大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 135

『法華玄義』現代語訳 135

 

⑧.説法妙

 

迹門の十妙の第八に、説法妙(せっぽうみょう)について述べる。『法華経』に「諸法は示すべきではない。言葉の相は寂滅している。しかし因縁があるので、説き示すべきである」とある。前に悪を破る「薬樹王身」と善を生じさせる「如意珠身」について述べたが、この二身はまず、禅定によって起こされる。そして同様に前に述べた悪を破る「毒の太鼓」と善を生じさせる「天の太鼓」の二つの太鼓は、次に智慧をもって苦を抜くのである。一乗を演説すれば、三乗の差別はなく、みな一切智地に到達する。この説かれた教えは、みな真実であり虚妄ではない。このために説法妙である。

このことにあたって、六つの意義を述べる。説法について、名称を解釈し、大小を分け、縁に対する同異を述べ、意義の内容を判別し、麁と妙を明らかにし、観心を明らかにする。

 

a.説法の名称を解釈する

説法妙について述べるにあたっての一つめは、「説法の名称を解釈する」である。過去現在未来の三世の仏の説法は、多く無量であるといっても、十二部経(じゅうにぶきょう・すべての経典を十二種に分類してこのようにいう)をもって収めると、尽くされないことはない。また達摩鬱多羅(だつまうったら・人物不詳)はこの十二部経をさらに七種に分けている。第一に体、第二に相、第三に制名(せいみょう)、第四に定名(じょうみょう)、第五に差別(しゃべつ)、第六に相摂(そうしょう)、第七に料簡である。

◎体

経典はすべて文章や語句をもってその本体としている。すべての経典で、このようになっていないものはない。これが第一の体である。

◎相

長行である散文で直接説き、また詩偈の韻文を作って讃頌(さんじゅ)するものがある。この二つは区別される。なぜなら、読む人の情は喜楽が同じではないので、質素な散文を好む人もいれば、美しい言葉の詩偈を好む人もいる。これが第二の相である。

◎制名

次に、十二部経の各名称は次の通りに制定されている。

修多羅(しゅたら・長行(ちょうぎょう)ともいう。説法を散文で記したもの)、祇夜(ぎや・重頌(じゅうじゅ)ともいう。散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの。まさに『法華経』のほとんどの章(=品)にこれが見られる)、偈陀(げだ・伽陀(かだ)、または孤起(こき)ともいう。最初から独立した韻文で説かれたもの。『法華経』の中にも多少これが見られる)の三部は、字句の表現方法によってその名称とし、その内容によるものではない。

授記(じゅき・和伽羅那(わからな)ともいう。聴衆の中のある者が、将来の世で仏となるという予言)、無問自説(むもんじせつ・優陀那(うだな)ともいう。問われないにもかかわらず自ら語ること)、本事(ほんじ・伊帝目多伽(いたいもくたか)ともいう。聴衆の中のある者の過去世について述べたもの)、本生(ほんじょう・闍陀伽(じゃだか)ともいう。仏の過去世について述べたもの)、未曾有(みぞう・阿浮陀達摩(あぶだだつま)ともいう。仏の不思議なわざや功徳を讃嘆したもの)、因縁(いんねん・尼陀那(にだな)ともいう。経典や戒律の由来を述べたもの)、譬喩(ひゆ・阿波陀那(あわだな)ともいう。教説を譬喩で述べたもの)、論義(ろんぎ・優婆提舎(うばだいしゃ)ともいう。教説を解説したもの)の八部は、その内容によってでもなく、字句によってでもなく、形式によるものである。

方広(ほうこう・毘仏略(びぶつりゃく)ともいう。時間と空間を超越した次元の広大深遠な真理を説き明かしたもの)の一部は、その内容によるものである。

なぜなら、修多羅などの三部は、直接教えの相を説き、その字句の名称によって内容を表わしている。たとえば、苦・集・滅・道のような用語は、名称によってその内容も表わしていて、字句をもって名称としている。

授記経については、その表わそうとする内容は、言葉だけでは説くことのできない事柄である。必ず具体的な事象によって現わすべきことである。記されている具体的な事象によって授記経と名付けられるのである。これはただ、因である修行によって果を得る道理を明らかにするのみである。その理法は事象に託して表わされ、事象は言葉をもって述べられる。『法華経』の中に、声聞のために授記するようなものである。これは、すべての者はみな、まさに仏となることができることを表わす。授記をもってその表わすべき内容としているので、授記経と名付けるのである。

無問自説経とは、聖人の説法は、みな質問の答えとして説かれる。しかし、また衆生のために、質問がなくても答える師となるために、無問自説する。また、仏法は知りがたいので、人は問うことができない。もし自ら説き始めなければ、衆生はそれを説くべきことであるか、説かないべきであることかもわからない。またこのためにそのような説法が必要なのかもわからない。このために、無問自説する。すなわちこのように説かれた内容は大変深く、ただ悟った者が証するしかないことを表わす。このように、無問自説によって、その表わすべき内容を示すのである。

因縁経とは、戒律の教えを説こうとする時、必ずその犯された事柄によってその過ちを表わすのである。その過ちの相がはっきり表わされれば、その制御の方法を立てることできる。このような因縁によって、その表わそうとする内容を示すのである。

譬喩経とは、教えの相は目に見えないので、身近な事柄を借りて、その深遠な真理を喩えるのである。このために言葉をもって喩え、喩えによって理法を表わすのである。

本事経や本生経は、本事経は仏以外の者についてであり、本生経は仏自らのことについてである。現在の状態によって過去の状態について説き、現在の生に託して教えを表わすものを本事経という。そして仏の現在の生に託して、仏の過去の修行について表わすものを本生経という。

未曾有経とは、希有の事柄を説くのである。今まで見たことも聞いたこともないようなことは未曾有である。教えに大いなる力あって、大いなる利益(りやく)があるということを示すために、未曾有の事柄に託して表わすのである。

義経とは、諸部の中の言葉は真理を隠し持っている。それについて何度も繰り返し分別して、その表わすべき理法を明かすのである。つまり論義によって、理法を明かすのである。このために以上、授記経から論義経までの八経は、事象的な形式によって名称を立てているのである。

方広経の一部は、その内容によるものである。方広という理法は、名称をもって説いたとしても、妙であって言葉を越えている。反対に、事象をもって表わそうとしても、一般的な事象をもって表現することができない。このために、名称によってでもなく、事象によってでもなく、その伝えようとされる内容によってその名とするのである。