大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 118

『法華玄義』現代語訳 118

 

◎経典から引用する

第六の位である円教の位について述べるにあたっての九つめの項目は、経典から引用して述べる。これは、『涅槃経』に記されている五味の譬喩を引いて四教について述べることである。もし四教をもってこの譬喩を解釈しなければ、この譬喩は解釈することはできない。もし五味の譬喩が四教の位を判断するものでなければ、信じることは難しい。もし『涅槃経』の経文を信じれば、位の意義は明らかにしやすく、あらゆる位の意義を解釈すれば、その喩えは理解できる。五味の喩えも四教もどちらも必要としあって優れているということがわかるのである。その文には「凡夫は乳のようであり、須陀洹は酪のようであり、斯陀含は生蘇のようであり、阿那含は熟蘇のようであり、阿羅漢、辟支仏、仏は醍醐のようである」とある。これは三蔵教の五位をいう。なぜなら、凡夫は生(なま)であって、惑を除くことはしない。菩薩も同じである。ただ乳のようであるのみである。須陀洹は、見惑を破り、凡夫が聖人となる。乳が変化して酪となるようなものである。斯陀含は六品(欲界の煩悩は、上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下の九種類あるとする。その中の六種類の煩悩を指す)の思惑を抑えるので、生蘇のようである。阿那含は、欲界の思惑を断じ尽くすために、熟蘇のようである。阿羅漢、辟支仏(=縁覚)、仏はみな三界の見思惑を断じ尽くすために、みな醍醐とする。このために『大智度論』に「声聞の経典の中には、阿羅漢地を仏地と呼ぶ」とある。このために共に一つの醍醐の味とする。

問う:この『法華経』では、三蔵教の菩薩を上草とする。『涅槃経』では、なぜ菩薩を乳味とするのか。

答える:『法華経』では、菩薩が他の人々を教化する面の強さをとって、これを上草に喩えている。『涅槃経』では、自らの悟りの力が弱い面をとって、凡夫と同じ乳味としているのである。『南本涅槃経』には「凡夫は血が混じった乳のようであり、須陀洹と斯陀含は清らかな乳のようであり、阿那含は酪のようであり、阿羅漢は生蘇のようであり、辟支仏と菩薩は熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである」とある。これは通教の五つの位を喩えている。凡夫は惑を断じないので、乳に血が混じっているようである。斯陀含は思惑を抑えることがまだ多くないので、須陀洹と同じく乳のようである。阿那含は欲界の思惑がすでに尽くされているので、酪のようである。阿羅漢は見惑と思惑は共に尽くされているので生蘇のようである。辟支仏は、智慧が高く習気を抑えれば、声聞より少し優れているので、菩薩と共に熟蘇のようである。通教の十番目の位を仏地と名付ける。すなわちこれは醍醐である。

前の経文は、菩薩は凡夫の味と同じなので三蔵教を指していることがわかる。後の経文は、菩薩は辟支仏と同じなので、通教であることがわかる。もし通教と解釈しなければ、喩えの意義はどうやって理解することができるだろうか。

『南本涅槃経』第九巻に「凡夫の仏性は、牛が新たに生まれて、血と乳がまだ分かれていない状態のようであり、声聞の仏性は清らかな乳のようであり、辟支仏は酪のようであり、菩薩は生蘇と熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである」とある。これは別教の五つの位を喩えている。乳は無明惑を喩え、血は四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)を喩えている。凡夫はこれを備えているために「血が混じっている」という。十住の位においてこの四住の血を断じることは、声聞と縁覚の二乗と同じである。このために「声聞は乳のようである」という。十住の後半の心は、真理に対する智慧が高いので、辟支仏の習気を抑えることに喩えている。このために「酪のようである」という。十行に塵沙惑を破るのは、生蘇のようである。十廻向に三界の外の塵沙惑を破ることは、熟蘇のようである。このために「菩薩は生蘇と熟蘇のようである」という。十地の位に登れば、無明惑を破り仏性を顕わし、一身にして無量の身を現わす能力を得て、百仏世界に八相成道(はっそうじょうどう・釈迦が衆生を導くためにこの世に生まれて死ぬまでの行程を八種類に分けたもの。すなわち、下天、託胎、降誕、出家、降魔、成道、転法輪、入涅槃)する。このために「仏は醍醐のようである」という。

『南本涅槃経』第二十五巻に「雪山に草がある。忍辱と名付けられる。牛がもしこれを食べれば、すなわち醍醐を得る」とある。「牛」は凡夫を喩え、「草」は八正道を喩える。よく八正道を修せば、すなわち仏性を見るということを「醍醐を得る」と名付けている。これは円教において大いなる真っすぐな道を行じて、すべての衆生はそのままで涅槃の姿であり、また滅ぼす必要のないものであると観じることを喩えるのである。円融に信じ、円融に行じて、段階的に修すのではない。その一生の中において、すなわち初住の位に入り、仏性を見ることを得る。牛が忍辱という草を食べるように、四つの味を経ないで、直ちに醍醐を出す。このため、円教の意義であることを知るのである。「忍辱という草」は境妙を喩え、「牛」は智妙を喩え、「食べる」は行妙を喩え、「醍醐を出す」は位妙を喩える。これは円教の意義である。牛が他の草を食べれば、血が混じった乳から始めなければならない。そして四つの味を経た後、醍醐を成就する。他の方便の境・智・行・位は、みな麁の意義である。

前の四つの味の喩えの各四つに、それぞれ醍醐を明らかにする意義がある。また蔵教・通教・別教・円教の四教にそれぞれ仏智を明らかにすることは、それぞれ異なっているとはいっても、すでに仏と呼んでいるのであるから、同じ仏智を指して、醍醐とするのである。蔵教と通教の二仏は、中道を明らかにしない。ただその位の最高の果として仏の真諦と俗諦の智慧を取って、醍醐とするのみである。別教は、十地に登った位で無明惑を破り、仏となる。中道の理法の智慧をもって醍醐とする。円教は、十住の最初の位で中道を得る。これをまた醍醐とする。『瓔珞経』に「頓悟の世尊」ということは、すなわちこの初住の智慧を醍醐としているのである。前の蔵教と通教の二つの醍醐は権であって実ではないために、教えがあってもそれを成就する人はない。別教の醍醐は、名称は権であり理法においては実である。円教の醍醐は、名称も理法も実である。この意義をもって、前の蔵教・通教・別教の三つの教えの位は五味すべてが麁であり、円教の一味はみな妙である。

『南本涅槃経』第二十七巻に「たとえばある人がいて、毒を乳の中に入れれば、人を殺し、醍醐もまた人を殺すようなものである」とある。これは、次の二つのことを表わしている。一つめは、漸教と頓教について、不定教(同じ教えを人々が聞いても、人によってそこから得る利益は異なっているため、そのような教えの形体を不定教という。つまり、特にどの教えが不定教だというのではなく、すべての教えが不定教の性質を持つということである)を明らかにする。あらゆる事柄において仏性を見ることができるのである。二つめは、修行が不定であることを表わす。修行者の心のあり様は、乳のようである。毒は実相(真実のありのままの姿)の智慧を喩える。毒に命を奪う働きがある。同じように、この智慧に無明惑を破る力がある。永遠の昔以来、仏は実相の毒を説いて凡夫の心に置く。毒の智慧がどのように発せられ発展するかは定まってはいない。あるいは最初の段階で発し、あるいは後の段階で発する。順番で発するとすることはできない。このために、「毒を乳の中あるいは醍醐に入れて、五味の教えの中に遍満させ、すべて(煩悩を)破る意義がある」とする。

衆生は初め凡夫の状態で『華厳経』を聞いて、すぐに真理を悟って仏の智慧に入るようなことがあれば、これは血が混じった乳の中の毒が人(煩悩のこと)を殺すようなものである。まず十住の位に入って、そこで『華厳経』を聞いて悟るようなことは、酪の中の毒が人を殺すようなものである。十行の位で悟ることは、生蘇の中の毒が人を殺すようなものである。過去にまず円教の中の仮名(けみょう・=五品弟子位=観行即)と相似即の位において『華厳経』を聞いて悟ることは、またこれも乳の中の毒が人を殺すようなものである。またこれは酪・生蘇・熟蘇の中の毒が人を殺すようなものである。先に十住・十行の位において『華厳経』を聞いて道を進め、煩悩を減らすことは醍醐の中の毒が人を殺すようなものである。

三蔵教の中の凡夫および方便の位および菩薩の位を経て、三蔵教を聞き、自分も意識しないままで中道を見るようなことは、すなわち乳の中の毒が人を殺すようなものである。四果の位において、自分も意識しないままで中道を見るようなことは、すなわち酪の中の毒が人を殺すようなものである。三蔵教においては、自分も意識する中で明らかに中道を悟ることはないのである。

通教の中の凡夫および三乗の方便の位において、通教を聞いて自分も意識しないままで仏性を見るようなことは、すなわち乳の毒が人を殺すようなものである。通教の正式な位に入った者が秘密不定教(ひみつふじょうきょう・仏の自由自在な能力によって、人が意識しないままに、さまざまな利益をさまざまなばあいを通して与える教えであり、これは人間の意識上では理解できない教えである)」を受けることより上の段階は、すなわち酪の中の毒が人を殺すようなものである。菩薩の道種智より上の段階は、すなわち生蘇の中の毒が人を殺すようなものである。十地の第九地より上の段階は、すなわち熟蘇の中の毒が人を殺すようなものである。十地の第十地より上の段階は、すなわち醍醐の中の毒が人を殺すようなものである。通教の声聞は、ただ秘密不定教の中の毒が人を殺すようなことのみであり、自分も意識できる不定教の中の毒が人を殺すようなことはない。

もし別教の中について述べれば、十信の教えを聞くこと以上の段階は、すなわち乳の中の毒が人を殺すようなものである。三十心(十住・十行・十廻向)の位以上の段階は、すなわち酪の中の毒が人を殺すようなものであり、生蘇熟蘇の中の毒が人を殺すようなものである。十地の位に入ること以上の段階は、すなわち醍醐の中の毒が人を殺すようなものである。

円教の中について述べれば、悟りを求める心つまり発心の初めに教えを聞いて、直ちに無明惑を破り仏性を見るようなことは、乳の中の毒が人を殺すようなものである。六根清浄(=相似即)の位以上は、酪・生蘇・熟蘇の中の毒が人を殺すようなものである。十住以上の段階は、醍醐の中の毒が人を殺すようなものである。

ある修行者がいて、あらゆる教えの四つの譬喩や五味を経て、それ以上の段階において円教の醍醐の中の毒が人を殺すような段階に入ることは、三乗を破って一乗を顕わす相対的な妙とする。毒を乳の中に入れ、各味の喩えにおいて人を殺すようなことは開権顕実である。すべての教えの中において、直ちに中道を見るために、『法華経』に「あなたがたの行はすべて菩薩の道である」とあるのである。さらに道を改めて、他の道に入るようなことをせず、しかも真実を求め、麁をそのままにして妙を見るので、毒を入れることを喩えとするのである。

法華経』以外のあらゆる経典に、すべて秘密不定教の毒を入れる妙はあるが、その意識できる教えを経て妙に入ることはない。またその意識できる教えにおいて麁を妙とすることはない。この『法華経』に至って、『法華経』の意識できる教えを経て妙に入ることと、この意識できる教えにおいて麁を妙とするという二つの意義がある。すべて同じく宝の車に乗って、みな仏知見を開く。それは意識できる次元で表われる。このためにこの『法華経』のみを妙とするのである。この意識できる教えを経て妙に入ることと、意識できる教えにおいて麁を妙とすることのそれぞれに二つの意義がある。それは、その位に留まって麁を開いて妙に入ることと、位を増し加えて麁を開いて妙に入ることである。『法華経』に「もしこの法華経を聞けば、声聞の教えを成就することができるので、法華経はあらゆる経の王である。この法華経を聞き終わって明瞭に思惟すれば、この上ない道へと近づくのである」とあるのは、位に留まって麁を開いて妙に入ることである。位を増し加えて生死の苦しみを減らすことは、位を増し加えて麁を開いて妙に入ることである。このために、『法華経』だけが妙とするのである。