大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 141

『法華玄義』現代語訳 141

 

◎神通生の眷属を明らかにする

神通生(じんつうしょう)の眷属とは、もし前世で仏に会って、真理に向かう心を発して真諦を見たとしても、生まれ変わる因縁がまだ尽きていなければ、あるいはさらに上の世界に生まれ、あるいは他の世界に生まれる。『法華経』においては、次のように説かれる。すなわち、さまざまな生まれ変わりをする三界にあって仏となろうとするならば、まず、あるいは願力をもって、あるいは神通力をもって、さらに下の世界に生まれる。そして他の者の親しい者となり、あるいは中間的な者となり、あるいは敵となって、仏の働きと教化を助け、自らは残りの煩悩を断じて三界を出る。もし煩悩が尽きなければ、従っていた仏の入滅にあい、そこで自ら煩悩を断ち、あるいは後の仏と結縁することを待つ。三蔵教ではこのような三界の外の生まれ変わりを説かない。ここで大乗の意義をもってこれを見るならば、昔、仏に会って導かれ、三界の生まれ変わりが尽きれば、自らの力によって生まれ変わる身体を得る。その後は、身は生まれ変わりをするけれども、それは業によるものではない。ただこれは願力と神通力によるものである。

では、願力と神通力とはどのように違うのだろうか。自ら負っている報いによる力を用いることは神通の力であり、教えにおいては誓願の力(=願力)である。神通力によって眷属として生まれた者は、報いを受けるままに、なお報身があり、神通力をもって、形を変えて行くべきところに行く。一方、願力をもって眷属として生まれる者は、報いを受ける身はもともとなく、ただ願力をもって下の世界に生まれるのみである。

◎応生の眷属を明らかにする

(注:原文では、ここで項目の段落を区切る言葉はないが、内容から見て明らかにここから次の項目に移っている)

三蔵教は、煩悩を断じて後、誓願をもって生死の身を受けることを説くことがないので、この教においては願力による眷属を説かない。通教は誓願をもって残りの習気(じっけ)を用いることにより、生まれ変わりのある三界に生まれることがあるので、通教によって願力による眷属を述べることには意義がある。しかしこれらはまだ法身を得ていないので、全く応生の眷属はない。以上が三蔵教についての眷属である。

昔、通教の無生の教えにおいて結縁した者は、すでに道を得た者もいれば、まだ道を得ない者もいる。通教の仏は三界において仏となる。まだ道を得ない者は、その世界において業生がある。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、先に述べたように、願力によって眷属となる者と、神通力によって眷属となる者がある。そしてその区別の先に説いた通りである。そして、同じ時間において他の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。異なった時間から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。しかし通教はまだ法身を得ていないので、全く応生の眷属はない。

昔、別教の教えにおいて結縁した者は、あらゆる世界において同じく教えを説き、あらゆる教えに導く場合、成熟した者と成熟していない者がある。別教の仏は三界において仏となる。まだ道を得ない者は、その世界において業生によって眷属となる。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、願力によって眷属となる者と、神通力によって眷属となる者がある。そして、同じ時間において他の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。そして、異なった時間において、方便の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。また、異なった時間において真実の報土から来て眷属となる者に、応生の眷属がある場合がある。無明をまず破って、すでに法身の本性を得て、よく応を起こして生死のある世界に入ることができるのである。これは前の教えとは異なっている点である。

(注:「応生」によって眷属となるということは、「感応妙」の段落で説かれた「応」によるものである。つまり、求める者の求めを感じ取って、それに応じて眷属となる、ということである)。

昔、円教の教えにおいて結縁した者は、あらゆる世界において整えられ、道を得た者と道を得ない者がある。そして三界において仏となる。前からの因縁を負っていることには差別があって同じではない。まだ道を得ない者は、その世界において業生によって眷属となる。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、願力によって眷属となる者と、神通力によって眷属となる者がある。他の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。方便の国土から来て眷属となる者に、また願力によるものと、神通力によるものがある。さらに真実の報土から来て眷属になる者には、応生の眷属がある。これ以下は上に同じである。

問う:法身は煩悩を断ち、真理の世界にある者である。なぜまた生まれ変わりの生を受けるのか。

答える:法身が応身の眷属の生を受けるについて、三つの意義がある。一つめは、「他の者を成熟させるため」であり、二つめは、「自から成熟させるため」であり、三つめは、「過去の因縁によるもの」である。

○他の者を成熟させるため

ただ業によって生まれた衆生は、善根が微弱であり、自分から発することができないために、あらゆる菩薩たちは、自分が先に道を得たとしても、衆生の迷いを哀れんで、慈悲の力をもって応を起こし、二十五有の中に入り、導師となって多くの衆生を導き、仏の所に向かわすのである。分真即の位を得るならば、その者の内面の眷属となって応生を起こし、もし相似即の位を得るならば、願力と神通力の眷属となる。分真即と相似即を得なければ、その者の優れた修行を増進させて、他の人々に利益を与え、空しいことはない。

華厳経』の中に、「仏が最初、母胎に宿り、そしてそれに仕える法身の菩薩たちがこの世に下って生まれたことは、雲が月を覆い隠すように、それぞれあらゆる母胎に降り、そこから生まれて仏に親しい人となり、あるいは中間的な人となり、あるいは敵となり、あらゆる業の報いを現わす」とあることは、まさに知るべきである。あらゆる眷属は、この世の生死流転する人ではない。釈迦の母の摩耶夫人は千仏の母であり、父の浄飯王は千仏の父、子の羅睺羅は千仏の子である。あらゆる声聞たちは、内側は菩薩であっても、外側には声聞の姿を取ったのであり、三毒の煩悩があるように見せても、実際は自ら仏の国土を清めるのである。あらゆる仏の親族は、みな大いなる仮の姿であり、優れた法身である。どうして凡夫が偉大な力を持つ菩薩を身ごもることができようか。

また次に、仏教以外の外道の者たちが、仏の道に対して悪意を抱き、拒否し、誹謗することは、まさに知るべきである。これはみな法身の菩薩のすることなのである。(注:上に述べられていたように、応生の眷属は、別教にも含まれるが、円教でもっぱら明らかにされる事実である。そのため、『法華経』にこの事実が述べられていることになり、まさに『法華経』には、仏を傷つけた提婆達多も、前世では釈迦の師匠であったと述べられており、非常識と思われるほどの霊的事実が、この応生の眷属を通して明らかにされているというのである)。なぜならば、転輪聖王の小さな善でさえも、世に出るにあたって敵対するものはない。ならばどうして、この上ない法王において、その行く道に恨みを抱く仇が満ちることがあろうか。もし仏に対して悪を起こせば、即座に悪道の報いの罪を受ける。どうしてこの世に生まれ変わりを繰り返して、さまざまに思い煩いながら生きることができようか。立派な像のような法身のなすことは、驢馬のようなものに耐えうることではない。提婆達多は賓伽羅菩薩(びんがらぼさつ)である。前世の大いなる善知識(ぜんちしき・すぐれた教えに導いてくれる者)である。阿闍世王(あじゃせおう・マガダ国王。最初悪を働き父である王を殺して王位につき国を発展させたが、後に罪を悔い、釈迦の弟子となり仏教の外護者となる)は不動菩薩であり、薩遮尼犍(さつしゃにけん・元ジャイナ教徒の釈迦の弟子)は大方便の菩薩である。波旬(はじゅん・仏教を妨害する悪魔)は不思議解脱に住む。このために『華厳経』において、聴衆の名前を列挙する箇所に、多くの天龍鬼神たちがすべて、不思議の法門に住んでいることを明らかにしている。このように、親しいもの、中間的なもの、怨敵、良きもの、悪しきもの、反逆するもの、従順するものなどはみな、法身である。前世には仏法の内部の眷属であったが、今の世では応生の眷属となる。もし親しいもの、中間的なもの、怨敵、良きもの、悪しきもの、反逆するもの、従順するものなどがまだ法身を得ていなければ、前世で結縁しているとしても、なお仏法の外にいるために、同じく願生業生などの眷属とする。

法華経』以外の経典に、この仮の姿の利益を明かしていないわけではない。衆生はみな、見た目はどうであっても、真実であって内にあるもの、真実であるが外にあるもの、真実であって良きもの、真実であるが悪しきもの、真実であるが反逆するもの、真実であって従順するものなどであるはずである。このために『法華経』に、「このようなことは今まで人に説いたことがない」とある。『法華経』には、仏自らが身近な仮の姿のものを開いて、永遠の真実を顕わし、あらゆる眷属の仮の権を開いて、本来の真実を顕わす。このために「今、まさにあなたがたのために最も真実なことを説こう」とある。これは応生の眷属が、他の者を成熟させるために来ることである。

○自から成熟させるため

法身の菩薩は、道を進むことに定まったものはない。あるいは生身に従って道を進め、あるいは法身に従って道を進める。このために、『法華経』における地涌の菩薩が「私たちもまたこの真実の清浄なる大法を得ようとする」といっている。また「分別功徳品」の中に、道が増し加わり生死が減って行くことを明らかにすることは、この意味である。

○過去の因縁によるもの

過去の世に仏に従って初めて悟りを求める心を起こし、またその仏に従って不退地(ふだいじ・もう修行が後退しない位)に住む。仏ですらなお自ら生死が繰り返される世界に入って仏事を行なう。それならば、その仏に縁のある者がどうしてその世界に来ないことがあろうか。百もの川がすべて海に入るようなものである。縁が導いて応生することもまたこのようである。

もし個別に説けば、業生は生死が繰り返される世界にある。願生・神通生は方便の国土にある。応生は常寂光土にある。共通して論じれば、一つの次元にこの四種がある。真実の報いによってすでに法身を得て、よく応を起こして、この四種の眷属となることである。円教の結縁の者についていえば、まだ煩悩を断じていないといっても、みずから三種の眷属となる。道を得た者についていえば、この四種の眷属となる。別教の眷属もまた四種であることはわかるであろう。通教と蔵教の結縁の三種もわかるであろう。そこには応生の応がないとしても、感応の応を論じることはできる。応があるところについて名称を得て、この四つの義が含まれるのである。

問う:地涌の菩薩が下の世界から湧き出したということと、妙音菩薩が東の国から来たということと、『涅槃経』の中で、あらゆる方角の偉大な菩薩たちを、釈迦の入滅の場所である沙羅双樹の林に集めて、大いなる説法をしたということは、この四種の眷属の中で何に当たるのか。

答える:これは神通力によって来た眷属であって、神通生の眷属ではない。これは単に他の場所から来ただけであって、応生の眷属ではない。また、大いなる誓願によって来たことであって、願生の眷属ではない。これは因縁によって互いに召されたものである。下の世界で『法華経』を説く声を聞いたり、妙音菩薩が大いなる光を見たりというようなことは、諸仏の大いなる働きによって来たのであって業生ではない。業生の者は、業によって来ることはできない。業によって来ることは、業によって生まれることではない。願生・神通生の者は、誓願や神通力によって来ることはできない。一方、誓願や神通力によって来る者は、またよく願生や神通力によって眷属として生まれ、またよく応生の眷属となる。応によって来る者は、またよく応生の眷属となる。