大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 144

『法華玄義』現代語訳 144

 

⑩.功徳利益妙

 

迹門の十妙の第十に、功徳利益妙(くどくりやくみょう)について述べる。功徳と利益は一つであり、異なることはない。もし分別すれば、自らを益とすることを功徳と名付け、他の人を益とすることを利益と名付ける。これについては四項目を立てる。利益について述べることの来意を明らかにし、正説(しょうせつ)の利益について明らかにし、流通(るつう)の利益について明らかにし、観心の利益について明らかにする。

 

a.来意を明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての一つめは、「利益について述べることの来意を明らかにする」である。諸仏の行なうわざは、何一つとして空しく過ぎることはない。『大智度論』に「仏は王三昧に入り、前に光を放って前の者を悟りに導き、後ろに光を放って後ろの者を悟りに導く。たとえば、漁で網を打てば前後の魚を捕るようなものである。光を見て、教えを聞く時、すべて空しくなることはない」とある。『維摩経』には「法の宝があまねく照らして甘露を降らせるとは、すなわち身口の二つの利益である」とある。『華厳経』と『思益経』の両方に「光を放つことは物質に対する執着を破り、怒りを破り、愚かさを破る」とある。具体的には各箇所に説いている通りである。

法華経』に記されている須菩提(しゅぼだい)、摩訶迦旃延(まかかせんねん)、摩訶迦葉(まかかしょう)・摩訶目犍連(もくけんれん)の四大弟子(注:この四人は「信解品」において、釈迦の説法を深く理解した内容を語った弟子であるので四大弟子と呼ばれる。弟子の中では舎利弗が最も有名であるが、この理由から舎利弗は入っていない)は、仏の開三顕一の利益を理解した。仏は「如来にまた無量の功徳がある。あなたたちは理解したことを語るが、それでも語り尽くすことはできない。たとえば、この世で大きな雲が沸き起こるようなものである」と言っている。これは感応妙を喩えている。「雷を起こし稲光を輝かす」とは神通妙を喩えている。「この雨はあまねく等しく降らす」とは、説法妙の利益を喩えている。「あらゆる草木は、この雨によってそれぞれ成長することができる」とは、四種の眷属妙を喩えている。みな、次の段落で述べる七つの利益に潤うのである。このために功徳利益妙を明らかにするのである。

 

b.正説の利益について明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての二つめは、「正説の利益について明らかにする」である。ここでまた三つの項目を立てる。第一は「遠益を論じる」であり、第二は「近益を論じる」であり、第三は「『法華経』の利益を論じる」である。

 

第一.遠益を論じる

遠益(おんやく)とは、この世において『法華経』が説かれることに関しての、遠い昔からの利益についてである。遠い昔の大通智勝如来の十六王子(注:この王子たちの中の一人が釈迦如来の前世であり、またその中の一人が阿弥陀如来の前世である。前世は何代もあり、決して直前の生という意味ではない)は、仏の教化を助けて教えを広め、さらに悪を破る毒の太鼓と善を生じさせる天の太鼓を打った。善が生じることにおいて浅深の異なりがある。煩悩が死ぬことにおいて遅早の異なりがある。人天の位の善から始まって、別教の位に至るまでは浅益である。最初、悟りを求める心を起した時からの最実(さいじつ・円教のこと)から、最終的な段階までは深益である。始めに不善を破り、終わりの段階で塵沙惑を破るのは遅い死である。最初に無明を破り、終わりにまた無明を破るのは早い死である。煩悩が死ぬにあたっての遅早は毒の太鼓の力であり、善が生じることにおいて浅深は天の太鼓の力である。このために『法華経』に「有(う・輪廻の根本となるもの)を破る法王は世に出現して、衆生の求めに応じて教えを説く」とある。これは毒の太鼓と天の太鼓の二つの意義である。有を破る意義は前に説いた通りである。説法の利益については次に説く。

この利益においては、さらに三つの項目がある。一つめは七益であり、二つめは十益であり、三つめは問答である(注:「この利益において」から「問答である」の一文は原文にはないが、これ以降の段落の進展をわかりやすくするため付け加えた)。

◎七益

まず総合的に述べるならば、七つの利益がある(この七つの利益については、次の「十益」の段落でさらに詳しく述べられる)。第一は、二十五有の果報の利益(注:以下、「果の利益」と表現される)である。また、その地において清涼を得る利益と名付ける。第二は、二十五有の因の花が開く利益(注:以下、「因の利益」と表現される)である。また、小草の利益と名付ける。第三は、真諦三昧の析空観の利益である。また、中草の利益と名付ける。第四は、俗諦三昧の五神通の利益である。また、上草の利益と名付ける。第五は、真諦三昧の体空観の利益である。また、小樹の利益と名付ける。第六は、俗諦三昧の六神通の利益である。また、大樹の利益と名付ける。第七は、中道王三昧の利益である。また、最実事の利益と名付ける。

第一と第二の二十五有の因と果の利益は、業生の眷属となることができる。第三と第五の真諦三昧の体空観と析空観の利益は、願生の眷属となることができる。第四と第六の俗諦三昧の五通と六通の利益は、神通の眷属となることができる。中道王三昧の利益は、応生の眷属となることができる。

(注:次の段落で再び詳しく述べられるが、簡単に説明すると次の通りである。第一は、地獄界から修羅界までの流転する存在が得る利益である。本来、非常な苦しみを味わい続けているわけであるが、その中でも利益があるとするならば、まさに苦しみから一時解放される清涼を感じる利益である。そして、この世界に流転することは業の果であるので、業生の眷属となって導かれることが可能である。第二は、人界と天界の存在が得る利益である。さまざまな修行つまり因の果によって得るものである。これも業によることであるので、業生の眷属となって導かれることができる。第三は、流転する二十五有から解脱した声聞と縁覚が得る利益である。まだ神通力によって生まれ変わることができないので、願生の眷属となって導かれることができる。第四は、蔵教の菩薩が得る利益である。六神通から無漏通を除いた五神通(天眼、天耳、他心、宿命、如意身通)の利益であり、その神通力によって眷属となって導かれることができる。第五は、通教の者が得る利益である。これもまだ神通力によって生まれ変わることができないので、願生の眷属となって導かれることができる。第六は、別教の菩薩が得る利益である。六神通(天眼、天耳、他心、宿命、如意身通、無漏)の利益であり、その神通力によって眷属となって導かれることができる。第七は、円教の仏の利益である。衆生を導くために、応生の眷属となるのである)。

私(章安灌頂)が解釈すると、ここに四組の合計八つの利益があるはずである。八つの内の前を開いて後を合わせるために七つの利益となる。もし後を開いて前を合わせれば、また七つの利益となる。前と後を共に開けば、八つの利益となる。いわゆる「中道」の次第の利益、中道の不次第の利益である。もし前と後を共に合わせれば、六つの利益となる。

(注:この章安灌頂の解釈は理解不能である。なくてもよいものと考えられる)。

これで七益を終える。