大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 142

『法華玄義』現代語訳 142

 

c.麁妙を明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての三つめは、「麁妙を明らかにする」である。三蔵教の本性を持つ眷属は、その本性は劣っている。昔の結縁における縁もまた浅く小さい。その後、中間において仏法をもって成熟する場合も、成熟する者は少ない。仏の国土に生まれて、内外(注:仏に身近な者と疎遠の者という意味)の眷属・業生・願生・神通生などとなり、また三蔵教の仏のもとに応じて来て仕えるようなことは、みな麁の眷属である。通教と別教の本性、および内外の眷属は、巧といっても、通教と別教に異なりがある。これは他の例をもって知ることができるであろう。みな麁の眷属である。

法華経』には「あらゆる衆生はみな私の子であり、客となった人ではない」とある。この理性を論じるならば、子でない者はないことになる。これは理性の眷属妙と名付ける(注:すべての人々は、理法的にはすでに眷属となっているという意味)。

前世の昔に大通智勝如来の教えを受け、結縁して衣の裏に宝石を縫い付けられたような状態となり、二万億の仏のもとで、この上ない教えを説く。『法華経』に「もし私が衆生に会えば、すべて仏道をもって教える」とある。もし衆生に仏性がなければ、仏道をもって教える場合、その過ちは仏にあることになる。もし衆生にみな仏性があるならば、教えを拒否して受けないことは、その過ちは衆生にあることになる。すべての心ある人間は、みな仏となるのである。一闡提(いっせんだい)も心を断ち切ることはないので、生まれ変わって教えを受ける。一闡提が仏となることがなぜ難しいであろうか。声聞と縁覚の二乗は灰のようにすべて滅び尽くす。智慧も滅びれば心も尽き、身も灰のようになれば、姿形も尽きる。身も心も尽きれば、五欲において何かできることは何もなくなるが、しかし何度も生まれ変わって仏の教えに会い、仏の道を受ける。これは中間の成熟妙である。

今、『法華経』において、すべて仏となることができることは、これは希有(けう)のことである。最も優れた医者の王は、毒を変じて薬とする。よく仏となる可能性が滅んだ者を治し、心のない者も仏となることは、これはすなわち内外の眷属妙である。たとえば、戦において戦功を争うことにおいて、先鋒が第一であるようなものである。仏はあらゆる教えを説いて、衆生を収め取る。しかし、心も灰となった二乗は、他の所に入らずに、ただ『法華経』において突然入ることができるのである。このために『涅槃経』に、遠い未来に八千人の声聞が授記を受けることを指して、秋に収穫して冬に蔵に収め、もうこれ以上やることがなくなったようなものだというのである。もし『法華経』において仏性を悟らなければ、『涅槃経』に遠い未来の授記を指すことはできない。もし衆生にもともと仏性がなければ、昔の結縁の際、仏の道は教えなかったであろう。始めと終わりについて見れば、仏性の義は明らかである。その意義は知るべきである。

(注:『法華経』には仏性という言葉が全くないために、『法華経』は仏性を認めていないという認識に対抗してこのように述べている)。

ここで華厳宗の師に問う。頓教の極みである『華厳経』の教えに、すべての衆生に仏性があると説くのだろうか。もしそれがあれば、二乗はなぜその教えを聞いて、授記を受けて仏とならないのだろうか。なぜただ耳の聞こえない者、言葉を語れない者のようになったのだろうか。もし二乗にもともと仏性があるといえば、早々に小乗の悟りを取ってしまったことは、もともとの能力を覆い隠してしまうようなものである。もともとの能力がすでに押さえつけられていることを治すことができるのだろうか。治すことができないとすべきだろうか。もし治すことができるならば、なぜ治さないのだろうか。もし治すことができなければ、なぜすべての衆生にみな仏性があると言うことができるだろうか。このために知ることができる。『華厳経』において治すことができないということは、それが方便の教えだからである。『法華経』においてよく治すことができるということは、それが如実(=真実)の教えだからである。よく治すことが難しいものを治すのである。これが妙である。いわゆる結縁妙・成熟妙・業生妙・願生妙・応生妙・内眷属妙・外眷属妙である。よく妙の教えを受け、妙の事象に影響を与える。このために妙という。

もしこの意義をもって五味の教えによって述べれば、乳味の教えには別教と円教の二つの眷属があって、一麁一妙である。酪味の教えにはただ一つの麁があるのみである。生蘇味の教えには三麁一妙である。熟蘇味の教えには二麁一妙である。醍醐味の教えである『法華経』には麁はなく、ただ妙だけである。これは相待妙をもって眷属妙明かすことである。

また、開麁顕妙とは、諸経は麁の眷属を明らかにして、みな仏性を見ない。この『法華経』は、天性(てんしょう)を定め、父子を明らかにする。それは子であって客ではない。このために『法華経』に記されている常不軽菩薩は、深くこの意義を得て、すべての衆生の正因(しょういん・本来備わっている仏になる原因)は滅びないことを知って、人々を軽んじない。また『法華経』に「あらゆる過去仏において、あるいは現在、あるいは仏の滅度の後、もしこの法華経の一句でも聞くならば、その者はみな仏道を成就することができる」とあることは、了因(りょういん・仏性を照らし出す智慧)」は滅びないことを表わしている。また、仏に対して少し頭を低くすることや手を挙げることから始まるあらゆる善行によって、仏道が成就されるということは、縁因(えんいん・智慧を発するための条件や行ない)が滅びないことを表わしている。すべての衆生は、この三つの徳を備えていないことはない。すなわちこれは開麁顕妙であり、絶待妙をもって眷属妙を明らかにすることである。