大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 143

『法華玄義』現代語訳 143

 

d.法門の眷属を明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての四つめは、「法門の眷属を明らかにする」である。これは、『維摩経』において、普現色身菩薩(ふげんしきしんぼさつ)が浄名居士(じょうみょうこじ・『維摩経』の主人公である維摩居士のこと)に質問しているようなことである。すなわち「父母、妻子、親戚、眷属、民と官、友人などは、そもそも理法においては誰であるのか。さらに男女の奴隷、象や馬、車などの乗り物は、そもそも理法においてはどこに存在しているのか」と質問している通りである。浄名は「方便を父とし、智度(ちど・古代インド語のブラジュニャーパーラミターを漢訳した言葉。音写すると般若波羅蜜となる。智慧の完成という意味)を母とする。すべての衆生の導師は、この両親によって生まれないことはない。そして法喜(ほうき)を妻とし、慈悲を娘とし、善心誠実は息子、畢竟空寂(ひっきょうくうじゃく)は家、弟子たちは煩悩であり、それらは心のままに従うのである。さまざまな修行は良き友であり、これによって悟りを成就するのである」と答えている。これは各法門を眷属とすることである。

このようなことであるから、法門は同じではなく、そこに深浅の違いがある。

三蔵教の法門の眷属は、真諦を観じることを実とし、仮諦を観じることを権とし、この二つの智慧が完全となるなら仏と名付けられる。仏はすなわち導師である。六道に慈悲を持つのは娘である。他の人々を真理に導こうとするのは息子である。この真理を得る時の喜びは妻である。この心の中のあらゆる波羅蜜や修行項目を修することは、良き友である。

通教の法門の眷属は、諸法は「如幻如化」と観じて、即空を体得することを実とし、四門(しもん・悟りを得るための四つの項目のこと。有門(うもん)・空門(くうもん)・亦有亦空門(やくうやっくうもん)・非有非空門(ひうひくうもん))の同異を分別することを権とし、この二つの智慧を理解するなら導師仏と名付けられる。衆生を慈愛するのは娘であり、善にまっすぐ向かう心を生じさせるのは息子であり、六波羅蜜や修行項目を修することは、良き友である。これを通教の中の法門の眷属とする。

別教の法門の数えきれないほどの眷属は、真諦と俗諦を合わせて権智とする。これは父である。中道の真理の理法を母とする。無量の慈善、無量の修行項目、あらゆる波羅蜜などに精通して滞りがない。道種智が明らかであり、相手の状態に応じて薬を知るのは、別教の中の眷属である。このために『無量義経』に「諸仏法王である父、経典の教えである婦人、和合してあらゆる菩薩である息子を生む」とある。『十住毘婆沙論』に「般舟三昧(はんじゅざんまい・あらゆる仏を目の当たりに見る三昧)の父、大慈無生は母であり、すべての如来はこの二つの法から生じる」とある。『宝性論』に「大乗の信心を子とし、般若は母とする。禅定は母胎である。大悲を乳母とする。諸仏は実の子のようである。一闡提は大乗を誹謗する障害であり、外道は自我があると誤って主張する障害、声聞は生死を恐れる障害、縁覚は衆生に利益を与えることに背く障害である。菩薩は次の四つの法を修して煩悩を治める。すなわち信心を修し、般若を修し、虚空定・首楞厳定を修し、大悲を修して、清浄法界を得、悟りの岸に至って如来の本性を見て、如来の家に生まれる。これが仏の子である」とある。すでに如来の本性を見て、如来の家に生じるならば、まさに知るべきである。如来を父とするのである。無量の法門は言葉にすることができない。みなよく仏の子を生じさせる。

円教の法門の眷属は、自らの修行における三諦を一諦とすることを実とし、他を教化することにおいて一諦を三諦とすることを権とする。随情の一諦を三諦とすることを権とし、随智の三諦を一諦とすることを実とする。この不思議により理解する。一つの心にすべての行を備えることを息子とし、無条件の大慈を娘とし、仏の知見を開いて喜びを生じることを妻とし、清くもなく汚れてもいない中道の修行項目や六波羅蜜を良き友とする。このような「実相円極」の法門を眷属とする。十住の初住において悟りを成就し、八相(はっそう・仏が世に下って受胎し悟りを開いて滅度するまでの八つの行程)をもって教化することは導師である。円教以前のあらゆる法門はすでに麁であるので、そこから生じるあらゆる導師も麁である。この円教の法門の眷属はすでに妙であるので、生じる導師もまた妙である。

この意義を用いて五味の教えについて述べると、乳味の教えは一麁一妙、酪味の教えにはただ一つの麁があるのみである。生蘇味の教えは三麁一妙である。熟蘇味の教えは二麁一妙である。醍醐味の教えである『法華経』は麁はなく、ただ妙だけである。これは麁に対して相待妙をもって明かすことである。

諸経の妙であることはただ妙であるだけであり、麁であることはただ麁であるだけである。しかし『法華経』はただ妙を妙とするのみでなく、また麁が存在しない。前に述べたあらゆる麁を、そのまま一つの平等であり大いなる智慧の妙の法門とするのである。これが絶待妙の意義である。

 

e.観心について明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての五つめは、「観心について明らかにする」である。観心の眷属には六種ある。一つめは愛心(あいしん・愛は情意的な執著)」、二つめは見心(けんしん・見は理知的な執著)、そして残りの四つは四教である。

愛心の眷属とは、無明を父とし、癡愛を母とし、煩悩の子孫を生む。憶想に貪り執著して、心の中の法門を得ようとする際、誤った思想の魔鬼がそこに入り法門として支配する。淫らな女の思いは媚びへつらうことによるようなものである。修行者もまた同じである。誤った考えを憶想すれば、有害なものが入ってしまう。魔鬼の力をもって、方便の理解や実の理解が生じる。悪しき理解が生じるために、鬼の導師が生まれる。鬼の慈善を起こし、誤った教えの喜びに執著し、誤った六波羅蜜と修行の項目を行じ、悪しき弁論を得て、心が明晰で口が達者で、あらゆる法門を説くことは、すなわち愛心の眷属である。

次に見心の眷属とは、誤った知的な見解が大きければ四門(注:有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)に執著し、さまざまに心を働かせてあらゆる法門を作り上げる。心に見えるものを実在とし、他の人と共通するものを仮のものとする。心に愛着を起こすことを娘とし、心に分別することを息子とし、このような心の中に六波羅蜜を行じることを修行の項目とする。これを見心の眷属とする。

なぜなら、この愛と見は、自分の心の苦諦と集諦を知らず、みだりに道諦と滅諦を言うのである。正しい教えとそうでない教えの区別がつかず、葉を食べる虫が木を食べるように、たまたま法門の名前を得ても、名前だけがあって意義はない。それがどうして愛と見でないことがあろうか。

もしよく心を観じて、愛と見の心はみな因縁によって生じるものであり、無常であり生滅するものだと知れば、四教の観心の眷属が生じる。『中論』の偈に「因縁によって生じる法は、即空、即仮、即中である」とある通りである。この四教の観心において、それぞれの眷属を明らかにすることは前の通りであり、準じて知るべきである。

以上述べた六種の観心の眷属のうち、前の五種を麁とし、円教の観心を妙とする。

また麁を開いて妙を述べると、人はなお自らの愛と見の心は、因縁によって生じたものであると知らない。それではどうして、因縁によって生じた心が即空・即仮であると知ることができようか。空・仮を知らないままで、魔界はそのまま仏界であり、見は本来不動であることを観じ、三十七道品を修することができるだろうか。愛はそのままで法性であると観じ、見の不動を観じ、三十七道品を修すならば、愛の魔界や見の境界はそのままで仏界である。教えではない中で正しい教えを知り、道ではない中で仏の道に到達する。すべての実在において、妙でないものはない。

事象的な眷属を明らかにして、教えを聞き文字を学ぶ人を調伏し、法門の眷属を明らかにして、修行者を調伏し、観心の眷属を明らかにして観心座禅の人を調伏する。この三種の法門は見たり聞いたりする次元を超越している。

(注:観心の対象は法門であるので、ここであげられる眷属とは、目に見える人物やその他の存在などではなく、教えである法門である。その面では、厳密には眷属ではないのではないか、と常識の判断が下されそうであるが、上に引用されている『維摩経』にも、理法としてこのような表現がされているため、ここでもそれらを眷属として説いているのである)。