大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 149

『法華玄義』現代語訳 149

 

第二.近益近益を論じる

近益(ごんやく)とは、仏が悟りを開く寂滅道場に赴き、初めて悟りを成就して、教えを説き、生死の苦を減らす毒の太鼓と、道を増し加える天の太鼓を打って、衆生に利益を与え、『法華経』が説かれる直前までの利益についてである。『法華経』に至る前に限っては、利益もまた浅深の違いがある。煩悩が滅びることにおいても、遅早の違いがある。なぜなら、教えとはもともと聞く相手に合わせるものだからである。聞く相手には、三界の中の能力の高い者、低い者、そして三界の外の能力の高い者、低い者の四種がある。また教える教主にも、蔵教・通教・別教・円教の四種がある。みな法王と称し、王三昧を備え、自ら二十五有を破って、衆生に七益を与えることは、前に述べた通りである。

また、大乗小乗の経典に、仏は王三昧に入って、光を放って教えを説き、善道悪道のあらゆる衆生の果報の苦に利益を得させることを明らかにすることは、『阿含経』の中に説く通りである。「仏の光明を見て、仏の手に触れることを受けて、六道の苦患がすべて除かれる」とある。また『大品般若経』に「光を放って地獄の衆生を照らすと、その苦悩は即座に除かれ、他化自在天に生じる」とある。「苦悩は除かれる」とは、果の利益であり、「天に生じる」とは、因の利益である。『大品般若経』では「華葉の益」とある。

また、仏は光を放って、闇に閉ざされていた場所がすべて明らかとなる。その中にいた衆生は、お互いが見えるようになったので、「その中の衆生は瞬間的に生じたのだろうか」と思ったと『法華経』にある。これもまた果の利益である。

この因と果の利益は、四種の教主の仏が共通して施すものである。個別的にその利益を述べるならば、浅深の違いがある。つまり声聞は煩悩の本体を断じ、縁覚は習気を減らすのであり、これを中草と名付ける。

菩薩は煩悩を抑えて、衆生を教化する。このために『法華経』に「世尊と同じ境地を目指して、私も仏となって精進し禅定を行じよう」とある。これは上草と名付ける。またこれは三蔵教の教主の慈善根力の利益の相である。

法華経』に「あらゆる菩薩たちは、智慧が堅固であり、三界に精通して最上の教えを求める」とある。すなわち、声聞と縁覚と菩薩は、同じく無生を感じる。ただ、蔵教の析空観の智慧の利益があるのみではなく、さらに通教の巧みな体空観がある。これは小樹の増長の利益であり、通教の教主の利益の相である。

法華経』に「また禅定に住んで神通力を得る。諸法の空を聞いて、心が大いに歓喜する」とある。「禅定に住む」とは、九種の大いなる禅定に住むことである。「心が大いに歓喜する」とは、歓喜地の位に上ることである。(注:「行妙」の「出世間禅の総論」の項参照)。また「無数億百千の衆生を教化する」とあるのは、大樹の増長の利益である。ただ前の因と果の析空観と体空観の利益があるばかりではなく、分別道種智から一切種智の利益がある。これは別教の教主の利益の相である。

法華経』に、「今、あなたがたのために最も真実な教えを説こう」とある。これは前と同じ利益ではなく、無明を破って、仏性を顕わす究極的な最実事の利益である。これは円教の教主の利益の相である。

また次に、蔵教・通教・別教の利益は、劣っていて優れていない。そして優れているものが劣っているものを兼ねることは理解できるであろう。

また、五味の教えの喩えによれば、乳味の教えは因・果・大樹・最実事の四つの利益のみであり、小草・中草・上草・小樹の三草一木を明らかにしない。大乗の経典は声聞と縁覚の二乗の人の手には入らず、その人たちは、教えを聞いても耳の聞こえない人や口のきけない人のようであるためである。酪味の教えは、ただ果・小草・中草・上草の四つの利益があるのみである。生蘇味の教えは七益のすべてがある。熟蘇味の教えは、析空観の三草がなく、体空観などの七益がある。醍醐味はただ最実事の利益だけがある。前のあらゆる利益はみな麁であり、醍醐味はすなわち妙である。

寂滅道場から『法華経』に至るまでを、生身(しょうしん)の菩薩とし、ただ十益の中の八益までの利益を得て、十益の第九と第十の利益は得ていない。また「得る(=できる)」という意義があるのは、すなわち菩薩が法性身から分断生死に入って、願生・神通生・応生などの眷属となって、進んで無明を破り、残りの煩悩を断じて、すなわち第九と第十の利益を明らかにすることができるのである。このように、寂滅道場から『法華経』に至るまでは、概略的に十益とするのである。

問う:法身の菩薩は、応身仏の説法を聞いて、応身の中の利益にあずかり、また同時に法身の利益にあずかるのか。

答える:たとえば、鏡を磨けば、直ちに鏡が明瞭になって、物がよく映るようなものである。

また問う:応身が教えを聞いて利益を得て、法身も同じように利益を得るというならば、応身は病を表わすわけであり、同じように法身もまた病を表わすことがあるのか。

答える:この病はもし真実であったなら、応身が病めば、教えもまた病む。ただ応身の病は真実の病ではない。真実ではないので、応身に病がないので、法身にもまた病はない。またもし応身が病を現わすことが少ないならば、まさに知るべきである、法身の利益もまた少ない。もし応身が病を現わすことが広ければ、法身の利益もまた広い。ここで、あらゆる言葉をもって考察すれば、果がみずから利益を与えて、因は与えず、また因は利益を与えて、果は与えず、また共に利益を与えて、共に与えないこともある。これは現実の事柄である。理解すべきである。自ら破る利益、成就する利益、破って成就する利益、破らず成就しない利益もある。その破らず成就しない利益とは、前に述べた清涼の利益であり、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の因は破る利益、最高の天の非想非非想天の因は成就する利益、その中間の世界は破って成就する利益である。

因の利益が自ら果の利益であり、果の利益が因の利益であるものがある。これは変易の因が果に変わる意味である。因の利益であって増道(悟りに進むこと)ではなく、果の利益であって損生(生死の苦を除くこと)ではなく、また因と果の利益であって、また因と果の利益ではないこともある。これは分段生死の果報の因と果である。因の利益であって同時に増道であり、果の利益であって同時に損生であり、因と果の利益になることがなく、因と果の利益になることがある。これは習因(しゅういん・修行して悟りという果を得るための原因となるものを指す)と習果である。真諦の利益であって、俗諦の利益ではないものは、二乗である。俗諦の利益であって、真諦の利益でないものは、蔵教の菩薩である。先に俗諦の利益であって、後に真諦の利益になるものも、蔵教の菩薩である。先に「真諦」の利益であって、後に「俗諦」の利益になるものは、通教の菩薩である。真諦と俗諦の利益であって、中道の利益ではなく、中道の利益であって、真諦と俗諦の利益ではないのは、別教である。真諦の利益がそのまま俗諦の利益であり、また中道の利益になるのが、円教である。

 

第三.法華経の利益を論じる

法華経』について見ると、七益がすべて備わっている。また区別があるようだが、区別はない。たとえば、芽と茎と枝と葉の成長は同じではないが、一つの地から生じているものであるというようなことである。七益は実に浅深の違いがあるが、すべて実相でないものはない。このために、区別があるようで区別はないのである。

あらゆる経典に区別があるのは麁の利益である。同じく『法華経』によれば、区別のない妙の利益である。あるいは、進んでさまざまな妙の利益に入り、あるいは位に立脚して妙の利益を成就する。進み入ることの利益とは、本来「その地において清涼を得る利益」であるが、さらに進んで大乗を発し、心は解けて明らかに清らかとなる。あるいは観行即の妙や相似即・分真即の妙に進む。本来は、人天の因の利益であるが、進んで相似即・分真即の位に入る。本来は小乗の学・無学の利益であるが、進んで無明を破り、分真即の妙の利益となる。たとえば、角笛に声を入れると大きくなるように、小乗を転じて大乗とする。通教別教の進んで入る利益はこれによって知るべきである。

位に立脚する利益とは、本来、麁の果である「その地において清涼を得る利益」であるが、そのままで理即の妙の利益となる。麁の因に立脚して、そのまま観行即の妙の利益となる。麁の学・無学の利益に立脚して、そのまま相似即の妙の利益となる。麁がそのまま妙となれば、進んで入る必要はない。通教・別教の利益はこれによって知るべきである。

進んで入る妙の利益は、すなわち麁の利益に相対して、妙の利益を明らかにすることである(=相待妙)。位に立脚する利益は、すなわち絶待妙の利益である。

あらゆる麁の利益をもって眷属を解釈すれば、果・因の二つの利益は、業生の眷属となる。中草・上草の二草小樹などは、願生・神通生の眷属となる。大樹の仏性を見ること以上の段階は、みな応生の眷属となる。

進んで入る利益と位に立脚する利益については、理即・名字即・観行即の妙は業生の眷属となり、相似即の妙は願生・神通生の眷属となり、分真即の妙は応生の眷属となる。

以上が『法華経』の利益である。