大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 136

『法華玄義』現代語訳 136

 

①.d.「定名」

「十二部経」を「定名(じょうみょう・名前が定められた理由)」によって分けると、四つに分けられる。まず一つめは、「修多羅(しゅたら・古代インド語のスートラの音写文字。当時の経典はひもでつなげられていたので、ひもを意味する言葉であり、ここでは線と翻訳されている)」は「線経(せんきょう)」と翻訳できる。「修多羅」は原語の音写文字であり、「線経」とは喩えである。二つめは、「祇夜(ぎや)」と「偈陀(げだ)」であるが、これは音写文字そのものである(注:実際には、十二部経の各呼び方の多くは、音写文字をそのまま名称としている。しかし天台大師はできる限り翻訳した名称を用いていることがわかる)。三つめは、「授記」「無問自説」「論義」などの三経は、内容を名称としている。四つめはその他である。

①.e.「差別」

「十二部経」の中で、さらに分別して理解すべき経典がある。

まず「修多羅」という名称自体は、九種類(①~⑨)のさまざまな意味がある。①『涅槃経』には、「最初の如是という言葉から、最後の奉行という言葉に至るまで、すべてを修多羅と名付けられる」とある。これは「修多羅」とは、すべての経典に共通する総合的な名称だということである。すべてを経典と名付けるので、共通である。各経典の文字と内容によって「十二部経」に区別するのであるから、「修多羅」は総合的な名称である(注:上に記したように、経典をつなぐひもという意味のスートラから来ている呼び名がこれである)。

第二に、②このような総合的な名称である「修多羅」について、具体的な事象によって続くその他の「十一部」が分けられるのである。すなわち「十一部」に対して、その各教えの「相」を区別して説くのが、「別相」の「修多羅」である(注:この分け方が一般的な「十二部経」の形である)。

第三に、③「十二部経」のひとつである「論義経」は、他の「十一部」の経典を解釈する。これはすなわち「十一部」をこの経の本体とする。まさに知るべきである。「論義経」において解釈される対象の「十一部」はみな「修多羅」である。④また『雑心阿毘曇論』の中の「修多羅品」に、「論書」において、その対象である経典全般を「修多羅」としている。⑤また、天親が提婆の『百論』を解釈して、「論書」を経典全般の本体とし、また「論書」を「修多羅」と名付けている。⑥また『涅槃経』に「修多羅を除いて他の四句の偈は、偈経とする」とある。すなわち、『涅槃経』においては、「四句」の「偈経」(注:『涅槃経』に記されている四句の詩偈のこと。諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽)に対して、他の散文は「修多羅」である。⑦また『涅槃経』に「祇夜(ぎや)を偈と名付けて修多羅を頌(じゅ)す」とある。すなわち「修多羅」の「頌偈(じゅげ)」に対して頌するところは「修多羅」である。⑧また経と律と論の「三蔵」を分別する際、理法を説く教えを「修多羅」とし、その他の「毘尼(びに・律蔵のこと)」と「阿毘曇(あびどん・論蔵のこと)」に相対させている。⑨また『涅槃経』に「仏から十二部経が出て、十二部経から「修多羅」が出る」とある。これは大乗の十二部経の「別教」に対して、「通教」をもって「修多羅」とするのである(注:「別教」は大乗に限るが、「通教」は小乗も含むため)。これは、九種の中の「祇夜」と「偈陀」の詩偈もまたこれである。

次に、「偈陀」に四種類がある。第一に『法華経』に数えきれないほどの「偈」があり、『涅槃経』に二万五千の「偈」があるが、これはすなわち「偈経」である。またこれは通称である。もし『涅槃経』の「四句」を「偈」とするならば、一字一句を「経」と名付けることができる。一字一句をみな「偈」というのではない。ただ聖なる言葉が巧みに妙であり、章句が成り立っている数句を「偈」とするのである。このためにすべてを「偈」と名付けることができる。第二に「修多羅」を除いて、他の「四句」を「偈」とする。第三に「偈」の中の「重頌(じゅうじゅ・散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの)」を「祇夜」と名付ける。まさに知るべきである。「重頌」の「偈」を「偈経」とするのではない。第四に「修多羅」は通称であるとしても、その具体的な内容によって分割して、さまざまに異なった部類とする場合は、あくまでも仏の直接の説を記したものを「修多羅」というのである。まさに知るべきである。この「偈」の中においても、「授記」や「因縁」などに分けてそれぞれ異なった部類とする場合、その具体的な内容ではなく、仏が直接、「偈」として説いたということで、「偈経」と名付けるのである。

また次に「祇夜」とは、「重頌」と名付ける。この「頌」に三種類ある。一つめは意味を頌し、二つめは述べられた事象を頌し、三つめは言葉そのものを頌す。

一つめの意味を頌すとは、語る聖人が伝えようと念じるところの教えと事象を頌すのである。もし心に念じるところの教えを頌すのであるならば、それは「偈陀経」と名付ける。もし心に念じるところの「授記」などの事象的なことを頌すならば、その形にしたがって、「異経」とする。二つめの事象を頌すとは、この「授記」などの事象をいう。また頌すところの事象にしたがって「異経」とするのである。三つめの言葉そのものを頌すとは、もし事象に従う言葉を頌すのであるならば、事象に従って「異経」とする。もし教えが直接説かれる「修多羅」を頌すのであるならば、「重頌祇夜経」と名付けるのである。

また次に「授記」とは、悟りを開いた「果」の心に予期されることを「記」と名付け、聖人の言葉をもって説いて与えることを「授」と名付ける。「授記」に二種ある。もしあらゆる菩薩のために仏の「記」を授けるならば、これは大乗の「授記」である。もし目の前の「因」によって間近に予期される「果」を「記」として授けるならば、小乗の中の「授記」である。

また次に「無問自説」に二種類ある。一つめはその理法が深く意義が広く、そのため人が問うことすらできないことである。二つめは問うことはできないわけではないけれども、聴く者の立場から、問わない方がいい場合は、仏は「不請の師」となる。「不請の師」とは、問われないままで自ら語ることである。

また次に「方広」に二種類ある。一つめは言葉が広大なことであり、二つめは理法が広大なことである。

①.f.「相摂」

「相摂(そうしょう)」とは、「十二部」に分かれるとはいえ、各経典の中に、その「十二部」が互いに含まれているので、何に重きを置いて判断するかによってその経典の分類が異なって来るということである。「修多羅」を仏が説いた「経典」ということにおいて見るならば、そこに「修多羅」以外の他の「十一部」をも含むことになる。もし「偈」と、「修多羅」を説かれたままの「直説(じきせつ)」として相対させるならば、「修多羅」に「修多羅」以外の「九部」が含まれることになり、そこに「偈陀」と「祇夜」の「二部」がないことになる。また「偈陀」に「十部」あるとする場合もあり、ただ「直説」の「修多羅」だけがないことになる。「祇夜」に「九部」あるとする場合もあり、そこには「直説」の「修多羅」と「偈陀」がないことになる。

①.g.「料簡」

(注:ここに文はない)。