大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 151

『法華玄義』現代語訳 151

 

d.観心の利益について明らかにする

小乗は、心に生じたことでも、まだ身も口も動いていなければ、業とはしないことが明らかである。しかし、大乗は、一瞬の罪を作ることでも、それによって無間地獄に堕ちることを明らかにする。無間地獄は、大きな苦しみの報いの世界であり、さらに一瞬のことでも業を起こしてしまう場所である。心がわずかに動いてしまうと、重い業が作られてしまう。ましてや、九法界にそれが備わっていないわけがない。

もしよく心を清めれば、あらゆる業は清められる。浄心観とは、あらゆる心を観じ、すべての因縁によって生じた存在は、即空・即仮・即中の一心三観である。この観心をもって、心も心ではないと知り、心はただ名称に過ぎないと悟る。法は法ではないと知れば、法に主体である我(が)があるわけがない。名称に名称がないと知れば、名称に我があるわけがない。法に法がないと知れば、すなわち涅槃となる。この理解が起こる時、我も我のある所も雲の如く幻の如しと知る。すなわちこれが「その地において清涼を得る利益」である。信じ敬い懺悔し、あらゆる善心が生じて、空・仮・中において、心に勇ましさがあることは、因の利益である。一念一念が即空と相応することは、中草・上草・小樹などの利益である。一念一念が即仮と相応することは、大樹の利益である。一念一念が即中と相応することは、最実事の利益である。一念の利益の心において、七種に分別される。

ひたすら無生観の人は、ただ自分の心の利益だけを信じて、外部から仏の威力によって利益が加えられることを信じない。これは自性の愚痴に堕ちる。また、ひたすら外部からの仏から利益が加えられることを信じて、内心に利益を求めないことは、他性の愚痴に堕ちる。自他の共性の愚痴と無因の愚痴も、またわかるであろう。

自性の愚痴の人は、重い荷物を引く時に進まなければ、傍らから力をもらって助けられて進むことを、この世で見ているはずである。罪と垢が重い者であっても、仏の威力が働き、観心の智慧をもって利益が与えられることをなぜ信じないのか。またあなたはどこで無生の内観を得たのか。師に従ったからか。経典に従ったからか。自ら悟ったからか。師と経典はあなたにとって外部の条件である。もし自ら悟ったならば、必ず目に見えない次元からの働きかけを受けたからだ。あなたはその恩恵を知らないのであり、それはまるで樹木が太陽や月や風や雨の恩恵を知らないようなものだ。またあなたは次の三つのことを知らない。一つめは教えを信じない。二つめは自ら行じてばかりいて、外部から与えられることを求めない。三つめは人を教えない。ただこれはあなたの不信心が原因であり、外部から与える力がないからではない。ある経典に「内ではなく外ではなく、しかも内であり外である」とある。内であるために、諸仏の解脱は心の中に求めるべきであり、同時に外であるために、諸仏はその念を守護するのである。どうして外部からの利益を信じないのか。他性の愚痴と、自他の共性の愚痴と、無因の愚痴についても、またわかるであろう。即仮であるために自性なく、即空であるために他性なく、即中であるために共性なく、自他共に照らされるために無因性はない。

 

E.権実

(注:この段落を最後に、『法華玄義』の大半の紙面を使って説かれた「迹門の十妙」が終わるが、最後に、「十妙」のすべて対象として、それを「権実」ということをもってまとめる内容が記されている。原文では「第五に権実を結成す」と、いかにも「功徳利益妙」の第五番目の項目のように記された言葉がこの段落の最初に来ているが、内容的には明らかに「十妙」すべてを対象としたまとめの内容である。またその証拠に、「功徳利益妙」の最初の段落分けの箇所には、第四の「観心の利益について」という言葉までしか記されていない。そのため、原文にはないが、「迹門の十妙のまとめ」という見出しを付けた)。

権と実をもって迹門の十妙をまとめると次の通りである。

光宅寺法雲は「声聞、縁覚、菩薩の三教、三機、三人の境を照らすことを権とし、教一、理一、機一、人一の境を照らすことを実とする」と言っている。

しかし、この解釈は用いない。

すでに大乗の果をもって大の理法とするならば、どうして小乗の果をもって小の理法としないのであろうか。

彼は弁明して「小果は真理ではないので、その果をもって理法とはしない」と言っている。

もしそうであるならば、権教および権行の人は、なぜかつて真実ではなかったのか。すでに権教の修行者があるならば、なぜ権理を立てないのか。また権に理法がなければ、俗諦を諦と呼ぶべきではない。すでに俗諦と呼んでいるならば、権もただ三種の境とすべきではない。実に四種の境があるならば、因果は二つの法である。どうしてこの二つの法を理一とするのか。『法華経』に「すべての法を観じれば、そのままで如実の相である。行じることなく分別することもない」とある。どうして因果を分別して理一とするのか。もしそうであるならば、実相はなく、魔の説くところとなる。このために彼の解釈は用いない。

ここで真理を明らかにする。十麁の境を照らすことを権とし、十妙の境を照らすことを実とする。十麁とは、すなわち仏界以前の九法界における蔵教・通教・別教の十二因縁などのあらゆる麁の諦・智慧などから始まって麁の利益に至るまで、みな権とするのである。一方、十妙とは、すなわち理妙(注:原文には理妙とあるが、これは明らかに十妙の第一の境妙のことである)から始まって利益妙のことである。妙であるから実なのである。

また次に、十妙を表わすために、十麁の深い意味が開かれる必要がある。蓮の実のために花びらはあるとしても、花びらに隠れて蓮の実が見えないように、あらゆる教えを示し教え利益を与え随喜して、確かにそれらの教えに実があるのだが、実は顕われない。『法華経』に「如来の方便はその意義を理解することが難しい」とある。また、花びらが開いて蓮の実が現われることは、十麁を開いて十妙を顕わすことであるが、同時に十麁がないことの喩えとなる。ただ真理においては、一大事不可思議の境界から始まって一大事不可思議の利益があるのみである。僧肇(そうじょう)は「維摩経の最初の仏国品から始まって最後の法供養品に至るまで、すべて不可思議が明かされている」と言っている。今述べていることも全く同じである。麁を開いたならば、もはやすべてが妙となる。

また五味の喩えについて述べれば次の通りである(注:これ以降、いわゆる「五時」の分類を用いた内容となるが、それを「五味」の喩えで表現している記述は最初の「乳味」だけであり、それに続いては「三蔵」という言葉が用いられ、続いて「方等」『摩訶般若』『法華』『涅槃』という表記となっている。つまり統一が取れていない。したがって、それらはカッコの中の言葉で統一した)。

乳味(=華厳時)の教えは、十妙のために十麁を明らかにし、十麁を開いて十妙を顕わす。すなわち一権(別教)一実(円教)である。もし四悉檀について述べれば、六権(別教と円教の第一義悉檀以外の六つ)二実(別教と円教の第一義悉檀の二つ)である。もし四門(有門、空門、亦有亦空門、非有非空門)について述べれば、十二権四実(四悉檀のうち、第一義悉檀以外の三つにそれぞれ四門があるので十二の権となり、第一義悉檀に四門があるので、四の実となる)となる。

三蔵(=鹿苑時)について述べれば、最初から最後まで権であり、旅人を休ませるために仮に作られた町のようであり、子供をあやすために差し出された柳の葉のようなものである。また、この教えにおいては、他の人を教化することにおいては権であり、自分の修行においては実である。四悉檀について述べれば三権一実、四門について述べれば十二権四実である(四悉檀それぞれに四門があって合計十六となり、その内、第一義悉檀の四つが実であり、その他の十二は権となる)」。

方等(=方等時)について述べれば、四教すべてが備わっているので、蔵教・通教・別教のそれぞれの十妙で、三十種の権、円教の十種の実である。四悉檀について述べれば十四権二実(四教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十四は権となる)である。「四門」について述べれば五十六権八実(四悉檀の十四権二実それぞれに四門があるので、14×4の権であり、2×4の実となる)」である。

『摩訶般若』(=般若時)について述べれば、すでに三蔵教は廃され、ただ通教・別教・円教を用いるだけとなる。通教の十妙と別教の十妙の二十種を権とし、円教の十妙を実とする。四悉檀について述べれば「十権二実(三教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十は権となる)である。四門について述べれば四十権八実(四悉檀の十権二実それぞれに四門がある)である。

法華経』(=法華涅槃時の中の法華)について述べれば、これまでのすべての教えを廃して、ただ一実を説くのみである。実の中には方便がないわけではないが、ただこれも実相の方便であるので、同じく実とする。ここで四悉檀について述べれば、まだ悟らなければ三権(第一義悉檀以外の三つ)であり、悟れば一実(第一義悉檀)である。四門について述べれば十二権四実(四悉檀の三権一実それぞれに四門がある)である。数としては三蔵教と同じとなるが、意義は天と地の違いである。三蔵教の十二権四実は、すべて権である。『法華経』はすべて実である。方等教と『般若』に異なる点を述べれば(注:ここに文はない)。このため、『法華経』に「ただこの上ない道を説き、真実の相を示すのみである」とある。この意味である。

さらに『涅槃』(=法華涅槃時の中の涅槃)について述べれば、『涅槃』は四教すべてを解釈している。またこれは三十権(蔵教、通教、別教のそれぞれ十妙)と十実(円教の十妙)である。数は、方等に似ているが、意義は全く異なっている。方等においては、別教と円教の二つは実に入り、蔵教と通教の二つは入らない。この『涅槃』は、四教すべてが実に入るのである。因においては三権一実となるが、果においては、四実となり、権はない。もし四悉檀について述べれば、十四権二実である。四門について述べれば、五十六権八実である。さらに因について述べれば五十六権であり、果について述べれば四実である。ただし、これは実のみであり、因に合わせて四実としているだけである(注:つまり因においては方等と同じだが、果においてはすべて実となるというのである)。これはすなわち四門より実に入る。果について述べれば、四実十二権(四教すべてに四悉檀があり十六となるが、その内、四教それぞれの第一義悉檀の四つが実となり、他の十二は権となる)。『法華』の意義も同じである。

このために知ることができる。あらゆる教えには同じく権と実があるが、それぞれの権と実は同じではない。あるいはすべて実であり、あるいはすべて権、またあるいは権と実が兼ね備わっている。これはすべて、相手の能力と情に合わせられているのであって、理法的には完全ではない。そこで、総合的に四教において権と実を判別すると次の通りである。三蔵教・通教・別教の三教について述べれば、これは権であり、円教を実とする。またあらゆる教えの権がまだ完全となっていないことを権とし、すでに完全となって開権顕実となることを実とする。この『法華経』はただひとつの完全な教えであるので実とし、また権を開くので実とするのである。

もし円教について述べれば、前の三教の三十麁を照らすことを権とし、十妙を照らすことを実とする。もし権を開いて完全とすることにおいて述べれば、三十麁を開いてすべて妙とすることを、ただ実とするのみである。このために妙という。もし理法を悟ることについて述べれば、理法自体には、権もなければ実もなく、何ら教えはない。子供を打つ真似をして導くように、権を説いて実を説くのである。これは麁である。理法はすなわち権もなければ実もない。このために妙というのである。

(注:以上をもって迹門の十妙が終わる)