大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 127

『法華玄義』現代語訳 127

 

⑥.感応妙

 

迹門の十妙の第六に、感応妙(かんのうみょう)について述べるが、ここまで述べた境妙・智妙・行妙・位妙の四妙を「円因」と名付け、三法妙の秘密蔵を「円果」とする。境妙が究竟して顕われる仏を「毘盧遮那(びるしゃな)」と名付け、智妙が究竟して満ちた仏を「盧舎那(るしゃな)」と名付け(注:毘盧遮那も盧舎那も、同じ「ヴァイロチャーナ」の音写であり、訳者が異なっているので異なって表記されたに過ぎない。ここでは説明のためにこのように分けていると考えられる)、行妙が究竟して満ちた仏を釈迦牟尼と名付ける。この三仏は一つでもなければ異なってもおらず、時間的な違いである縦でもなく、空間的な違いである横でもないので、妙果と名付ける。『大智度論』に「智度無子仏(ちどむしぶつ・智度とは般若のこと)」に礼拝を捧げる」とあるのは、仏の果地が完全に究竟しており、弟子たちの因位は無いことである。このために無子といっている。仏の果智は寂滅のままで照らし、感(かん・衆生から仏に向けられた求め)があれば必ず応じるために、感応妙について述べるのである。

感応妙を述べるにあたって、六つの項目を立てる。一つめは、感応の名称について解釈し、二つめは、相を明らかにし、三つめは、同異を明らかにし、四つめは、相対を明らかにし、五つめは、麁妙を明らかにし、六つめは、観心を明らかにする。

 

a.名称について解釈する

感応の名称について解釈するにあたって、また三つの項目を立てる。一つめは釈名である。二つめは四悉檀に対応させて解釈する。三つめは問答である。

◎釈名

正法華経(しょうほけきょう・妙法蓮華経鳩摩羅什訳であるが、この経典の訳者は竺法護(じくほうご)である)』に「無数の世界に、広く経典の教えを説く。世尊の行なうところは、まさに感応である」とあるところから、この名称を用いる。しかし、諸経典の中の機や縁という言葉は、この感と意味は同じである。すなわち衆生のことである。ここでは機という用語をもって解釈すれば、その意味はわかりやすい。縁と感はこれによって理解すべきである(注:機と縁という言葉は、衆生を意味する言葉として経典に多く記されているが、それに比べて、感という言葉は多くないであろう。さらに縁という言葉は、因縁の縁、つまり条件という意味の言葉に混同されやすいため、機という言葉を用いるのであろう)。

機に三つの意義がある。一つめは、機は「微」の意味である。『易経』には「機とはわずかな動きを表わし、まず吉が現われる」とある。また『阿含経』に「衆生に善法の機があれば、聖人が来てそれに応じる」とある。衆生にこれから生じようとする善があるならば、この善がわずかにまさに動こうとしていることを機とすることができる。もし、まさに生じようとしている善を機とすれば、この言葉は促す働きを意味する。またもし、生じるであろう善を機とすれば、この言葉は過去現在未来に広く応用される意味となる。たとえば、弩(いしゆみ)に発射することができる機があるために、射る者はこれを発射させ、これを発射すれば矢が飛び、発射しなければ矢は飛ばない。このように、衆生に生じるであろう善があるために、聖人がこれに応じて導くので善が生じ、応じなければ生じることはない。このために機とはわずかな動きを意味するのである。

機に三つの意義があるうちの二つめは、『古注楞伽経』に「機は関(注:かんぬきという意味)の意味である」とある。なぜなら、衆生に善と悪があって、聖人の慈悲に関係を結ぶことがあるために、機は「関」の意義がある。

機に三つの意義があるうちの三つめは、機は「宜(ぎ・ふさわしい、適当だという意味)」の意義である。無明の苦を除こうとするならば、まさに慈悲の悲にふさわしく、法性の楽を与えようとするならば、まさに慈にふさわしいようなものである。このために機は宜の意義である。

感応の感を機に置き換えて見てきたが、次に応の名称について述べる。また、三つの意義がある。一つめは、応は「赴(ふ・おもむくという意味)」の意義がある。上に述べたように、すでに機に善が生じる理法がある。こうして機がわずかにまさに動こうとするところに、聖人がそこに赴けば、その善は生じることができる。このために赴をもって応を解釈する。

応に三つの意義があるうちの二つめは、応は「対」の意義がある。人の交わりにおいて、互いに相対するようなものである。もし一人は売ろうとしているのに、一人は買おうとしなければ、相対することは成立しない。もし売ろうとすることと買おうとすることが和合すれば、貿易が成り立って、誰であっても互いに悔いはない。ここでは衆生を買う側に喩え、如来を売る側に喩える。機については関をあげたが、応については対をあげることができる。このように、対をもって応を解釈する。

応に三つの意義があるうちの三つめは、応は「応」の意義がある。上に機は宜の意義があると述べた。では宜どのような法(注:この場合は抽象的な概念を指す)にふさわしい(注:宜には「ふさわしい」という意味がある)のか。それが慈悲の法であるならば、善悪にふさわしい。悲は苦を救うことにふさわしく、慈は楽を与えるのにふさわしい。したがって、どのような法であっても、ふさわしければそれに応じる。このために応をもって応を解釈する。

(注:以上述べられた機の三つの意義である「微」「関」「宜」、そして応の三つの意義である「赴」「対」「応」の三つの意義はそれぞれ対応しながらこれ以降の繰り返し述べられる)。

◎四悉檀に対応させて解釈する

四悉檀に対応させて解釈するとは、機と応にそれぞれ三つの意義がある。それが四悉檀の意義である。もし微をもって機を解釈し、赴をもって応を解釈すれば、楽欲(ぎょうよく・願い欲するという意味)の心に赴く。なぜただ善を生じさせる心のみが、楽欲と名付けられるであろうか。草木のような無心のものにおいては、自然と生じる可能性がある場合と、今まさに生じようとしている場合と、将来に生じるであろう場合などがあり、みな楽欲に属する。このために、善が生じるところに赴くことは、楽欲に従うことなのである。すなわち世界悉檀をもって機と応を解釈する。

もし関をもって機を解釈し、対をもって応を解釈すれば、さらに互いに相対する。悲をもって苦の機に対し、慈をもってその善の機に対することは、すなわち対治悉檀に従って機と応を解釈することである。

次に宜をもって機を解釈し、応をもって応を解釈することは、すなわち各各為人悉檀と第一義悉檀である。適切にこのような法をもって対応すれば、その機と応が適切に相対する。事象的な善を適切に生じさせることは、すなわち各各為人悉檀である。理法的な善を適切に生じさせることは、すなわち第一義悉檀である。

◎問答

問う:何の意義をもって、理法的な善を第一義悉檀というのか。

答える:理法的な善の光が生じれば、理法的な闇は必ず滅びる。理法的な悪が滅んでこそ、初めて理法的な善が生じるのではない。このために理法的な善を第一義悉檀というのである。一方、事象的な善が生じても、必ずしも事象的な悪は去るわけではない。事象的な悪が去っても、事象的な善が必ずしも生じるわけではない。事象的なことは相対的なことである。対治悉檀はまさに薬が病に相対するようなものである。このために、事象的な善を第一義悉檀とはいわないのである。

問う:衆生の機と聖人の応は一つであろうか、異なっているのであろうか。もし一つであれば、すなわち機と応の二つではないことになる。もし異なっているならば、なぜ互いに交わり関係し合って、機応つまり感応が成立するのだろうか。

答える:一つでもなければ異なってもいない。理法をもって述べれば、すなわち同じく如(にょ)である。このために、異なっているわけではない。事象をもって述べれば、機と応の区別がある。このために、一つではない。たとえば、父子の天性(てんしょう・持って生まれたもの)が互いに関係し合っているようなものである。しかし、骨肉である身体が異なっているので、互いに同じとは言えない。もし同じならば、父は即ち子であり、子は即ち父であるとなる。そのようなことはないので、同一とは言えない。ただ一つでもなく異なってもいないままで、父子という関係があるのである。衆生の理法的な本性は仏と異なっていない。このために異なっていないというのである。しかし、衆生は有限な存在であり如来は永遠に顕われる。このために一つではない。一つでもなく異なってもいないままで、しかも機と応となるのである。

また機も応も、同じく事象でもなく理法でもないので、異なっていない。しかし衆生は事象的な存在であり、聖人は理法的な存在である。また理法的な働きから見ると、聖人は事象的な存在としても現われるが、凡夫はもっぱら理法的な本性に留まる。このために異なっているのである。

問う:仏は法身を用いて応じるのであろうか。応身を用いて応じるのであろうか。もし応身をもって応じれば、応身はすでに事象的な体となっており、本となる理法的な体はない。どうして変化のある衆生に応じることができるだろうか。もし法身をもって応じれば、事象的な衆生に応じるものは理法ではなくなっているので、法身ではなくなる。

答える:あらゆる法を究極的に表現すれば、過去現在未来はないことになる。それは応でもなく応でないこともないままで、よく応じる。また、法身の応ということができ、応身の応ということができる。法身の応は目に見えない利益(りやく)であり、応身の応は目に見える利益である。目に見えないことと目に見えることを分別することに関しては、四つの意義があるが、これは後に説くことにする。