大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 133

『法華玄義』現代語訳 133

 

③「同異」を明らかにする

「神通妙」について述べるにあたっての三つめは「同異」を明らかにすることである。たとえば、「餓鬼道」に生まれることは、「業」の報いにおける「神通」である。また、人は薬を飲んで「神通」を得る。仏教以外の宗教である外道は、「根本禅(こんぽんぜん・この世の次元の瞑想)」によって「神通」を発する。諸天は「業」の報いにおける「神通」である。声聞と縁覚の「二乗」は、「八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)」、「八勝処(はちしょうしょ・八通りの認識の対象を観じて執着を捨てる方法)」、「十一切処(じゅういっさいしょ・すべての実在を十種類に分類して観じる方法)」によって、「十四変化(じゅうよんへんげ・「八背捨」、「八勝処」、「十一切処」は外道も修す「根本禅」からさらに進んだ「出世間禅」で修すものであり、この結果十四通りの報いを受けるとする)」。「六波羅蜜」を修す「蔵教」の菩薩は、「禅定」によって「五神通(六神通から「無漏通」を除いた五つ)」を得て、悟りの道場に座る時、「六神通」を得る。「通教」の菩薩は、禅定によって「五神通」を得て、「体空観」の「智慧」によって、「無漏通」を得る。「別教」の「十地」以前の「位」では、「禅定」によって「五神通」を発し、「十地」に至って正しい「無漏通」を発して、心のままに常に照らして、相対的な見方では諸仏の国土を見るようなことはなくなる。

(注:このような記述を見ると、神通力と言ってもかなり幅が広く、人が薬を飲んでも神通力を得ると表現されているところから、現代風に表現するなら、日常生活では得られない能力というような意味と解釈して問題はないであろう)。

「円教」の「神通」とは、『法華経』および『普賢観経』によって、「鼻根」と「舌根」を加えて「六神通」とする(注:ここまでで見た六神通においては、天眼通は眼根、天耳通は耳根、他心通と宿命通と無漏通は意根、如意身通は身根による神通であった。したがって、鼻根と舌根は除外されていたわけだが、円教に至って、六根がそのまま六神通となる、ということである)。『菩薩処胎経』でも同じことが記されている。「他心通」と「宿命通」は「意根」に属する。しかし『法華経』の文においては、「鼻根」の「神通」について詳しく述べられている。「六根」の互いに備え合うことも妨げがない。また「舌根」も「眼根」「耳根」「鼻根」「身根」に通じ、「舌根」によって出される一つの「妙」なる声をもって、すべての世界に遍満させる。しかし味を知ることは述べられていない。味を知ることは、「業」による報いであるからである。『法華経』には、「あらゆる六根は明らかに働き、智慧は明瞭である」とある。「六根」がみな「智慧」とされることは、互いに備え合っているという意味である。

そして「六根」の「神通」は、事象的な「禅定」によっては発しない。これはすなわち「中道」の真理によるものである。真理に自ら「神通」があって、自然に成就することにより、人間の作意は用いない。このために「無記化化禅(むきけけぜん)」と名付ける。別に作意がないために「無記」という。自然に常に明るく照らすことは、自然に奏でられる阿修羅の琴のように、その変化(へんげ)はよく変化するために「化化」という。「中道」の真理の「神通」はこのように自然であって、他の「神通」とは異なっている。その行なわれるところを論じれば、みな、「実相常住」の理法を対象とする。『法華経』に「この常(じょう)の眼根が清浄となる」とある。ここにある「この常」は、すなわち「本性清浄」の「常」であって、その本性に汚れはない。『阿毘曇毘婆沙論』に「六入(ろくにゅう・眼耳鼻舌身意)が殊勝であることは、もとからそうであるからである」とある。

『鴦掘経』に「いわゆる彼の眼根は、あらゆる如来において常である。完全に備わっていて無減修(むげんしゅ)であり、了了分明見(りょうりょうぶんみょうけん)である」とある。また他も同じく「耳、鼻、舌、身、意は、みなあらゆる如来において常である。完全に備わっていて無減修であり、了了分明聞知である」などとある。「彼」とあるが、仏においては「自」となり、衆生においては「彼」となるのである。衆生は「無常」であるとするが、如来においては「常」である。「無減修」とは、「禅定」によって修行することを「減修」といい、「実相」によって修行することを「無減修」と名付ける。「仏性」を見ないことを「不了了見」といい、「仏性」を見ることを「了了見」と名付ける。また「実相」の絶対的理法を見ることを「了了」と名付け、「法界」の相対的事象を知ることを「分明」と名付ける。この「見」に二種ある。一つは「相似即」の「見」であり、もう一つは「分真即」の「見」である。

「相似即」の「見」とは、「六根清浄」のところで述べた通りである。「分真即」の「見」について述べれば、『華厳経』に述べられている仏の眼、耳、鼻、舌、身、意の通りである。この経の中にも、真実の「身」の「神通」の相を明らかにしている。いわゆる遍く目に見える身を現わし、すべての衆生が見て喜ぶ身を示現するということは、外に現わされる「身」の「神通」である。その身を現わすことは、瑠璃のようである。また、あらゆる方角の諸仏はすべてその身において現われるということは、「内現身」の「神通」である。眼、耳、鼻、舌などの「内外」の示現も、またこれに同じである。これは「円教」の「神通」であり、前に述べた他の教のものとは異なる。

問う:「六根」がそのまま「六神通」ならば、なぜ功徳に増減があるのか。

答える:『大智度論』の四十には、「鼻、舌、身を同じく覚(がく)とし、眼を見(けん)とし、耳を聞(もん)とし、意を知(ち)とする。鼻、舌、身の三識の知る対象は同じとし、眼、耳、意の三識の知る対象を別とする。眼、耳、意の三識は仏の道法を助けることが多いので別と説き、鼻、舌、身の三識はそうではないので、対象は同じとする。また鼻、舌、身の三識はただこの世のことを知るのみであるために、対象は同じとし、眼、耳、意の三識は同じくこの世のことを知るが、またこの世を出た次元のことを知るために別と説く。また鼻、舌、身の三識は無記(むき・人の作意とは関係がないこと)であるが、眼、耳、意の三識は善、悪、無記などを対象とする。また眼、耳、意の三識は「三業(身・口・意)」を生じさせる因縁であるため、別と説く」とある。このような意義で見れば、むしろ、聞くことである「耳根」と話すことである「舌根」と考えることである「意根」がさまざまな意義を持つので『法華経』に記されている通り千二百の功徳があり、見る「眼根」と嗅ぐ「鼻根」と触覚である「身根」は意義が多くないのでただ八百の功徳がある。しかしこれは単なる一例に過ぎないので、『法華経』の「円教」の意義ではない。『正法華経』には、「功徳は平等であり同じく千ある」とある。

法華経』は「六根」が互いに他の働きを備え合っていることを表わしており、「耳根」と「舌根」と「意根」の三根の千二百のうちの二百功徳をもって、「眼根」と「鼻根」と「身根」の三根の千から二百足りない部分を補って、互いに働き、自由自在で無礙である。すべてが等しく働くことを『正法華経』では功徳は等しいと説き、足りないところがあることについては、『法華経』のように「眼根」と「鼻根」と「身根」の三根の八百と表現し、満たすことについては「耳根」と「舌根」と「意根」の三根の千二百と表現しているのである。さらに『法華経』には「この経を保てば、その功徳は無量である。虚空に際限がないように、その福は限りがない」とある。「六根」が互いに働き合うのは明らかである。