大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 121

『法華玄義』現代語訳 121

 

b.個別に三軌について述べる。

第二に、個別に三軌について述べるとは、まず如来が用いる開合という方便について知るべきである。そうすれば、三法を「一大乗」とすることが理解できる。仏は何の教えから、あらゆる権乗を開くであろうか。『涅槃経』に「仏性は一つではない」とある。このような数多くの教えを通して三乗を説くためである。まさに知るべきである。あらゆる数多くの教えは、結局は如来蔵に収められるのである。仏はこの如来蔵において、声聞、縁覚、およびあらゆる菩薩の通教・別教の教えを開出するのである。なぜならば、あらゆる教えは方便であって、如来蔵はまた事象的なものであるため、事象的なものから方便を出す。このために、あらゆる教えは如来蔵に収められるという。

(注:蔵とは、数多くの品物を保管するところである。蔵は一つであるが、そこからさまざまに違った品物が出て来る。そのように、如来蔵は仏性と異なることはないが、その蔵からは数多くの方便の教えが出て来るのである。仏性というと、理法的な、いわゆる抽象的な観念となりやすいが、如来蔵として蔵に喩えれば、事象的かつ個別的な方便が出て来ることが理解しやすい)。

また、経典によるためである。『涅槃経』に「声聞僧を有為僧と名付ける」とある。また「六波羅蜜は福徳荘厳である」とある。また「声聞の人は、禅定の力が大きいために仏性を見ない」とある。まさに知るべきである。禅定の力とは福徳のことであり、福徳は有為に過ぎないのである。『勝鬘経』には有漏という言葉を用いている。たとえば、三界の中の見思惑がまだ破られていなければ、物事を生起させるので有為と名付け、真理を悟ることがじゅうぶんではないので有漏と名付け、智慧の教えではないので福徳と名付けるのである。このような程度の低い次元をもって程度の高い次元を見ても、また同じである。二乗はまだ変易生死を破ることができないので、なお有為である。無明惑からまだ脱することができないので、有漏という。中道の智慧ではないので、福徳と名付ける。

このために知ることができる。方便のあらゆる教えは、すべて資成軌の収めるところである。みな大乗の一部の教えから出たもので、究極的な教えではないので、『法華経』に「一仏乗において区別して三乗と説く」とあるのは、この意味である。またこれは「一仏乗」において区別して五と説き、また区別して七と説き、また区別して九と説く。もしこの解釈によるならば、如来蔵の教えからあらゆる方便やあらゆる権乗の教えが開出するのである。

次に、四教によって、三軌のそれぞれについて述べる。

第一に三蔵教においては、無為の智慧をもって観照軌と名付け、正しく教えの本体とする。その本体を助ける教えを資成軌と名付ける。この本体と助ける教えは惑を断じて真に入る。この真は真性軌である。教えによって真理が明らかにされるために、教えのことを乗と表現するのである。縁覚もまた同じである。菩薩は無常観をもって観照軌として、功徳が増すことを資成軌として、悟りの道場に座って煩悩を断じて真理を見ることを真性軌とする。この教えは真理を照らし、この教えの乗り物に乗って、三界の中から出て、薩婆若の中に至って立脚する。そうなれば、言葉もすでに尽きるので、教えの乗り物はない。真理は運ぶことをしないので、悟りの証は乗ではない。このために、『法華経』の「譬喩品」に記されているように、火宅から出た子供たちはそれぞれの好みの車を要求した意味がここにある(注:結局すべての子に同じ立派な車が与えられたという経文によって、四教の区別はあるが、すべて結局は円教に導かれる、という意味が表われているとする)。

第二に通教においては、真性軌をもって教えの本体とする。なぜそうなのであろうか。認識の対象について空とするので、事象的な次元において理法的なことを見ている。この理法は真理であるため、教えの本体とする。即空の智慧をもって観照軌とし、あらゆる行を資成軌とする。この教えは理法を明らかにする。この教えによって三界から出て、薩婆若の中に至ってそこに立脚する。菩薩は三界を出て行の実践をもって仏国土を清め、衆生を教化し、悟りの道場に至ることを、そこに立脚することとすべきである。またここに教えがあるが人はいない。人がいないのだから、ここに立脚する者がいない。このように教えが去って証が寂滅して、また教えの車に乗って運ばれるという意義がない。ここにも、火宅から出た子供たちはそれぞれの好みの車を要求した意味がここにある。

第三に別教においては、修行の観照軌をもって教えの本体とする。あらゆる行は資成軌である。この二つをもって、修行の智慧とする。智慧はよく惑を破って理法を顕わす。理法そのものは惑を破ることはできない。もし理法そのものが惑を破れば、すべての衆生は理法を備えているわけであるから、なぜ衆生はみな惑を破らないのだろうか。もしこの智慧を得れば、惑を破る。このために智慧をもって教えの本体とする。このために『涅槃経』に「無為無漏を菩薩僧と名付ける」とある。すなわちこれは一地・二地さらに十地に至るまでの智慧を「智慧荘厳」と名付ける。この智慧をもって、十地に至るので、これを教えの本体とする。

しかし『摂大乗論』には、三種の乗を説いており、三軌に似ているように見える。この三種の乗は、理乗・随乗・得乗である。理乗とは、すなわち道前の真如(本来備わっている真理)である。随乗とは、すなわち真理を観じる智慧であり、智慧の対象である境に随順する。得乗とは、すべての行と誓願が互いに働き合い、無分別智(=般若波羅蜜)に働きかけ、差別のない境に対応して真理を導き出すことである。この三つの乗の意義は、三軌に似ているけれども、この三つは互いに融合しない。なぜなら、『摂大乗論』においては、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(まなしき)・阿黎耶識(ありやしき=阿頼耶識(あらやしき))・阿摩羅識(あまらしき=菴摩羅識(あんまらしき))の九識を立て、最後の第九識を究極的な境地とするが、この第九識は道後の真如(修行の後得た真理)を指している。しかし真如は真理そのものであるから、もともと事象的なものではなく、あらためて修行の後に得るようなものではない。智慧と行を起こす種子(しゅうじ・いわゆる種のようなもの)は、すべて第八識の阿黎耶識の中にあって、すべての行と誓願が互いに働き合い、無分別智の光を得て、真実の本性を成就する。このために、理乗は本来備わっているものであり、随乗と得乗は修行の後に得られるものである。道後の真如は人々を教化する。これはまさに、時間の経過を表わす縦の意義である。またこの三つの乗の元がすべて阿黎耶識の中にあるとすれば、それは時間を超越した横の意義である。悟りを得る前と後を混同しているのである。縦と横であるならば、融合を意味する「伊」の字は成立しない。

如来は出現された初め、直ちに真実の教えをそのまま説いたが、それを理解する者はほとんどいなかった。そこで、そのような真実の教えに堪えられない者のために、先に無常の教えをもってすべてのものは実在するという誤りを破り、次に空の清浄の教えをもって執着を溶かし、次に段階的に教えを説いて真理を受け入れる心を起こさせ、そして後にまさに常・楽・我・浄を明らかにした。龍樹は論書を記して、仏のこの意義を述べた。「不可得空」をもって執着を洗い流し、「一切法空」に応じて習うことは、般若と相応すると名付けられる。この空はどうして無明を空としないであろうか。無明が空ならば、その元はどこにあるだろうか。あらゆる実在に対する執着を清め、空をもって教えを説いて、常・楽・我・浄の四句の相を結論付けている。この『摂大乗論』の言葉は空虚幽玄であり、また執着がない。病気が治って食事ができるようになり、さらに食物も良く消化されるようなものである。どうして最初から阿黎耶識によってすべての法が生じるのだろうか。邪見慢心がまだ取り除かれないまま、この教えに封じ込められれば、長い間、水が氷に閉じ込められてしまうようなものとなる。このために知るべきである。この教えは、末の世の執着が重い衆生に与えられるものではない。すなわちこれは三界の外のある一つの法門であるに過ぎない。また阿黎耶識がすべての法を備えているならば、なぜ道後の真如を備えていないのだろうか。もし備えているというならば、なぜ真如は第八識ではないと言わないのか。おそらくこれはなお方便の教えであり、如来蔵から開出された教えに過ぎない。もし方便に執着すれば、大いに真理を妨げる。もし真理に立つ者がこの教えに執着すれば、言葉による偏見に陥ってしまう。幼子に蘇(そ・ヨーグルトのようなもの)をたくさん飲ませてしまえば、命の危険にさらす可能性が高いようなものである。巧みに他の論書を立てたり破ったりする意義を理解すれば、多くの論書において清く妨げがない(注:この箇所は、天台教学から見た唯識についての根本的批判であり、大変興味深い)。

第四に円教において三法(=三軌)を明らかにすることは、真性軌をもって教えの本体とするのである。偽ることがないことを「真」と名付け、変わることがないことを「性」と名付ける。すなわち正因常住(しょういんじょうじゅう・正因とは、衆生に備わっている仏性のこと)である。諸仏の師があるとするならば、この法がそれである。すべての衆生もまた一乗であるので、衆生はそのままで涅槃の相である。滅ぼす必要はない。涅槃はすなわちそのままで生死であるので、滅びることがなく生じることもない。このために『大品般若経』に「この乗は動じることなく出ることがない」とあるのは、この乗である。観照軌とは、真性が寂静のままでしかも常に照らすことを観照と呼び、これを第一義空とする。資成軌とは、法界がそのまま真性であるとして、そこに無量のあらゆる行が含まれ備わっているとする。それはすなわち如来蔵である。

三法は一つであり一つでもないということは、如意宝珠について見れば、光があり宝があり、その光と宝は珠と同じではなく異なることもなく、時間的な違いもなく空間的な違いもないように、三法もまた同様である。一つであり一つではなく、一つではなく一つではないことではなく、不可思議の三法である。

もしこの三法の真理に迷えば、三障となる。その一つめは三界の内外の塵沙惑であり、如来蔵を妨げる。二つめは通教と別教の見思惑であり、第一義空を妨げる。三つめは根本の無明惑であり、第一義の理法を妨げる。もし塵沙惑の妨げがそのまま無量の法門であることを悟れば、そこに資成軌が顕わされる。もし見思惑の妨げがそのまま第一義空であることを悟れば、そこに観照軌が顕わされる。もし無明惑の妨げがそのまま第一義諦であることを悟れば、真性軌が顕わされる。真性軌が顕わされることを法身とし、観照軌が顕わされることを般若とし、資成軌が顕わされることを解脱とする。この般若と解脱はすなわち禅定の智慧の荘厳であり、法身を荘厳する。法身は乗の本体であり、禅定の智慧はあらゆる道具である。『法華経』に「この車は高く広く、あらゆる宝をもって荘厳に飾られている」とある。これは円教の修行者が乗るべき乗り物であり、薩婆若に至り、最後の文字である「荼」を過ぎては文字がないようなものである。

文字がなければ、また乗り物に乗っても運ばれるところはない。もし自らの修行という乗り物で運ばれることが終われば、乗り物の意味は終わる。もし仮の教化がまだ終わらなければ、乗り物で運ばれることは終わらない。このために『法華経』に「仏は自ら大乗に住む。その得るところの教えは、禅定の智慧の力をもって荘厳され、これをもって衆生を悟りに導く」とあるのは、この意味である。たとえば、御者(ぎょしゃ)が車を御し終えて目的地に到達しても、なおもそれは車と言われるようなものである。果に至った乗り物である教えも同じである。なおも人々を教え運ぶとする。

また次に、なぜこのように運ぶことを例にとってこの意義を解釈するのだろうか。もし真性が動じることなく出ることがなければ、運ぶことではなく、運ぶことでないことでもない。もし観照と資成がよく動じてよく出るならば、これは運ぶと名付けられる。ただ動じ出ることは動じ出ることではなく、動じ出ることではないままに動じ出るまでのことである。働きについて本体を論じれば、動じ出ることは動じ出ることではない。本体について働きを論じれば、動じ出ることでないことは動じ出ることである。本体と働きは二つではなく、しかも二つであるまでのことである。たとえば、位から退くことも退かないことも同じく不退の位であり、破ることも破らないことも同じく戒律であるようなものである。この意義をもって、輪廻を起こすことも起こさないこともみな乗とするのである。