大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 120

『法華玄義』現代語訳 120

 

⑤.三法妙

 

迹門の十妙の第五は、三法妙(さんぽうみょう)について述べるが、三法妙とは、すなわち妙の位が立脚するところの教えである。三法とは三軌のことである。三軌の「軌」とは軌範(きはん)のことである。言い換えれば、三法は軌範そのものである。

ここでは七つの項目によって述べる。一つめは、総合的に三軌について述べる。二つめは、個別に三軌について述べる。三つめは、麁と妙を判別する。四つめは、開麁顕妙である。五つめは、三軌の最初と最後を明らかにする。六つめは、他の三法と照らし合わせる。七つめは、四悉檀によって考察する。

 

a.総合的に三軌について述べる

第一に、総合的に三軌について述べるとは次の通りである。三軌とは、一つめは真性軌(しんじょうき・本来備わっている霊的真理のこと)であり、二つめは資成軌(しじょうき・智慧が働くことにおける助けのこと)であり、三つめは観照軌(かんしょうき・真理を照らす智慧のこと)の三つを指す。このように名称は三つであるが、本来は一つであり大乗の教えそのものを指す。『法華経』に「あらゆるところに明らかに求めるならば、他に人を導く教えはなく、ただ一仏乗があるのみである」とある。この一仏乗(いちぶつじょう・すべての人が仏になれるという教え)にはこの三法が備わっている。またこれを第一義諦と名付け、また第一義空と名付け、また如来蔵と名付ける。この三つは三つではなく、三つにして一つである。また、一つは一つではなく、一つであり三つである。これは不可思議である。並列的であって個別ではなく、悉曇(しったん)の「伊」の字に点が三つあるように、大自在天に三つの目があるようなものである。

このために、『涅槃経』には、「仏性とは、また一つであり一つではなく、一つではなく一つでないことはない」とある。「また一つであり」とは、すべての衆生はみな仏になれるからである。これは第一義諦である。「一つではなく」とは、この仏性はさまざまに表現されるからである。これは如来蔵である。「一つではなく一つでないことはない」とは、さまざまに表現されるとしても、それらで決定的に定義されるわけではないからである。これは第一義空である。しかしみな「また」というのは丁寧に表現しているに過ぎない。ただ一つのものを「また三つ」と名付けているだけである。このために、一つとして認識すべきではなく、複数として認識すべきではない。縦でもなく横でもなく、しかも三つでありしかも一つである。

前にあらゆる真理についての教え(=諦)において、もしくは開もしくは合、もしくは麁もしくは妙などと述べたのは、これは真性軌のことである。前にあらゆる智慧において、もしくは開もしくは合、もしくは麁もしくは妙などと述べたのは、これは観照軌のことである。前にあらゆる行において、もしくは開もしくは合、もしくは麁もしくは妙などと述べたのは、これは資成軌のことである。前にあらゆる位について述べたのは、ただこれはこの三法を修して証された果のことである。

もしそうであるならば、なぜここで重ねて述べる必要があるのだろうか。重ねて述べることにおいて、三つの意義がある。一つめは、以前に述べた境妙・智妙・行妙は、因の中に修される三軌である。ここで、この大いなる教えを修して、悟りの道場に至ると述べることは、それらの因によって得られる果を証して立脚する三軌である。二つめは、以前は境妙・智妙・行妙などの名称をあげて個別に説いた。ここでは法という名称を用いて、それらを合わせて説くのである。三つめは、以前はさまざまな説を上げて、本性から始まってその表われに至る総合的な視点では説かなかった。ここでは、その深遠な本質を述べるのであり、それはすなわち、本来備わっている徳としての三軌である。またそれを如来蔵と名付ける。そして、その究極的な表われを述べるならば、それはすなわち、修行の徳としての三軌である。またそれを秘密蔵と名付ける。このように、本質とその表われにすべての諸法を含まれるのである。本来備わっている徳としての三法から文字として表わされる三法を起こし、文字として表わされる三法によって、観行即の三法を修し、観行即の三法によって相似即の三法を発し、さらに分真即の三法、究竟即の三法がある。自らの行の三法と他を教化する三法がある。この意義のために、重ねて説く必要があるのである。

私的に解釈すれば、次の通りである。三軌の一句はすなわち三句であり、三句はすなわち一句であるということを円教の一仏乗と名付ける。私(章安灌頂)が記録した天台大師の教えの中には、すでに如来蔵の一句よりあらゆる方便の教えが述べられている。これはすなわち三軌を個別に分別していることである。臨機応変に開いて解釈すべきである。「一つではない」とは、教えは数多くあるために、これらを指して如来蔵として、三蔵教の中の声聞、縁覚、菩薩の三乗の事象的な方便の教えを開いて述べているのである。「一つでなく一つでないことではない」とは、一つとして定めることがないために、この言葉をもって第一義空として、通教の三乗の事象的な方便に即してしかも真理であることを開いて明らかにしている。「また一つである」とは、すべての衆生はみな仏になるために、この言葉をもって第一義諦として、別教の菩薩だけの教えを開いて明らかにしている。このあらゆる方便は、すべて円教から出ている。このために『法華経』に「一仏乗において三乗として説く」とあるのは、この意味である。