大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 123

『法華玄義』現代語訳 123

 

f.他の三法と照らし合わせる

第六に、他の三法と照らし合わせるとは、前に三軌の最初と最後を明らかにしたが、すなわちこれは、縦に通じることに妨げがないことであり、ここでは、横にあらゆる教えを通して、すべて妨げがないことを明らかにするために、あらゆる三法を照らし合わせるのである。なぜならば、条件に応じて名称は異なるが、意義を見極めれば同じであることがわかる。それはほぼ十種類に分けることができる。その他は理解すべきである。その十種類とは、①三道、②三識、③三仏性、④三般若、⑤三菩提、⑥三大乗、⑦三身、⑧三涅槃、⑨三宝、⑩三徳である。あらゆる三法は無量であるが、この十種類に限ることは、その概略の要点を挙げて、その全体像を明らかにするためである。①三道の輪廻は生死の大本であるため、最初に見る。もし生死の流れに逆らおう(注:解脱を求めようとすること)とするならば、②三識を理解し、③三仏性を知り、④三般若(=三智慧)を起こし、⑤三菩提を発し、⑥三大乗を行じ、⑦三身を証し、⑧三涅槃を成就すべきである。この⑨三宝はすべてを利益し、教化の対象が尽きて⑩三徳に入り、秘密蔵に住む。

①三道

第一に三道と三軌を類通させれば、真性軌は苦道であり、観照軌は煩悩道であり、資成軌は業道である。

苦道が真性軌であるとは、『法華経』に「世間の相は常住である」とある。どうして世間の生死に即せずに、法身があるだろうか。

煩悩道が観照軌であるとは、観照軌は本来、惑を照らす。惑がなければ照もない。惑を照らせば一切法空となる。『法華経』に「諸法は本より常に自ら寂滅の相である」とある。すなわち煩悩は観照である。照は、薪から火が生じるようなものである。『法華経』に「あらゆる過去の仏のもとで、もし一句でも聞けば、みなすでに仏道を成就しているのである」とある。また「深く罪福の相に達し、遍くすべての方角を照らす」とある。すなわちこれは煩悩の本に達する妙句なのである。

業道が資成軌であるとは、悪は善の材料である。悪がなければまた善もない。『法華経』に「悪鬼はその人の心に入って、私を罵倒し辱める。私たちは仏を念じるために、みなまさにこのことを忍ぶべきである」とある。もし悪が来て害を加えなければ、仏の念を用いる必要はない。仏の念を用いることは、悪が害を加えることによる。また『法華経』の「常不軽菩薩品」に次のようにある。威音王仏(いおんのうぶつ)のもとで、その教えに執着する者たちは、常不軽菩薩の言葉を聞いて罵倒し辱めた。それは悪業によるものであって、また生まれ変わって常不軽菩薩に出会った。その時、常不軽菩薩は彼らを教化すると、みな悟って不退転の位を得た。また『法華経』に、提婆達多は仏の導き手であったとある。どうして悪が資成軌でないことがあろうか。

三軌は三道であるとは、理法の本性が、『維摩経』にあるように、「非道を行じて仏道に通達する」ことである。五品弟子位の人は、観行即(かんぎょうそく・修行の上で仏と等しくなっている状態。円教の六即の一つ。ここでは第一の理即と第二の名字即は修行が始まっていない段階なので記されていない。以下同じ)において非道を行じて仏道に通達し、六根清浄位の人は、相似即(そうじそく・仏の悟りと類似した智慧が得られた状態)において非道を行じて仏道に通達し、十住より上の位の人は、分真即(ぶんしんそく・真理の一部を体得している状態)において非道を行じて仏道に通達し、妙覚は究竟即(くきょうそく・完全な悟りに達している状態)において非道を行じて仏道に通達する。

②三識

第二に三識と三軌を類通させれば、菴摩羅識(あんまらしき・阿摩羅識ともいう。汚れがなく真如そのものである如来蔵を指す)は真性軌であり、阿黎耶識(ありやしき・阿頼耶識ともいう。自身に認識されることのない自我の根本)は観照軌であり、阿陀那識(あだなしき・末那識ともいう。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の背後に働く自我意識のこと)は資成軌である。

地論宗の人は、阿黎耶識は真理そのものであり、常にあり、清浄なる識であると言っている。一方、摂論宗の人は、阿黎耶識は善でも悪でもなく、無明の中に隠れている識であると言っている。またこれを無没識と名付けて、第九識の菴摩羅識を清浄なる識であるとして、この二つの宗は互いに争っている(注:「識」について述べられる場合、第八識までとする学派と、さらに清浄である第九識まで立てる学派がある。前に『摂大乗論』について述べられた箇所にあったように、天台大師は第九識を立てる。またここでも、その箇所に述べられていた内容が繰り返されている)。

ここで、身近な事柄をもって、広遠なる真理について述べる。人の心は、どのように定めることができるであろうか。善を行なえばそれが善識であり、悪を行なえばそれが悪識である。また善悪どちらも行なわなければ、それが無記識である。この三つの識については、ただ善に逆らうことを悪識として、悪に逆らうことを善識として、善悪両方に逆らうことを無記識としているだけで、これらをはっきり分けることなどできない。一人の人の心の三つの面ということに過ぎない。

三識もまた同様である。第八識である阿黎耶識の中に生死の種子(しゅうじ・いわゆる種のようなもの)があって、条件がそろって増し加われば、それが第七識である阿陀那識を生じさせる。またもし阿黎耶識の中に智慧の種子があって、条件がそろって増し加われば、それが道後の真如(修行の後得た真理)である菴摩羅識を生じさせ、それを浄識(じょうしき)と名付ける。もしこの二つの識の両方に異なるならば、それはただ阿黎耶識に過ぎない。したがってこれは、一法に三法を論じ、三法の中に一法を論じるのである。

『摂大乗論』に「金、土、清らかである、汚れているというような喩えによれば、汚れているのは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識であり、金は浄識であり、土は阿黎耶識である」とある。これは明らかな文である。この文を見れば、どうして煩わしく論争する必要があろうか。『法華経』に「たとえばある人がいて、親友の家に行って、酒を飲んで寝てしまったようなものである」とある。これはどうして阿黎耶識でなかろうか。世間の人の狂い迷う分別の認識が起こり、これによってあちらこちらと動き回り、何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと求める。これはどうして阿陀那識でなかろうか。仏の教えを聞くという種子が起こって、修行などの条件がそろい、『法華経』にあるように、酒を飲んで寝てしまった友人の衣に宝石を縫い付けて去って行ったその親友に再びあって、衣に宝石があることを知らされるようなことは、どうして菴摩羅識でなかろうか。この菴摩羅識を無分別智光(むぶんべつちこう)と名付ける。

もし阿黎耶識の中にこの智慧の種子があれば、これは理性の無分別智光である。五品弟子位は観行即の無分別智光、六根清浄位は相似即の無分別智光、初住から上は分真即の無分別智光、妙覚位は究竟即の無分別智光である。麁と妙はわかるであろう。