大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 120

『法華玄義』現代語訳 120

 

◎「三法妙」について詳しく述べる

(注:「迹門の十妙」の中の「A.4.2.b.②.(1).Ⅳ広解」の中の、第五番めである「三法妙」の段落となる)

第五に、「三法妙(さんぽうみょう)」について述べるが、「三法妙」とは、すなわち「妙」の「位」が立脚するところの教えである。「三法」とは「三軌」のことである。「三軌」の「軌」とは軌範(きはん)のことである。言い換えれば、「三法」は軌範そのものである。

ここでは七つの項目によって述べる。一つめは、a.総合的に「三軌」について述べる。二つめは、b.個別に「三軌」について述べる。三つめは、c.「麁」と「妙」を判別する。四つめは、d.「開麁顕妙」である。五つめは、e.「三軌」の最初と最後を明らかにする。六つめは、f.他の「三法」と照らし合わせる。七つめは、g.「四悉檀」によって考察する。

 

a.総合的に三軌について述べる

第一に、総合的に「三軌」について述べるとは次の通りである。「三軌」とは、一つめは「真性軌(しんじょうき・本来備わっている霊的真理のこと)であり、二つめは「資成軌(しじょうき・智慧が働くことにおける助けのこと)」であり、三つめは「観照軌(かんしょうき・真理を照らす智慧のこと)」の三つを指す。このように名称は三つであるが、本来は一つであり大乗の教えそのものを指す。『法華経』に「あらゆるところに明らかに求めるならば、他に人を導く教えはなく、ただ一仏乗があるのみである」とある。この「一仏乗(いちぶつじょう・すべての人が仏になれるという教え)」にはこの「三法」が備わっている。またこれを「第一義諦」と名付け、また「第一義空」と名付け、また「如来蔵」と名付ける。この三つは三つではなく、三つにして一つである。また、一つは一つではなく、一つであり三つである。これは不可思議である。並列的であって個別ではなく、悉曇(しったん)の「伊」の字に点が三つあるように、大自在天に三つの目があるようなものである。

このために、『涅槃経』には、「仏性とは、また一つであり一つではなく、一つではなく一つでないことはない」とある。「また一つであり」とは、すべての衆生はみな仏になれるからである。これは「第一義諦」である。「一つではなく」とは、この「仏性」はさまざまに表現されるからである。これは「如来蔵」である。「一つではなく一つでないことはない」とは、さまざまに表現されるとしても、それらで決定的に定義されるわけではないからである。これは「第一義空」である。しかしみな「また」というのは丁寧に表現しているに過ぎない。ただ一つのものを「また三つ」と名付けているだけである。このために、一つとして認識すべきではなく、複数として認識すべきではない。縦でもなく横でもなく、しかも三つでありしかも一つである。

前にあらゆる真理についての教え(=諦)において、もしくは「開」もしくは「合」、もしくは「麁」もしくは「妙」などと述べたのは、これは「真性軌」のことである。前にあらゆる「智慧」において、もしくは「開」もしくは「合」、もしくは「麁」もしくは「妙」などと述べたのは、これは「観照軌」のことである。前にあらゆる「行」において、もしくは「開」もしくは「合」、もしくは「麁」もしくは「妙」などと述べたのは、これは「資成軌」のことである。前にあらゆる「位」について述べたのは、ただこれはこの「三法」を修して証された「果」のことである。

もしそうであるならば、なぜここで重ねて述べる必要があるのだろうか。重ねて述べることにおいて、三つの意義がある。一つめは、以前に述べた「境妙」「智妙」「行妙」は、「因」の中に修される「三軌」である。ここで、この大いなる教えを修して、悟りの道場に至ると述べることは、それらの「因」によって得られる「果」を証して立脚する「三軌」である。二つめは、以前は「境妙」「智妙」「行妙」などの名称をあげて個別に説いた。ここでは「法」という名称を用いて、それらを合わせて説くのである。三つめは、以前はさまざまな説を上げて、本性から始まってその表われに至る総合的な視点では説かなかった。ここでは、その深遠な本質を述べるのであり、それはすなわち、本来備わっている徳としての「三軌」である。またそれを「如来蔵」と名付ける。そして、その究極的な表われを述べるならば、それはすなわち、修行の徳としての「三軌」である。またそれを「秘密蔵」と名付ける。このように、本質とその表われにすべての「諸法」を含まれるのである。本来備わっている徳としての「三法」から文字として表わされる「三法」を起こし、文字として表わされる「三法」によって、「観行」の「三法」を修し、「観行」の「三法」によって「相似即」の「三法」を発し、さらに「分真即」の「三法」、「究竟即」の「三法」がある。自らの行の「三法」と他を教化する「三法」がある。この意義のために、重ねて説く必要があるのである。

私的に解釈すれば、次の通りである。「三軌」の一句はすなわち三句であり、三句はすなわち一句であるということを「円教」の「一仏乗」と名付ける。私(章安灌頂)が記録した天台大師の教えの中には、すでに「如来蔵」の一句よりあらゆる「方便」の教えが述べられている。これはすなわち「三軌」を個別に分別していることである。臨機応変に開いて解釈すべきである。「一つではない」とは、教えは数多くあるために、これらを指して「如来蔵」として、「三蔵教」の中の声聞、縁覚、菩薩の「三乗」の事象的な「方便」の教えを開いて述べているのである。「一つでなく一つでないことではない」とは、一つとして定めることがないために、この言葉をもって「第一義空」として、「通教」の「三乗」の事象的な「方便」に即してしかも真理であることを開いて明らかにしている。「また一つである」とは、すべての衆生はみな仏になるために、この言葉をもって「第一義諦」として、「別教」の菩薩だけの教えを開いて明らかにしている。このあらゆる「方便」は、すべて「円教」から出ている。このために『法華経』に「一仏乗において三乗として説く」とあるのは、この意味である。