大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 124

『法華玄義』現代語訳 124

 

③三仏性

第三に三仏性と三軌を類通させれば、真性軌は正因仏性(しょういんぶっしょう・もともと備わっている仏性のこと)であり、観照軌は了因仏性(りょういんぶっしょう・仏性自ら仏性を照らす智慧のこと)であり、資成軌は縁因仏性(えんいんぶっしょう)仏性自ら仏性を表わすために行なう行のことである。このために、『法華経』に、「あなたは私の子、私はあなたの父である」とあるのは、すなわち正因仏性のことである。また『中本起経』に、「私は昔、あなたにこの上ない道を教えるために、一切智の誓願は、なお失っていない」とあるのが、この中の一切智はすなわち了因仏性、誓願はすなわち縁因仏性のことである。また『法華経』に「私はあなたたちを軽んじない。あなたたちはみな仏になるであろう」とあるのは、すなわち正因仏性のことである。また僧侶や尼僧や男女の在家信者が、あらゆる経典を読誦するのは、すなわち了因仏性のことである。あらゆる功徳を修行するのは、すなわち縁因仏性のことである。また『法華経』に「長者の子供の十人、二十人、あるいは三十人」とあるのは、すなわちこの三種の仏性のことである。また『法華経』に「あらゆる性相の意義については、私はすでにことごとく知見している」とあるが、「あらゆる性」とは、すなわち三種の仏性が本来あるということである。

三軌がすなわち三仏性であると知るならば、これを理仏性と名付ける。五品弟子位の人は観行即に仏性を見て、六根清浄位の人は、相似即に仏性を見て、十住より等覚に至るまでの人は分真即に仏性を見、妙覚は究竟即に仏性を見る。このために妙というのである。

④三般若

第四に三般若と三軌を類通させれば、真性軌は実相般若(じっそうはんにゃ・実在の真理自体が智慧そのものであるということ)であり、観照軌は観照般若(かんしょうはんにゃ・実在を照らす智慧の働き)であり、資成軌は文字般若(もじはんにゃ・智慧である般若を説く経典のこと)である。具体的には、前に境妙・智妙・行妙の三妙について解釈した通りである。このために『法華経』に「やめよう、やめよう、説くことをやめる。私の教えは妙であり、人の思いの及ばないものである」とある。また「この教えは示すことはできない。この教えの前では言葉は寂滅する」とある。これはすなわち実相般若である。

また「私とあらゆる方角の仏は、すなわちよくこの相を知っている。ただ仏と仏だけがすなわちよくこれを究める」とある。また「私が得た智慧は微妙第一である」とある。これはすなわち観照般若である。

また「私は常に衆生がどのように行じるか、どのように行じないかを知り、悟りを得させるにふさわしいやり方に応じて、あらゆる教えを説く。そのため多くの言葉、適切な方便があるのだ」とある。これはすなわち文字般若である。

また「如来の知見は広大であり深遠である」とある。「広大であり深遠」とは、すなわち実相般若である。「如来の知見」は「広大であり深遠」であるとは、すなわち観照般若である。「方便や知見がそなわっている」ということは、文字般若である。このために三軌はまた三般若の異名に過ぎないことを知る。

この三智(=三般若)が三つの別々の心にある、あるいは別々の三人にあるとするのは、これは麁である。三智が一つの心にあって不縦不横であるとすることが理妙である。五品弟子位の人は観行即の三般若であり、六根清浄位の人は、相似即の三般若であり、十住より十地に至るまでの四十心の人は分真即の三般若であり、妙覚は究竟即の三般若である。

⑤三菩提

第五に三菩提と三軌を類通させれば、真性軌は実相菩提(じっそうぼだい・実在の真理自体が悟りそのものであるということ)であり、観照軌は実智菩提(じっちぼだい・実在を照らす智慧の働きそのものが悟りであるということ)であり、資成軌は方便菩提(ほうべんぼだい・方便そのものが悟りであるということ)である。このために『法華経』に「私は前にも言わなかったであろうか。あなたたちはみな最高の悟りを得るのだ。それは真実ではなく虚妄でもなく、同じでもなく異なってもおらず、三界の人が三界を見るようではない」とある。これはすなわち実相菩提である。また「私は悟りを得てから、非常に長い時間が経過している」とある。これはすなわち実智菩提である。また「私は、若い時に出家して、伽耶城の近くで最高の悟りを得た」とある。これはすなわち方便菩提である。

もし弟子に対して三菩提を明らかにすれば、「もし私が衆生に会えば、すべて仏道を教える」とある。これはすなわち実相菩提である。「実智の中に安住して、私は必ず仏となる」とある。また「仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏になることができる。この宝の乗り物に乗って、すぐに悟りの道場に至る」とある。これは修行の成就の実智菩提である。出家して修行して悟りをえるという形をとって仏となるという約束を授けることは、すなわち方便菩提である。

一つでもなく異なってもいないということは、如と名付ける。しっかりと理解していないことを麁と名付け、しっかりと理解していることを妙と名付ける。すべての衆生は理性(りしょう・真理においてという意味・六即の最初の理即のこと)の菩提であり、五品弟子位の人は名字即の菩提であり、六根清浄位の人は、相似即の菩提であり、十住より等覚に至るまでの四十一の位の人は分真即の菩提であり、妙覚は究竟即の菩提である。

(注:最高の悟りを、古代インド語の音写文字として「阿耨多羅三藐三菩提」と表記するが、この最後の「三菩提」は、あくまでも音写であり、三つの菩提という意味ではない。しかし原文を見る限り、ここではこの音写文字と、三つの菩提である「三菩提」とを混同しているように見える。しかし結局は同じ意味となるので、問題はないと見るべきである)。

⑥三大乗

第六に三大乗(さんだいじょう・三つの大いなる教えという意味)と三軌を類通させれば、真性軌は理乗であり、観照軌は随乗であり、資成軌は得乗である。このために『法華経』に「仏は自ら大乗に住む。その得るところの教えは、禅定と智慧の力をもって荘厳されている」とある。「大乗に住む」とは、すなわち理乗のことであり、「禅定と智慧によって荘厳されている」とは、すなわち随乗のことであり、「得るところの教え」は、すなわち得乗である。また、これに加え、先に引用した『法華経』の経文を再び共に用いれば、「仏は自ら大乗に住む」は理乗、「道場において知り終わる」は随乗、「導師は方便をもって説く」は得乗である。また「舎利弗は本願のゆえに三乗の教えを説く」は得乗と随乗である、また「この乗は微妙であり、最も清浄である」は理乗である。「一仏乗において」は理乗、「分別して三と説く」は得乗と随乗である。

不縦不横の妙は、麁を開く妙である。十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の七位を経る。五品弟子位の人は名字即の乗であり、六根清浄位の人は相似即の乗であり、十住より等覚に至るまでの四十一の位の人は分真即の乗であり、妙覚は究竟即の乗である。

三身

第七に三身と三軌を類通させれば、真性軌は法身であり、観照軌は報身であり、資成軌は応身である。『新金光明経』に「法身によって報身があり、報身によって応身がある」という通りである。これは前に述べたように、境妙によって智妙があり、智妙によって行妙があるようなものである。その経文に「仏の真実の法身は、なお虚空のようである。物に応じて形を現わすことは、水に映る月のようである」とある。報身はすなわちここでいう天の月である。

先にあげた『法華経』の経文に「仏は自ら大乗に住む」とあったが、すなわち実相の身は、なお虚空のようである、ということである。「禅定と智慧の力によって荘厳されている」とあったが、智慧は天の月のようであり、禅定は水に映った月のようである。また「ただ仏と仏のみがよく諸法の実相を究める」とは、すなわち法身のことである。「私が得た智慧は、微妙であり第一である」とは、すなわち報身のことである。「名はあまねく広まっている」とは、すなわち応身のことである。また「生まれたのではないままで生まれたことを現わす」などの表現は、応身のことである。「あるいは自らの身を示す」とは、法身と報身である。「あるいは他の身を示す」とは、報身と応身である。「私は仏の相によって荘厳された身の光明によって、あらゆる方角を照らし、実相の印を説く」とあるが、「実相の印」とは法身のことであり、「あらゆる方角を照らす」とは応身、「荘厳された身」とは報身である。また「深く罪と福の相に達し、あまねくあらゆる方角を照らす」とは、報身である。「微妙で清らかな法身」とは、法身のことであり、「三十二の相を備える」とは応身である。

三軌の名称は異なっているが、意義はすなわち三身である。このために、『観普賢菩薩行法経』に「仏の三種類の身は、大乗から生じている」とある。『法界性論』には「水銀は真実の金に溶けて、よくあらゆる色の像を塗る」とある。功徳は法身に和合して、あらゆるところに応じて身を現わす。

この三身は、不縦不横の妙である。三身をよく理解して、法身妙に入り、七位の妙を経る。