大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 131

『法華玄義』現代語訳 131

 

⑤麁妙を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての五つめは、麁と妙を明らかにすることである。これについて、三つの項目がある。一つめは、機の麁と妙を明らかにし、二つめは、応の麁と妙を明らかにし、三つめは、麁を開いて妙を顕わす。

◎機の麁と妙を明らかにする

楽についても、その間に存在する楽間地獄(らくけんじごく)の楽は、微細な善因による。このために、『立世阿毘曇論』に「人が馬、牛、羊、犬、鶏、豚などの家畜を飼う時に、温かい餌や冷たい餌を適度に与えるなどすれば、熱地獄に堕ちても涼しい時があり、寒地獄に堕ちても暖かい時がある」とある。もしこの意義に従えば、楽間地獄に十法界の機があるということができる。しかし、阿鼻地獄には楽がある時がないので、事象的な善はない。ではなぜ十法界を備えるのだろうか。それは、阿鼻地獄においても、理性(りしょう・理法的な真理の次元における本性)の善は断ち切られていないからである。また近世(ごんぜ・生まれ変わりにおいて経て来た比較的近い転生の世)に事象的な善はなかったといっても、気の遠くなるような過去には善があったはずである。悪が強く善が弱ければ、冥伏(みょうふく・目に見えない状態で存在すること)してまだ発していないのである。もし因縁が合えば、発することがあるが、それも定まることはない。このために、阿鼻地獄に十法界の機を備えることができるのである。

すなわち麁と妙を判別すれば、九界の機を麁として、仏界の機を妙とする。麁の機は方便の応を召す。この機に熟と未熟がある。方便の応に浅と深がある。機の熟している者には応があり、熟していない者には応はない。応の浅深とは、無間地獄から脱して楽のある複数の地獄に行き、それらの地獄から出て畜生に行き、畜生を出て修羅に行き、このような三悪道から出て人・天に行き、人・天を出て、声聞と縁覚の二乗に行くというようなものは、すべて機の熟と未熟、そして応の浅深によるものであり、すべて麁の機に属する。

妙機は究竟の妙応を召す。妙機にまた熟と未熟がある。妙応にも浅と深がある。『雑宝蔵経』に、慈童女が地獄に行って人の代わりに罪を受け、それによって天に生じることが記されているようなものである。これは妙機が浅くしかも熟していて、欲界の天に行った例である。他のことは、これによって知るべきである。

◎応の麁と妙を明らかにする

聖人の慈悲や誓願は、その誓願を行なう場合、物同士が接着剤でつくように、自然と機とつく。このために慈善根力をもって、仏が襲ってくる象に対して獅子を出したようなものである。もし誓願がなければ、苦楽を観じても、それを抜いたり与えたりできない。慈悲の力をもって、機の麁と妙によって、機が先に熟せば先に応じ、後に熟せば後に応じる。

三蔵教や通教の聖人にもまた応があるが、ただ作意された神通力であるのみである。たとえば、絵を写し取るためには、その通りになぞれば完成するようなものである。詳しく論議すると、そこに本体はない。なぜなら、結局、身は灰となって智慧も滅び、常住することはない。どうして応を起こすことができるのだろうか。別入通教のようなものは、別教の惑がまだ断じることがなければ応ずることはできない。たとえ対象に赴いても、それらはみな麁応である。

別教と円教の場合は、初心に惑を抑えても、まだ応じることはできない。別教の初地や円教の初住に三観が現われ、二十五三昧を証し、法身清浄であって、煩悩がないことは虚空のようであり、動くことなくすべてに応じる。思いも念もなく、機にしたがって対応する。空の月が降りて来ることなく、それを映すあらゆる水も昇ることなく、川の長短に従って、その器の大きさに従って、前なく後ろなく、同時に遍く現われるようなものである。これは不思議の妙応である。またきれいな鏡の表と裏が透き通って、一つの像も千の像も選ぶことなく、功徳の力など用いなくても、自然に像を映すようなものである。これを妙応という。これは相待妙をもって感応妙を述べることである。

◎麁を開いて妙を顕わす

九界の機は麁であって、仏界の一界の機は妙であるならば、また法身の応を得ることにはならず麁である。法身の応を受けるのは妙の者である。あらゆる大乗経典や『華厳経』などには、麁妙が互いに隔てることを明らかにしている。声聞と縁覚の二乗が聞かず悟ることがないことは、口のきけない人や耳の聞こえない人のようなものである。『無量義経』に麁と妙を明らかにすることは、一つの真理から無量の麁・妙の機と応を出すことである。一つの真理を妙として、無量の機と応を出すことを麁とする。これは妙から麁を出すことであり、妙と麁は隔たって交わることはない。

法華経』は、無量の機と応が一つとなることを明らかにする。これは開権顕実するとき、麁はそのまま妙となるからである。なぜなら、もともと一つの真理を表わす時、あらゆる方便を用いれば、その方便がそのまま真実である。このために、「あらゆる行為はすべてひとつの事のためである。これは今までも同じである」とある。たとえば、三種類の草と二種類の木は、種類は違っていても、生える土地は同じであるようなものである。すなわち、源が同じであることは機が一つであることである。同じ雨が潤すことを説くことは、受けるものが同じであって、応が一つであることである。愚か者はこのことが理解できない。草木の色や香りや味や肌触りは、もともと土地とは関係ないという。智者は、その四つが生じるのは土地からであり、その四つが消滅するのはただ土地に還るだけだと悟っている。どうして草木が存在するのに、それは土地と関係ないであろうか。これはすなわち権を開いて、実を顕わすことである。『法華経』は声聞の教えを究竟するので、諸経の王である。九界の機は、みな仏界の機である。声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の応は、そのまま妙応ではないということはない。

 

f.観心を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての六つめは、観心を明らかにすることである。

(注:この箇所の文はない。以上で感応妙は終わる)