮を開くならば、仮はすなわち中である。これは毒を生蘇に入れて、人を殺すようなものである。この麁の位をそのまま妙とすることは、相似即の位である。もし進んで次の位に入るならば、その位に従って妙を判断する。別教の十信の位を開くことは、前と同様である。十住を開くことは二乗と同じである。十行の位を開くことは、通教の出仮の菩薩と同じである。十廻向の無明惑を抑える位を開くことは、別教の中のままで円教の中となる。これは毒を熟蘇に入れて人を殺すようなものである。この麁の位をそのまま妙とすることは、相似即の位である。もし進んで次の位に入るならば、その位に従って妙を判断する。十地の位に登って麁を開くことをしなければ、ただ拙い位に過ぎない。ここで、この権を開いて実を顕わすことは、毒を醍醐に入れて人を殺すようなものである。麁の位をそのまま妙とすることは、十住の位である。もし進んで次の位に入るならば、その位に従って妙を判断する。

もしあらゆる権を開けば、あるいは位妙に留まり、あるいは妙に進み入る。麁が相対することなく、同じく妙を成就する意義については、すでに述べた通りである。ここでさらに譬喩を用いて説くならば、たとえば小国の大臣が大国に行って、小国の時に与えられていた位を失うようなものである。軍隊を預かったとしても、ただの官位に留まる。もし大国のただの役人が、心を仏法に委ねれば、官位は高くなくても、人々に尊敬される。あらゆる教えのあらゆる位は、麁を開いて妙に入るならば、確かに妙の位に入るといっても、最初から円教において発心して妙に入った者に比べれば、やはり劣った中から入って来た者となる。円教における発心は、まだ位に入らないとしても、よく如来の秘密の蔵を知るので、仏となるとされる。初心でさえそうであるならば、その後の位はなおさらである。

(注:最初の「発菩提心」の時で、すでに妙についての真実の教えを知れば、それは円教の位に入ることになるとある。今まで非常に長い記述を通して、「戒律」の段階について述べられ、非常に緻密にして複雑かつ整然とした位について述べられてきており、一見すると、それらをしらみつぶしのようにひとつひとつクリアしていくことにより、上の段階に進むと考えてしまう。かつ、何度も修行者は人と天との間の生まれ変わりを繰り返し、最後に解脱の時を迎える、とあれば、修行者は今の人生をはるかに超えた、非常に長い視野で無数に見える段階を見据え、一歩一歩進んで行かねばならない、という認識が生じる。しかし、もしそのような認識を持ったならば、誰も進んでこの修行の道に入ろうとは思わないであろう。ところが、ここにきて、円教の詳しい教えによって、そのような認識は持つ必要がなく、妙についての正しい教えを身に付けるならば、「初心」の段階で円教に入るのであり、直前の段落で位が廃されることが述べられていたように、円教以前の位は妙の教えによって廃されるわけであり、蔵教から述べられてきたところの、さっそく今生では実現不可能と思われる数多くの位は廃されることを知るのである。それにしても、この妙の教えが説かれるまでは、余りにも多くの紙面が費やされて来たわけであり、それこそ宝所に至るまでの非常に長い道のりと仮に作られた町ということである)。