大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 122

『法華玄義』現代語訳 122

 

c.麁と妙を判別する。

第三に、麁と妙を判別するとは次の通りである。

三蔵教は有為の福徳において、三法を論じて乗とする。四念処は聞いて生じる智慧であり、教乗という乗り物に乗って四善根に至る。四善根は行乗に乗って見諦(けんたい=須陀洹=預流果)に至る。見諦は証乗に乗って無学に至る。ここに至れば、方便となり、三界の外に出て、真をもって証とする。証すれば、もはや運ばれることはない。しかしこれは方便であり、真実の乗り物ではないので、『法華経』にあるように、嘆いて自らを責めるようになる。舍利弗が釈迦に「過失でしょうか、過失ではないでしょうか」と質問しようとしたということは、この意味である。不十分の教えで引いてしまうことは、究極的な意義ではない。このために三蔵教の三法は麁である。

通教は即空の智慧である。三法を乗とすることが三蔵教より巧みである。その他の意義はほぼ前と同じである。乾慧地は教乗に乗り、性地は行乗に乗り、八人地と見地は証乗に乗る。これもまた偏った教えである。このために麁とする。

別教は資成をもって観照を助け、観照は真性を開く。三法(=三軌)を乗とする。十信は教乗に乗り、十住は行乗に乗り、十地は証乗に乗り、妙覚は薩婆若の中に至って立脚する。条件に従って修行する行が成就すれば、それは消え去り、ただ真理の中にある修行だけが残る。もしそうであるならば、資成は最初にあり、観照はその次であり、真性は最後にある。この三つは時間的経過によって別であるため、縦であり大乗ではない。この三つは並べて比較しても異なるため、横であり大乗ではない。これは方便の教えであり、このために麁とする。

円教は実相を第一義空とする。空は、あらゆる存在を観じて実体がないとすることであり、そこに時間的経過があるので縦であるはずである。第一義空はすなわち実相である。実相は縦ではない。空はどうして縦であろうか。また、実相を如来蔵とする。如来蔵はあらゆる実在を収めるところなので、空間的であり横であるはずである。如来蔵はすなわち実相である。実相は横ではない。如来蔵はどうして横であろうか。以上のように、縦と思うべきではなく、横と思うべきではない。このために不可思議の法と名付ける。これこそ妙である。

ただ単に空と如来蔵を実相とすれば、空は縦であり如来蔵は横であるので、実相もどうして縦ではなく横でないわけがあろうか。またただ空を如来蔵とすれば、空は横ではないので、如来蔵はどうして横でないわけがあろうか。如来蔵を空とすれば、如来蔵は縦ではないので、空はどうして縦ということになろうか。実相を空如来蔵とすれば、実相は縦でもなく横でもない。したがって、空如来蔵もまた縦でもなく横でもない。このように巡りながら相即して不可思議である。このために妙と名付ける。

ただ如来蔵を広いとし、第一義空を高いとするので、『法華経』に「この車は高く広い」というのである。

如来蔵はすなわち実相であるために、この車は広いということではない。第一義空はすなわち実相であるために、この車は高いということではない。ただ実相は空であるのみである。なぜ高いということでないことがあろうか。ただ実相は如来蔵であるのみである。なぜ広いということでないことがあろうか。

また実相を如来蔵とするために、『法華経』に「あらゆる宝をもって飾る。また僕たちも多く、これに仕えている」とある。実相を第一義空とするために、「大白牛がいて、立派な体で大きな力があり、その歩みは揺るぎなく、その速さは風のようである」とある。智慧に汚れがないことを白とする。よく惑を破るために「大きな力がある」とする。中道の智慧を「揺るぎない」とする。働きがないままで働くので「その速さは風のようである」とするのである。

不思議の三法は共に大車となる。どうして縦横並列の区別があるだろうか。

このような教乗は、不縦不横である。五品弟子が乗る乗り物は、相似位に至る。このような行乗は、不縦不横である。相似位が乗る乗り物は、十住に至る。このような証乗は、不縦不横である。十住が乗る乗り物は、妙覚薩婆若の中に至って住む。このために妙乗と名付ける。また『法華経』に「この乗り物は微妙であり、清浄であること第一である」とある。このために、瓦官寺に講演を設けたところ、ある人は、聞く人々が乗り物にのって、門の前に満ちるように出て行く夢を見たという。またある場所で講演を設けたところ、道教の道士が道路に満ちている夢を見たという。その夢のことを推測しても、正邪は明らかである。

もしこの麁と妙の乗り物をもって、五味の喩えを用いれば、乳の教えは一麁一妙、酪の教えは一麁、生蘇の教えは三麁一妙、熟蘇の教えは二麁一妙である。あらゆる経典はすべて縦横の方便を帯びながら、不縦不横の真実を説くので、麁という。この『法華経』は完全に方便を捨てるので、妙とするのである。

 

d.開麁顕妙

第四に、開麁顕妙とは、『涅槃経』の「三句(注:『涅槃経』では「亦一・非一・非一非非一」という順番であるが、以下の文では二番目と三番目が入れ替わっている)」によるのである。

第一の句は、「仏性はまた一つである」であり、これは、すべての衆生はみな一乗であるからである。これは動くことなく出ることのない一乗である。このために三法を具足して、不縦不横である。そもそも心ある人間はすべてこの理法を備えている。しかし、庭に宝の埋まっている家に住む人々はそのことを知らないという喩えのように、この理法のことは知る人がない。このために麁とする。ここでは、衆生にあらゆる悟りの宝の蔵を教え、庭の草やごみを取り除き、埋まっている金を開いて顕らかにする。すべての煩悩を取り除いた人は、ただ一つの道から生死を出る。あらゆる方角に求めても、他の乗はなく、ただ一仏乗だけがある。このために妙とする。

第二の句は、「仏性はまた一つではなく一つではないことではない」であり、これは、仏性は数を用いる方法で表わされるものでもなく、数を用いない方法でも顕わされるものでもないからである。もし条件による修行の智慧は必ず理法を顕わすということに執着すれば、智慧そのものは理法ではないので、真理を照らず働きが明らかにならず、仏性を見ることはない。このために麁とする。『法華経』でこの執着のある智慧を開くならば、すなわちどのような方法でも顕わされるものでない智慧であることがわかる。智慧そのままが理法であり、理法そのままが智慧である。数を用いる方法によって三乗・一乗と定めることに執着せず、かと言って、数を用いない方法によって、三乗でもなく一乗でもない、ということにも執着しない。このようなことは、すなわち執着のない妙慧と名付け、よくすべての定まった相または定まらない相を破って、また同時に破る働きも破る対象もない。この世の王である転輪聖王が戦いに良く勝ち良く休むようなものであり、太陽の光が闇を除き生き物をはぐくむようなものであり、眼医が目の膜を除いて眼球を守るようなものである。すなわちこれは大乗の不縦不横の妙慧である。

第三の句は、「仏性もまた一つではない。三乗と説くためである」であり、すなわちこれは、三乗・五乗・七乗などのあらゆる方便の乗り者である。もしあらゆる乗に立脚すれば、ただこれは事象的な善であり、および空に偏った真理であり、通教に相当する。このために麁とする。ここでもしあらゆる乗を究めるならば、それは如来蔵である。如来蔵を仏性と名付ける。人天の善から始まって、別教の乗に至るまで、みな本来の真理を動じることがなければ、すなわちこれは妙とする。まさに知るべきである。『涅槃経』の三句にすべての法を収めれば、仏性でないものはなくなる。すべてこれ妙であり、麁が相対することはない。すなわちこれこそ「絶待妙」である。

 

e.三軌の最初と最後を明らかにする

第五に、三軌の最初と最後を明らかにするとは、次の通りである。円教の五品弟子位を最初とせず、凡夫の一念の心に十法界と相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十種が備わっていることをもって三法の最初とする。

なぜならば、この十種はただ三軌であるからである。体は真性軌である。性は、本性は内にあるものなので観照軌である。相は、相とは外に表われたものなので、すなわちこれは福徳であり資成軌である。力は、了因(りょういん・真理を悟る智慧)のことなので観照軌である。作は、あらゆる行の精進であり資成軌である。因は、習因(しゅういん・修行して悟りという果を得るための原因となるものを指す)であり観照軌に属す。縁とは、報因(ほういん・修行して得られる報いの原因となる条件を指す)であり資成軌に属す。果とは、習果であり観照軌に属す。報とは、習報(しゅうほう・習果によってもたらされる報いのこと)であり資成軌に属す。本末究竟等とは、空等(相から報までの如是が空という在り方において等しいということ)は観照軌、仮等(仮という在り方において等しいということ)は資成軌、中等(中という在り方において等しいということ)は真性軌である。すなわち一界の十種において三軌を論じるのである。

ここで、ただ凡夫の一念にすなわち十法界を備えることを述べる。一つ一つの界にはすべて煩悩の十種の性・相などがあり、悪業の十種の性・相など、苦道の十種の性・相などがある。もし無明煩悩の十種の性・相などがあれば、すなわちこれは智慧観照の十種の性・相などである。なぜなら、真理の明に迷うために無明を起こすからである。もし無明を知るならば、それは明によることである。『涅槃経』に「無明が転じ、変じて明となる」とある。『維摩経』に「無明はすなわち明である」とある。まさに知るべきである。無明を離れて明があるのではない。氷は水であり水は氷であるようなものである。また凡夫の心の一念に十界を備え、またすべて悪業の十種の性・相などがある。ただ悪の十種の性・相などは、そのままで善の十種の性・相などである。悪によって善があり、悪を離れて善はない。あらゆる悪を翻せば、すなわち善の資成である。竹の中に火の本性があるとしても、まだ火が起こらなければ、本性があっても焼かれることはなく、条件がそろえば、物を焼くようなものである。悪は善の本性であるが、まだ事象に表われていないだけである。条件がそろって事象に表われれば、悪を翻すのである。竹に火の本性があり、火が出れば、竹自身を焼くようなものである。悪の中に善があり、善が成就すれば、悪自体を破る。このために、悪の十種の性・相などそのままに善の十種の性・相などとするのである。凡夫の一念にみな十界の十二因縁の識・名色などの苦道の十種の性・相などがある。この苦道に迷って生死が明らかにある。これは法身に迷って法身を苦道としているのである。苦道を離れて別に法身があるのではない。南に迷って北となるようなものは、北と別の南があるわけではない。もし生死は法身であると悟るならば、苦道の十種の性・相などはすなわち法身の十種の性・相などであるといえるのである。

心がある者には、みな煩悩道・業道・苦道の「三道」の十種の性・相などがある。これはすなわち三軌の十種の性・相などである。このために『維摩経』に「煩悩のあらゆる事柄を如来の種とする」とあるのはこの意味である。

もし十種の性・相などが十如是となり、如是力・如是作となれば、悟りを求める菩提心を発する。これは真性軌などが動き始めたことである。如是因となれば観照軌が動き始めたことである。如是縁となれば、資成軌が動き始めたことでる。如是果となれば、観照軌が動き始めて、習因が成就することによって般若の習果が満ちることを感得するのである。如是報となれば、資成軌が動き出すことを縁因とすることによって、解脱の報果が満ちることを感得するのである。果報が満ちるために、法身もまた満ちる。これは三徳が究竟して満ちたことであり、秘密蔵と名付ける。如是本末究竟等となれば、性徳(しょうとく・生まれた時から本来備わっている徳)の三軌は表に顕われないままの不縦不横であり、修徳(しゅとく・修行によって身に着けた徳)の三軌は表に顕われた不縦不横である。表に顕われないままのものであっても如が等しく、数が等しく、妙が等しく、表に顕われたものであっても、如が等しく、数が等しく、妙が等しい。このために等というのである。また空が等しく、仮が等しく、中が等しいのである。