大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 135

『法華玄義』現代語訳 135

 

◎「説法妙」について詳しく述べる

(注:「迹門の十妙」の中の「A.4.2.b.②.(1).Ⅳ広解」の中の、第八番めである「説法妙」の段落となる)

第八に、「説法妙(せっぽうみょう)」について述べる。『法華経』に「諸法は示すべきではない。言葉の相は寂滅している。しかし因縁があるので、説き示すべきである」とある。前に悪を破る「薬樹王身」と善を生じさせる「如意珠身」について述べたが、この二身はまず「禅定」によって起こされる。そして同様に前に述べた悪を破る毒の太鼓と善を生じさせる天の太鼓の二つの太鼓は、次に「智慧」をもって「苦」を抜くのである。「一乗」を演説すれば、「三乗」の差別はなく、みな「一切智地」に到達する。この説かれた教えは、みな真実であり虚妄ではない。このために「説法妙」である。このことにあたって、六つの意義を述べる。説法について、①名称を解釈し、②大小を分け、③縁に対する同異を述べ、④意義の内容を判別し、⑤「麁」と「妙」を明らかにし、⑥「観心」を明らかにする。

①説法の名称を解釈する

「説法妙」について述べるにあたっての一つめは「説法の名称を解釈する」である。過去現在未来の「三世」の仏の説法は、多く無量であるといっても、「十二部経(じゅうにぶきょう・すべての経典を十二種に分類してこのようにいう)」をもって収めると、尽くされないことはない。また達摩鬱多羅(だつまうったら・人物不詳)はこの「十二部経」をさらに七種に分けている。第一にa.「体」、第二にb.「相」、第三に、c.「制名(せいみょう)」、第四にd.「定名(じょうみょう)」、第五にe.「差別(しゃべつ)」、第六にf.「相摂(そうしょう)」、第七にg.「料簡」である。

①.a.「体」

経典はすべて仏教用語をもってその本体としている。すべての経典で、このようになっていないものはない。このために一部である(注:まさにこの『法華玄義』を見ればそれが明らかである。ちなみに、この仏教用語はなるべく「カッコ」で囲むようにしているが、それも適宜であって、必ずそのようにしているわけではない)。

①.b.「相」

長行である散文で直接説き、また詩偈の韻文を作って讃頌(さんじゅ)するものがある。この二つは区別される。なぜなら、読む人の情は喜楽が同じではないので、質素な散文を好む人もいれば、美しい言葉の詩偈を好む人もいる。そのためにこの二種に分けられる。

①.c.「制名」

次に、「十二部経」の各名称は次の通りに制定されている。

「修多羅(しゅたら・説法を散文で記したもの)」、「祇夜(ぎや・散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの。まさに『法華経』のほとんどの章(=品)にこれが見られる)」、「偈陀(げだ・伽陀(かだ)ともいう。最初から独立した韻文で説かれたもの。『法華経』の中にも多少これが見られる)」の三部は、字句の表現方法によってその名称とし、その内容によるものではない。

「授記(じゅき・和伽羅那(わからな)ともいう。聴衆の中のある者が、将来の世で仏となるという予言)」、「無問自説(むもんじせつ・優陀那(うだな)ともいう。問われないにもかかわらず自ら語ること)」、「本事(ほんじ・伊帝目多伽(いたいもくたか)ともいう。聴衆の中のある者の過去世について述べたもの)」、「本生(ほんじょう・闍陀伽(じゃだか)ともいう。仏の過去世について述べたもの)」、「未曾有(みぞう・阿浮陀達摩(あぶだだつま)ともいう。仏の不思議なわざや功徳を讃嘆したもの)」、「因縁(いんねん・尼陀那(にだな)ともいう。経典や戒律の由来を述べたもの)」、「譬喩(ひゆ・阿波陀那(あわだな)ともいう。教説を譬喩で述べたもの)」、「論義(ろんぎ・優婆提舎(うばだいしゃ)ともいう。教説を解説したもの)」の八部は、その内容によってでもなく、字句によってでもなく、形式によるものである。

「方広(ほうこう・毘仏略(びぶつりゃく)ともいう。時間と空間を超越した次元の広大深遠な真理を説き明かしたもの)」の一部は、その内容によるものである。

なぜなら、「修多羅」などの三部は、直接教えの「相」を説き、その字句の名称によって内容を表わしている。たとえば、「苦集滅道」のような用語は、名称によってその内容も表わしていて、字句をもって名称としている。

「授記経」については、その表わそうとする内容は、言葉だけでは説くことのできない事柄である。必ず具体的な事象によって現わすべきことである。記されている具体的な事象によって「授記経」と名付けられるのである。これはただ、因である修行によって果を得る道理を明らかにするのみである。その理法は事象に託して表わされ、事象は言葉をもって述べられる。『法華経』の中に、声聞のために「授記」するようなものである。これは、すべての者はみな、まさに仏となることができることを表わす。「授記」をもってその表わすべき内容としているので、「授記経」と名付けるのである。

「無問自説経」とは、聖人の説法は、みな質問の答えとして説かれる。しかし、また衆生のために、質問がなくても答える師となるために、「無問自説」する。また、仏法は知りがたいので、人は問うことができない。もし自ら説き始めなければ、衆生はそれを説くべきことであるか、説かないべきであることかもわからない。またこのためにそのような説法が必要なのかもわからない。このために、「無問自説」する。すなわちこのように説かれた内容は大変深く、ただ悟った者が証するしかないことを表わす。このように、「無問自説」によって、その表わすべき内容を示すのである。

「因縁経」とは、「戒律」の教えを説こうとする時、必ずその犯された事柄によってその過ちを表わすのである。その過ちの「相」がはっきり表わされれば、その制御の方法を立てることできる。このような「因縁」によって、その表わそうとする内容を示すのである。

「譬喩経」とは、教えの「相」は目に見えないので、身近な事柄を借りて、その深遠な真理を喩えるのである。このために言葉をもって喩え、喩えによって理法を表わすのである。

「本事経」や「本生経」は、「本事経」は仏以外の者についてであり、「本生経」は仏自らのことについてである。現在の状態によって過去の状態について説き、現在の「生」に託して教えを表わすものを「本事経」という。そして仏の現在の「生」に託して、仏の過去の修行について表わすものを「本生経」という。

「未曾有経」とは、希有の事柄を説くのである。今まで見たことも聞いたこともないようなことは「未曾有」である。教えに大いなる力あって、大いなる利益(りやく)があるということを示すために、「未曾有」の事柄に託して表わすのである。

「論義経」とは、諸部の中の言葉は真理を隠し持っている。それについて何度も繰り返し分別して、その表わすべき理法を明かすのである。つまり「論義」によって、理法を明かすのである。このために以上、「授記経」から「論義経」までの八経は、事象的な形式によって名称を立てているのである。

「方広経」の一部は、その内容によるものである。「方広」という理法は、名称をもって説いたとしても、「妙」であって言葉を越えている。反対に、事象をもって表わそうとしても、一般的な事象をもって表現することができない。このために、名称によってでもなく、事象によってでもなく、その伝えようとされる内容によってその名とするのである。