大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 141

『法華玄義』現代語訳 141

 

②.d.神通生の眷属を明らかにする

「神通生(じんつうしょう)」の「眷属」とは、もし前世で仏に会って、真理に向かう心を発して「真諦」を見たとしても、生まれ変わる因縁がまだ尽きていなければ、あるいはさらに上の世界に生まれ、あるいは他の世界に生まれる。『法華経』においては、次のように説かれる。すなわち、さまざまな生まれ変わりをする「三界」にあって仏となろうとするならば、まず、あるいは「願力」をもって、あるいは「神通力」をもって、さらに下の世界に生まれる。そして他の者の親しい者となり、あるいは中間的な者となり、あるいは敵となって、仏の働きと教化を助け、自らは残りの煩悩を断じて「三界」を出る。もし煩悩が尽きなければ、従っていた仏の入滅に会い、そこで自ら煩悩を断ち、あるいは後の仏と結縁することを待つ。「三蔵教」ではこのような「三界」の外の生まれ変わりを説かない。ここで大乗の意義をもってこれを見るならば、昔、仏に会って導かれ、「三界」の生まれ変わりが尽きれば、自らの力によって生まれ変わる身体を得る。その後は、身は生まれ変わりをするけれども、それは「業」によるものではない。ただこれは「願力」と「神通力」によるものである。

では、「願力」と「神通力」とはどのように違うのだろうか。自ら負っている報いによる力を用いることは「神通」の力であり、教えにおいては「誓願」の力(=「願力」)である。「神通力」によって「眷属」として生まれた者は、報いを受けるままに、なお「報身」があり、「神通力」をもって、形を変えて行くべきところに行く。一方、「願力」をもって「眷属」として生まれる者は、報いを受ける身はもともとなく、ただ「願力」をもって下の世界に生まれるのみである。

②.e.応生の眷属を明らかにする

(注:原文では、ここで項目の段落を区切る言葉はないが、内容から見て明らかにここから次の項目に移っている)

「三蔵教」は、煩悩を断じて後、「誓願」をもって生死の身を受けることを説くことがないので、この教においては「願力」による「眷属」を説かない。「通教」は「誓願」をもって残りの「習気(じっけ)」を用いることにより、生まれ変わりのある「三界」に生まれることがあるので、「通教」によって「願力」による「眷属」を述べることには意義がある。しかしこれらはまだ「法身」を得ていないので、全く「応生」の眷属はない。以上で「三蔵教」についての眷属の説明は終わる。

昔、「通教」の「無生」の教えにおいて結縁した者は、すでに道を得た者もいれば、まだ道を得ない者もいる。「通教」の仏は「三界」において仏となる。まだ道を得ない者は、その世界において「業生」がある。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、先に述べたように、「願力」によって「眷属」となる者と、「神通力」によって「眷属」となる者がある。そしてその区別の先に説いた通りである。そして、同じ時間において他の国土から来て「眷属」として生まれる者において、「願力」によるものと、「神通力」によるものがある。異なった時間から来て「眷属」として生まれる者において、「願力」によるものと、「神通力」によるものがある。しかし「通教」はまだ「法身」を得ていないので、全く「応生」の眷属はない。

昔、「別教」の教えにおいて結縁した者は、あらゆる世界において同じく教えを説き、あらゆる教えに導く場合、成熟した者と成熟していない者がある。「別教」の仏は「三界」において仏となる。まだ道を得ない者は、その世界において「業生」によって「眷属」となる。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、「願力」によって「眷属」となる者と、「神通力」によって「眷属」となる者がある。そして、同じ時間において他の国土から来て「眷属」として生まれる者において、「願力」によるものと、「神通力」によるものがある。そして、異なった時間において、「方便の国土」から来て「眷属」として生まれる者において、「願力」によるものと、「神通力」によるものがある。また、異なった時間において「真実の報土」から来て「眷属」となる者に、「応生」の「眷属」がある場合がある。「無明」をまず破って、すでに「法身」の本性を得て、よく「応」を起こして生死のある世界に入ることができるのである。これは前の教えとは異なっている点である。

(注:「応生」にって「眷属」となるということは、「感応妙」の段落で説かれた「応」によるものである。つまり、求める者の求めを感じ取って、それに応じて「眷属」となる、ということである)。

昔、「円教」の教えにおいて結縁した者は、あらゆる世界において整えられ、道を得た者と道を得ない者がある。そして「三界」において仏となる。前からの因縁を負っていることには差別があって同じではない。まだ道を得ない者は、その世界において「業生」によって「眷属」となる。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、「願力」によって「眷属」となる者と、「神通力」によって「眷属」となる者がある。他の国土から来て「眷属」として生まれる者において、「願力」によるものと、「神通力」によるものがある。「方便の国土」から来て「眷属」となる者に、また「願力」によるものと、「神通力」によるものがある。さらに「真実の報土」から来て「眷属」になる者には、「応生」の「眷属」がある。これ以下は上に同じである。

問う:「法身」は煩悩を断ち、真理の世界にある者である。なぜまた生まれ変わりの生を受けるのか。

答える:「法身」が「応身」の「眷属」の生を受けるについて、三つの意義がある。一つめは「Ⅰ.他の者を成熟させるため」であり、二つめは「Ⅱ.自から成熟させるため」であり、三つめは「Ⅲ.過去の因縁によるもの」である。

②.e.Ⅰ.他の者を成熟させるため

ただ「業」によって生まれた衆生は、「善根」が微弱であり、自分から発することができないために、あらゆる菩薩たちは、自分が先に道を得たとしても、衆生の迷いを哀れんで、「慈悲」の力をもって「応」を起こし、「二十五有」の中に入り、導師となって多くの衆生を導き、仏の所に向かわすのである。「分真即」の「位」を得るならば、その者の内面の「眷属」となって「応生」を起こし、もし「相似即」の「位」を得るならば、「願力」と「神通力」の「眷属」となる。「分真即」と「相似即」を得なければ、その者の優れた修行を増進させて、他の人々に利益を与え、空しいことはない。

華厳経』の中に、「仏が最初、母胎に宿り、そしてそれに仕える法身の菩薩たちがこの世に下って生まれたことは、雲が月を覆い隠すように、それぞれあらゆる母胎に降り、そこから生まれて仏に親しい人となり、あるいは中間的な人となり、あるいは敵となり、あらゆる業の報いを現わす」とあることは、まさに知るべきである。あらゆる「眷属」は、この世の生死流転する人ではない。釈迦の母の摩耶夫人は千仏の母であり、父の浄飯王は千仏の父、子の羅睺羅は千仏の子である。あらゆる声聞たちは、内側は菩薩であっても、外側には声聞の姿を取ったのであり、「三毒」の煩悩があるように見せても、実際は自ら仏の国土を清めるのである。あらゆる仏の親族は、みな大いなる仮の姿であり、優れた「法身」である。どうして凡夫が偉大な力を持つ菩薩を身ごもることができようか。

また次に、仏教以外の「外道」の者たちが、仏の道に対して悪意を抱き、拒否し、誹謗することは、まさに知るべきである。これはみな「法身」の菩薩のすることなのである。(注:上に述べられていたように、「応生」の「眷属」は、「別教」にも含まれるが、「円教」でもっぱら明らかにされる事実である。そのため、『法華経』にこの事実が述べられていることになり、まさに『法華経』には、仏を傷つけた提婆達多も、前世では釈迦の師匠であったと述べられており、非常識と思われるほどの霊的事実が、この「応生」の「眷属」を通して明らかにされているというのである)。なぜならば、転輪聖王の小さな善でさえも、世に出るにあたって敵対するものはない。ならばどうして、この上ない法王において、その行く道に恨みを抱く仇が満ちることがあろうか。もし仏に対して悪を起こせば、即座に悪道の報いの罪を受ける。どうしてこの世に生まれ変わりを繰り返して、さまざまに思い煩いながら生きることができようか。立派な像のような「法身」のなすことは、驢馬のようなものに耐えうることではない。提婆達多は賓伽羅菩薩(びんがらぼさつ)である。前世の大いなる「善知識(ぜんちしき・すぐれた教えに導いてくれる者)」である。阿闍世王(あじゃせおう・マガダ国王。最初悪を働き父である王を殺して王位につき国を発展させたが、後に罪を悔い、釈迦の弟子となり仏教の外護者となる)は不動菩薩であり、薩遮尼犍(さつしゃにけん・元ジャイナ教徒の釈迦の弟子)は大方便の菩薩である。波旬(はじゅん・仏教を妨害する悪魔)は不思議解脱に住む。このために『華厳経』において、聴衆の名前を列挙する箇所に、多くの天龍鬼神たちがすべて、不思議の法門に住んでいることを明らかにしている。このように、親しいもの、中間的なもの、怨敵、良きもの、悪しきもの、反逆するもの、従順するものなどはみな、「法身」である。前世には仏法の内部の「眷属」であったが、今の世では「応生」の「眷属」となる。もし親しいもの、中間的なもの、怨敵、良きもの、悪しきもの、反逆するもの、従順するものなどがまだ「法身」を得ていなければ、前世で結縁しているとしても、なお仏法の外にいるために、同じく「願生」「業生」などの「眷属」とする。

法華経』以外の経典に、この仮の姿の利益を明かしていないわけではない。衆生はみな、見た目はどうであっても、真実であって内にあるもの、真実であるが外にあるもの、真実であって良きもの、真実であるが悪しきもの、真実であるが反逆するもの、真実であって従順するものなどであるはずである。このために『法華経』に、「このようなことは今まで人に説いたことがない」とある。『法華経』には、仏自らが身近な仮の姿のものを開いて、永遠の真実を顕わし、あらゆる「眷属」の仮の権を開いて、本来の真実を顕わす。このために「今、まさにあなたがたのために最も真実なことを説こう」とある。これは「応生」の「眷属」が、他の者を成熟させるために来ることである。

②.e.Ⅱ.自から成熟させるため

法身」の菩薩は、道を進むことに定まったものはない。あるいは生身に従って道を進め、あるいは「法身」に従って道を進める。このために、『法華経』における地涌の菩薩が「私たちもまたこの真実の清浄なる大法を得ようとする」といっている。また「分別功徳品」の中に、道が増し加わり生死が減って行くことを明らかにすることは、この意味である。

②.e.Ⅲ.過去の因縁によるもの

過去の世に仏に従って初めて悟りを求める心を起こし、またその仏に従って「不退地(ふだいじ・もう修行が後退しない位)」に住む。仏ですらなお自ら生死が繰り返される世界に入って仏事を行なう。それならば、その仏に縁のある者がどうしてその世界に来ないことがあろうか。百もの川がすべて海に入るようなものである。縁が導いて「応生」することもまたこのようである。

もし個別に説けば、「業生」は生死が繰り返される世界にある。「願生」「神通生」は「方便」の国土にある。「応生」は「常寂光土」にある。共通して論じれば、一つの次元にこの四種がある。真実の報いによってすでに「法身」を得て、よく「応」を起こして、この四種の「眷属」となることである。「円教」の結縁の者についていえば、まだ煩悩を断じていないといっても、みずから三種の「眷属」となる。道を得た者についていえば、この四種の「眷属」となる。「別教」の「眷属」もまた四種であることはわかるであろう。「通教」と「蔵教」の結縁の三種もわかるであろう。そこには「応生」の「応」がないとしても、「感応」の「応」を論じることはできる。「応」があるところについて名称を得て、この四つの義が含まれるのである。

問う:地涌の菩薩が下の世界から湧き出したということと、妙音菩薩が東の国から来たということと、『涅槃経』の中で、あらゆる方角の偉大な菩薩たちを、釈迦の入滅の場所である沙羅双樹の林に集めて、大いなる説法をしたということは、この四種の「眷属」の中で何に当たるのか。

答える:これは「神通力」によって来た「眷属」であって、「神通生」の「眷属」ではない。これは単に他の場所から来ただけであって、「応生」の「眷属」ではない。また、大いなる「誓願」によって来たことであって、「願生」の「眷属」ではない。これは因縁によって互いに召されたものである。下の世界で『法華経』を説く声を聞いたり、妙音菩薩が大いなる光を見たりというようなことは、諸仏の大いなる働きによって来たのであって「業生」ではない。「業生」の者は、「業」によって来ることはできない。業によって来ることは、業によって生まれることではない。「願生」「神通生」の者は、「誓願」や「神通力」によって来ることはできない。一方、「誓願」や「神通力」によって来る者は、またよく「願生」や「神通力」によって「眷属」として生まれ、またよく「応生」の「眷属」となる。「応」によって来る者は、またよく「応生」の「眷属」となる。