大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 146

『法華玄義』現代語訳 146

 

○因の利益

因の利益とは、二十五有の修行の利益である。そもそも自分の利益のため、あるいは他人の利益のための因果は、それぞれの意義に従って、両極端をあげて述べれば容易である。しかし、前に述べた果報の利益については、その場所や時節が異なっているので、一人の人物にまとめて利益を語ることは難しい。しかし、修行をする人の利益を明らかにする場合、一人の人を想定して、その一人の人の心に無量のわざが起こるとすれば、その意義は解き明かしやすい。このために、一人の人における場合として、二十五有の修行の因を明らかにする。

二十五有の因の利益とはどのようなものであろうか。二十五有の最初の地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの因は、それが破られれば利益となり、その他の二十一有の因は成就すれば利益となるものである。言い換えれば、二十五有の最初の地獄の因は破られれば利益であり、二十五有の最後の非想非非想処天の因は成就すれば利益であり、その中間の二十三有の因は破られれば利益であるものと、成就すれば利益であるものの二つである。

もし戒律をもって自らを制することなく、その身と口を放縦にして地獄、餓鬼、畜生、修羅の業を作ってしまうならば、地獄の人と名付ける。もし、悪を捨てて戒律を保つならば、天人を見る人と名付ける。最初は戒律を厳しく保っていたとしても、条件が変わって退いてしまうならば、悪業はかえって起こってしまう。あるいは、四つの重い戒律を破り、五つの仏に対する反逆をし、塔寺を焼き滅ぼす。このような心が生じる時、悪が起こり、戒律が消えてしまう。この業が熟すと、必ず悪道に堕ちる。この心を離れて、良き戒律を成就しようとする時、そこに善根が発し、関連付けられ、適宜に働く者となり、聖人は無垢三昧をもってこれに赴き対し応じることを感じる。悪い心は破られ、地獄の因は止んで、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得る。しかし、道場に入って懺悔するとしても、悪い心が破られず、悪業が破られなければ、自分にまとわりついているものは断ち切られず、罪を消滅させることはできない。

もし貪欲であり、人に媚びへつらい、名誉を追い求め、内面に真実の徳がなく、人から称賛されることを願うならば、この悪が起こって戒めが消え、餓鬼の世界に堕ちる。もし懺悔することなく、負債を負っても返さず、敬う心なく、思い上って怒りに満ち、欲深くあるならば、この悪が起こって戒めが消え、畜生の世界に堕ちる。もし人の賢さを妬み、能力を妬み、他人より優れるためという理由のみで福徳の力を修し、蛆虫のような悪しき心をもって相手を引きずり下ろし、他人を驚かせ恐れさせるならば、この悪が起こって戒めが消え、阿修羅の世界に堕ちる。

この三つの悪しき心を離れて良い戒めを成就しようとするならば、善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、良い戒めが完全に備わる。このことを地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの因が壊れ、人天の因が成就し、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得ることと名付ける。これは人の世界での因を修することについて解釈したまでのことである。もし他の世界について述べるならば、地獄を出て畜生の世界に入ろうとし、畜生の世界を出て餓鬼に入ろうとし、餓鬼を出て修羅に入ろうとし(注:餓鬼と畜生の順番が違うが原文のまま訳した)、修羅を出て人の世界に入ろうとするならば、みなそれぞれに因があり、その因が成就して業が転じられる。これは同様に知ることができるであろう。

もし堅く五戒を保ち、同時に仁義を行ない、父母に孝行し従って、信心を持ち、仏を敬い懺悔する心を持つならば、これは人の業となる。人の業に四種ある。上、中、下、下下である。もし果報について述べれば、南閻浮提を下下とする。もし人の世界について述べれば、人の住まいを下下とする。ある時は良心さえなくなり、悪しき念のみが強くなる。善が成就することもあれば、悪が成就することもある。善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、四種の善が成就して、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

もし十善(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見)を修し保ち、自然と絶え間なく善心が成就し熟するならば、これは天の業である。このために「完全に悪しき心で良い念さえ混じることがなければ、悪道の業である。果報の時は苦しみのみである。善と悪が混じり合って起こることは、人の業である。人の中の果報は、苦と楽が混じるためである。十善が自然と成就するのは、天の業である。天の中の果報は、自然と起こるからである」と言われるのである。

もし十善を修し、同時に仏法を守る心を起こすならば、これは四天王の業である。もし十善を修し、同時に慈悲をもって人を教化すれば、三十三天の業である。もし十善を修し、その心の繊細さが自然と成就し、行住坐臥に衆生を悩ますことなく、善が巧みで純粋な状態が継続するならば、これは焔摩天の業である。もし十善を修し、その心の繊細さが自然と成就し、行住坐臥に衆生を悩ますことなく、善が巧みで純粋な状態が継続するならば、これは焔摩天の業である。もし十善を修し、同時に禅定を修して、荒い心や細かい心も共に収めるならば、これは兜率天の業である。欲界定は、化楽天の業である。未到定によって事象的な妨げを破ることは、他化自在天の業である。四禅は色界の業である。慈・悲・喜・捨の四無量心を兼ね、心が動いているままに禅定を得ることは、梵天王の業である。心を滅して無心定を修することは、無想天の業である。

問う:無想天は邪見の天である。どうして聖人の応を引き出す感なのであろうか。

答える:『大集経』に「菩薩は衆生を調伏することにおいて多種である。あるいは邪、あるいは正である。非道を行じて仏道に到達する」とある。あるいは古くから言われることで「聖人は両端の無漏をもって挟んで一つの有漏を練って無漏とする」とある。

ここでは、「九次第定(くしだいじょう・熟練した禅定であり、最初の浅い段階から後の深い段階まで究めることができる)」は有漏に働きかけ無漏とする。これは阿那含天の業である。四空定は無色界の業である。このような二十一有は、自分の世界の苦しみの数々を憂え、そこから出るための修行をしようとするが、求めるものは得られず、捨てようとするものは離れない。その時、善根が発し、関連付けられ、適宜に働くとするのである。二十一有に対する三昧の慈悲の力を感じ、そこから出るための修行をさせ、捨てようとするものを捨てさせ、求めるものを得させる。苦を抜き、楽を与え、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益がある。これは『法華経』に「小さな草、小さな根、小さな茎、小さな枝、小さな葉、これらが成長することができる」とあるようなものである。これがこの利益である。

総合的に述べれば、ただ凡人と聖人の慈悲の善根の力による。個別に述べれば、もともと菩薩が最初から二百五十戒を保ち、根本禅などの禅定を修し、悪を防ぐ善法の中において慈悲を起こし、その慈悲と誓願をもって王三昧に入って衆生を捨てず、関連付けられ、適宜に働き、それに赴き、対し、利益を獲得させることによる。『涅槃経』に「二十五三昧をもって二十五有を破る」とある。

十益の第二の因の利益の意義は概略的には以上である。