大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 134

『法華玄義』現代語訳 134

 

d.麁妙を明らかにする

神通妙について述べるにあたっての四つめは、麁と妙を明らかにすることである。神通をもって人々を導くことにおいては、ただその身を変えて、その聖人の持つ報いに応じた働きをするだけではない。その国土自体を変えて、その国土に応じた報いに対応する。『瓔珞経』に「すべての国土の応を起こし、すべての衆生の応を起こす」いう通りである。もしその持つ報いに応じて変化(へんげ)すれば、十法界の身の変化となる。もしその国土に応じれば、十法界の国土の変化となる。

もし地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に応じれば、悪業を観じる慈悲を用いて、無記化化禅(むきけけぜん・真理に自ら神通があるために、人間の作意は用いられないで自然に成就し、対象をよく照らす禅定)によって地獄等の形と本質に応じる。たとえば、黒い毛で身を覆い、猿や鹿や馬や大鷲やスズメや修羅などの姿を現わし、このようにそれぞれその行為に同化する。また人、天の身体に応じれば、善業を観じる慈悲を用いて無記化化禅によって善道の身となる。悟りを開く直前の段階の菩薩のように(注:歴史的釈迦がそのモデル)、正しい智慧をもって母胎に託し、地に産み落とされてすぐに七歩歩き、手足を洗い、柳の枝をもって自ら身を清め、成人すれば妃を迎えて子を生み、その後、世を嫌って出家する。このように、天における姿も同じようである。このようにそれぞれの行為に同化する。また三蔵教の声聞と縁覚の二乗に応じれば、析空(しゃっく)の慈悲を用いて、無記化化禅によって老比丘の姿を現わし、僧侶たちと行動を共にし、律儀に従うなど、このようにそれぞれの行為に同化する。また通教に応じれば、即空の慈悲を用いて、無記化化禅によって体空観を修す姿を現わし、無生を観じ、苦・空を習得することに応じ、この世のものを実体として認識しない。このようにそれぞれその行為に同化する。また別教に応じれば、即仮・即中の慈悲を用いて、無記化化禅によって漸教や頓教の応を起こして、大河の砂の数ほど多いあらゆる仏法を修す姿を現わす。このようにそれぞれその行為に同化する。また円教に応じれば、即中の慈悲を用いて、無記化化禅によって円頓の応を起こして、一の中の無量、無量の中の一を修す姿を現わす。このようにそれぞれその行為に同化する。

このように、その報いに応じることはすべて測ることはできない。その意義をもって理解するのみで、言葉によって表現することはできない。

この意義をもって、漸教と頓教の五味の教えの喩えによって神通を用いることを述べれば、まず、乳味(華厳時)の教えで用いる神通力は、多い少ないの違いはあるが、一麁(別教)一妙(円教)である。三蔵教(酪味)において神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、一麁(三蔵教)である。方等教(生蘇味)において神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、三麁(三蔵教、通教、別教)一妙(円教)である。般若教(熟蘇味)において神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、二麁(通教、別教)一妙(円教)である。

法華経』(法華涅槃時・醍醐味)の神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、一妙である。そのために『法華経』の序品の中に記されている瑞相(ずいそう・神通力による光景)に十種あるが、みな妙を表わす。その十種(①~⑩)とは、まず、「地はみな荘厳で清らかである」とは理法の妙(=①境妙)を表わし、「眉間から光を放つ」とは②智妙を表わし、「三昧に入る」とは③行妙を表わし、「天より四種の花を降らす」とは④位妙を表わし、「栴檀の香風」とは乗の妙(=⑤三法妙)を表わし、「僧侶と尼僧と男女の在家信者たちは疑った」とは機を表わし、「一万八千の国土を見た」とは応を表わす。すなわちこの二つの妙は⑥感応妙を表わす。「大地が六種に振動した」とは⑦神通妙を表わし、「天の太鼓が自らなり、そして説法をした」とは⑧説法妙を表わし、「天龍や大衆は歓喜した」とは⑨眷属妙を表わす。また「弟子たちがあらゆる修行をすることを見た」とは⑩功徳利益妙を表わす。ここに神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、共に妙を表わすのである。

法華経』に「今、仏は三昧に入った。これは不可思議であり、希有(けう)の事象を現わした」とあるが、この「希有の事象を現わす」とは妙の神通力である。もし国土に応じれば、二つの意義がある。国土の苦・楽は衆生によることであって、仏によることではない。仏はそこに応じるのみである。もし誤りを破り、正しいことを受け入れるならば、仏は対象を見抜いて、苦しみのある国を作ったり、楽のある国を作ったりする。その視点から言えば、苦・楽は仏によることであって、衆生によることではないのである。

ここでまず、国土の苦・楽は衆生によることであるという意義を解釈する。『大智度論』に「ある国土があって、そこには声聞しかいない。あるいはある国土があって、そこには菩薩しかいない。あるいは菩薩と声聞が共に僧となっている国土があり、あるいは清らかな国土、汚れた国土がある」とある。

このような違いは何によることであろうか。それはみな、教えと戒律に対する緩慢さと熱心さの違いによる。戒律に対しては緩慢で教えに対してもまた緩慢であるならば、これは汚れた国土であり、菩薩と声聞が共に僧となっている。戒律に対して緩慢なために、五濁(ごじょく・五つの穢れのことを指し、劫濁(こうじょく・時代そのものが汚れている)、見濁(けんじょく・思想が汚れている)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく・寿命が短い)をいう)であり、汚れた国土である。教えも緩慢なために、声聞、縁覚、菩薩の三乗がいる。しかしそこに教えが熱心である点もあれば、一乗が現われる。それは娑婆(しゃば・この世のこと)である。あるいは、戒律に熱心で、教えに対しては緩慢さと熱心さがあれば、浄土である。戒律に熱心であるために、国土に五濁はない。教えに緩慢さと熱心さがあるために、三乗がいる。しかしそこに教えが熱心である点もあれば、一乗が現われる。それは極楽浄土である。教えが緩慢で戒律に熱心であるので、それは浄土であり、声聞だけがいる。これは知るべきである。戒律が緩慢で教えが熱心であるので汚れた国であり、菩薩だけが僧となる。これも知るべきである。このように清らかであったり汚れたりすることは、すべて衆生側の理由により、その高低苦楽は仏とは関係ない。

もし誤りを破り、正しいことを受け入れるという面の意義において見るならば、国は仏によるものであり、衆生は関係ない。仏は悪を観じる慈悲と無記化化禅が合わさることにより、汚れた国を起こし、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。善業の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、人と天の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は、析空観や六波羅蜜などの慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは汚れた国を起こし、あるいは清らかな国を起こして、声聞と菩薩の人と天の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は体空観の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは清らかな国を起こし、あるいは汚れた国を起こして、通教の声聞と菩薩の人と天の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は歴別(りゃくべつ・観心を段階的に行なうこと)の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは清らかな国を起こし、あるいは汚れた国を起こして、別教の菩薩の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は即中の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは清らかな国を起こし、あるいは汚れた国を起こして、円教の菩薩の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。このように、あらゆる国を起こすことについては不同であり、これはみな如来の神通力の転変による。

ここで、この衆生と国土の転変をもって、三蔵教と通教と別教の意識的になされた神通に対して、すべて麁と名付ける。たとえば、絵を描くことにおいて、思いを尽くし力を尽くしても、結局はそれは絵であって実物ではないようなものである。これを麁と名付ける。鏡が姿を写すことにおいて、自然と実物に似るようなものは、妙と名付ける。方便の神通は、この麁である絵の喩えのようである。中道は自然に働き、対象に相対してすぐに応じる。鏡の喩えのように妙とする。

無記化化禅の働くところの神変について麁と妙を論じれば、もし九界の衆生のために、方便の神通力を用いて、清らかさを起こし、汚れを起こすならば、広くても狭くても、すべて麁と名付ける。もし仏法界の衆生のために、真実の神通力を用いて、清らかさを起こし、汚れを起こすならば、広くても狭くても、すべて妙と名付ける。『法華経』にあるように、眉間の光を放って、一万八千の国土を照らし、および三度国土の様子を変えるようなこと(注:『法華経』において、『法華経』の偉大さを証明するために現われた宝塔を開くために、釈迦が三度にわたって国土を浄化したこと)は、他の経典の神通力に比べれば、多いとすることにどうして足らないことがあろうか。ただ大いなる真理を開発(かいほつ)するためのことなので、妙というのである。

また五味の教えにおいて麁と妙を論じれば、乳味の教えは一麁(別教)一妙(円教)、酪味の教えは一麁(三蔵教)、生蘇味の教えは三麁(三蔵教、通教、別教)一妙(円教)、熟蘇味の教えは二麁(通教、別教)一妙(円教)、『法華経』(法華涅槃時・醍醐味)は一妙である。

また諸経の妙は同じであって、麁は異なっている。麁に二種類ある。一つは難転の麁であり、もう一つは易転の麁である。「易転」とは、諸経の中において、妙とすることができるという意味であり、「難転」とは、この『法華経』において、声聞と縁覚の二つの麁がなく、ただ菩薩の一つの妙があるのみという意味である。ただ仏にあって最も大切な教えを説くという因縁だけがあり、他のことはない。たとえ九界の神通力と同じであり、衆生は自分で他のことだと思っても、仏にとっては常にこれは仏のことである。『法華経』にある喩えのように、客人となった長者の息子が自分はみじめな人間となったと思っても、父親の長者はすぐに自分の子だとわかったようなものである。これはすなわち相待妙の神通妙である。

また諸経のあらゆる麁の神通は、妙の神通を隔てるものである。『法華経』の神通はすべてを開権顕実するので、同じく妙の神通である。これは、絶待妙をもって妙の神通を明らかにすることである。以上は略して述べたことであり、詳しい論述ではない。

(注:以上で神通妙は終わる)。