大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 145

『法華玄義』現代語訳 145

 

◎十益

次に個別に説けば十種の利益となる。第一は果の利益、第二は因の利益、第三は声聞の利益、第四は縁覚の利益、第五は蔵教の菩薩の利益、第六は通教の利益、第七は別教の利益、第八は円教の利益、第九は変易生死の利益、第十は実報土の利益である。

(注:「七益」の第三である「声聞と縁覚」を二つに分け、「変易生死」と「実報土」を加えて十としている)。

○果の利益

果の利益とは、すなわち二十五有の果報の利益である。まず地獄には八大地獄がある。阿鼻、想、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱である。各それぞれに十六の小獄があって、地獄の眷属となる。合わせて百三十六箇所となる。この地獄の本体は、地下二万由旬(ゆじゅん・測ることのできないほどの膨大な距離を表わす単位)にある。付随的な地獄は、あるいは地上にあり、あるいはこの世の端にある鉄囲山(てっしせん)の間にある。この付随的な地獄に行く者の罪は軽く、地獄本体に行く者の罪は重い。重い者は、地獄の百三十六箇所をすべて遍歴し、中程度の者はすべて回らず、下の者はさらに減る。この中の衆生は、常に熱の苦しみを受ける。詳しくは説くことができない。聞く者は恐れおののいてしまう。『四解脱経』には、それを火塗(かず)と呼んでいる。地獄に初めて入る時と出る時に教えを受けることができる。その教えを受けた罪人は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、、あるいは光が照らされ、あるいは雨を注いで火を減らし、あるいは、仙人でありながら殺生の罪で地獄に堕ちたとされる婆藪(ばす)や、仏の身から血を流させた提婆達多(だいばだった)のような者に教えを示し説法すれば、熱の苦しみから離れ、体が清涼となる。目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得て、あらゆる苦しみが止む。八つの寒氷(かんぴょう)は阿波波地獄(あははじごく)などであるが、また百三十六箇所ある。ここに堕ちた者も利益を被れば、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得て、温かさが身をまとう。これを地獄の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

畜生には三種ある。水と陸と空である。また陸に三種ある。罪が重い者は土の中で光を見ない。中程度の者は山林で、軽い者は人に家畜として飼われる。弱肉強食の世界であり、常に恐れ警戒していなければならない。『四解脱経』には、血塗と表現されている。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、無所畏(むしょい・恐れがない状態)を得させるなど、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。これが、畜生の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

餓鬼とは、あるいは海岸に住み、あるいは人里や山林に住む。あるいは人の形に似て、あるいは獣の形に似る。罪が重い者はいつも激しく飢え乾いて、水の名前さえ聞くことができない。中程度の者は膿や血や糞などの汚物を食べ、軽い者はそれらで一時は満腹する。人が刀杖をもって追い出そうとすれば、かえって迫って海や川をふさいでしまう。『四解脱経』には刀塗(とうず)と表現されている。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、手から香り高い乳を出して与え、腹を満たさせるなど、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。これが、餓鬼の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

阿修羅とは、あるいは須弥山の中腹に岩窟、あるいは海のほとり、あるいは海の底に住み、諸天に対して恨みを抱き、常に恐れを抱き、雷鳴を自分に攻めて来る天の軍隊の太鼓だと思い込み、大雨は刀剣となる。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、優しい言葉で調伏などし、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。これが、阿修羅の果における、「その地において清涼を得る利益」と名付ける。

四天下(してんげ・須弥山を中心とした海の四方にある四つの大陸。その中の一つが南閻浮提(なんえんぶだい)であり、私たちが住む地を指す)の人は、その果報に違いがあるとはいえ、すべてに生老病死がある。これは軽い罪の地獄の果報である。その中の衆生は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、教えを説いて離れるべきものを離れさせ、求めるべきものを求めさせるなどし、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

六欲天(ろくよくてん・欲界にある六つの天界)とは、その中の下の二つの天には、阿修羅から戦いを挑まれるという困難があり、共通しては死に至る五つの苦しみがあり、その苦しみは地獄に等しい。その中の諸天は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

四禅天、梵天、無想天、阿那含天などの色界の諸天は、下界のあらゆる苦しみはないとしても、自分が認識の対象に囲まれていることになる。命尽きる時は、禅定に入って安楽に浸ることを願うこともなくなり、身に風が当たると、眼識以外の感覚器官からの苦しみがある。その中の諸天は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

四空(しくう・無色界の四つの天界)は、欲界・色界の苦しみがないとしても、微細な煩悩が、体を蝕むでき物や皮膚病や矢のように悩ませて来る。その中の諸天は、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

これらの「清涼を得る利益」は、総合的に述べれば、凡人や聖人の慈悲という善根の力による。個別的に述べれば、本来、菩薩の働きに基づくものである。すなわち、最初に二十五有の存在が受ける悪を観じて哀れみ(悲)を起こし、二十五有の存在の行なう善を観じて慈しみ(慈)を起こし、その慈悲をもって王三昧に入って衆生を捨てず、関連付けられ、適宜に働き、それに赴き、対し、利益を獲得させる。『涅槃経』に、二十五三昧をもって二十五有を破ることを明らかにしている通りである。果の利益を概略的に述べれば以上である。