大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 152

『法華玄義』現代語訳 152

 

Ⅱ.本門の十妙

 

妙について詳しく述べるにあたっての第二は、本門における十妙を明らかにすることである。ここで二つある。第一に、本と迹について解釈し、第二に、本門の十妙を明らかにする。

 

A.本と迹について

そもそも、次の六種(①~⑥)のように、本と迹という言葉の用いられ方はさまざまである。①本とは「理本」のことである。すなわち「実相一究竟」の道である。迹とは、あらゆる実在の実相を表現する理法的なことを除いて、その他の事象的なことをすべて迹と名付ける。また、②理法と事象をすべて本とし、理法や事象を言葉として説くことをみな「教迹(きょうしゃく)」と名付けるのである。また、③理法と事象の教えをみな本とし、その教えを受けて修行することを迹とする。人が訪れた場所には必ず足跡があり、その足跡をたどれば、その場所に到達するようなものである。また、④修行においては体験的に証が立てられるので、その体験を本とする。その体験によって働きを起こせば、その働きを迹とする。また、⑤実際に体験的に得た働きを本とし、それによって他の者たちを教化する働きを迹とする。また、⑥現在に顕わされた事柄を本とし、過去にすでに説かれた事柄を迹とする。この六つの意義をもって、以下、本と迹について説明をする(注:ここでは、まず本と迹について、広く言葉の意味から解釈している。本は根源という意味であり、迹とは、その根源から派生したものをいう。しかし、『法華経』における本、つまり本門は絶対的真理そのものを指し、迹は、絶対的真理は相対的言葉では表現できないことを知ったうえで、人々に伝えるため、この世に表わすために、言葉や行動で表現したものである。したがって、迹がなければ、本があるということが表現されないので、本も無きに等しくなってしまう。この後、本即迹ということが述べられるが、その意味はこれである。本門と迹門は、本来、そのような関係であるが、まずは言葉の意味から、広く各経典に記されている六通りのパターンがこれからあげられる)。

①.理法的なことと事象的なことについて本と迹を明らかにする

維摩経』に「無住の本からすべての実在が立つ」とある。無住の理法は、すなわち本時(ほんじ・仏に関する最初の時という意味)の実相真諦である。すべての実在は、この本時の真諦があらゆる現象となって現わされた俗諦である。実相の真実の本によって俗諦が現わされ、この俗諦である迹を通して、真実の本が顕わされるのである。本と迹が異なっているといっても、不思議(注:現在では不思議と言えば、わけがわからない、という意味で使われているが、本来は、言葉で表現できず、人間的な思考で理解することができない、という意味である。真理はまさに言葉で表現できず、人間的に理解できないので、不思議=真理である)であり一つである。このために、『法華経』に「すべての実在を観じれば、空であり実相である。ただ因縁をもって事象的に存在するように見え、真理を知らない見解が生じているように見せているのである」とある。

②.理法の教えにおいて本と迹を明らかにする

本時の次元において照らされる真諦と俗諦の二諦は、共に言葉で表現することができないので、みな本と名付けるのである。昔、仏は方便をもってこれを説き明かした。すなわち二諦の教えである。この教えを迹と名付ける。もし二諦の本がなければ、この二種の教えはない。もし教えという迹がなければ、どうして二諦の本を顕わすことができようか。本と迹が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「この教えは示すべきではない。言葉の相は寂滅している。方便の力をもって、五人の僧侶に説いたのである」とある。

③.教えと修行について本と迹を明らかにする

最初に昔の仏の教えを受けてこれを本とすれば、因である修行を実践して、悟りである果を得る。教えによって理法が明らかとなり、行を起こすのである。行によって教えに合致し、また理法を顕わすことができる。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「諸法は本来、常に自ら寂滅の相である。仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とある。

④.体験的証と働きについて本と迹を明らかにする

昔、最初に修行して理法に合致することによって、法身を証することを本とする。初めて法身の本を得るために、身体に合わせて応身の働きを起こす。こうして応身によって、法身を顕わすことができる。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「私は仏となってから今まで、非常に長い年月を経過していることは、ここに説いた通りである。ただ方便をもって衆生を教化して、このような教えを説いているのみである」とある。

⑤.働きと教化について本と迹を明らかにする

最初の本時の次元を実とし、その実において法身と応身の二身を得ることを本とする。その後の時間において、数多くの生まれ変わりを現わし、その法身と応身をさまざまな形で施すことを迹と名付ける。最初に法身と応身の本を得なければ、その後において法身と応身の迹はない。迹によって本を顕わす。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「これが私の方便である。諸仏も同じである」とある。

⑥.現在と過去において本と迹を明らかにする

法華経』が説かれる以前の経典において、すでに事象と理法そして権と実が説かれていることは、みな迹である。『法華経』に説かれる本時の事象と理法そして権と実は本と名付ける。『法華経』で明らかにされることが、本時の本でなければ、すでに説かれた経典の迹が下されることはない。すでに説かれたものが迹でなければ、どうして『法華経』の本が顕わされるだろうか。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「諸仏の教えは長い時間の後、必ず真実の教えとなるであろう」とある。

もし『法華経』以前と『法華経』が説かれた今について本と迹を述べれば、以前の経典を指して迹とし、釈迦が悟りを開いた寂滅道場からの十麁・十妙をまとめてすべて迹と名付ける。『法華経』が説かれた今を指して本とするならば、総合的に遠く大通智勝如来の『法華経』の時のあらゆる麁とあらゆる妙もまとめてみな本とする。

もし権と実について本と迹を述べれば、権を指して迹とし、個別的に中間のあらゆる異なる名を持つ仏の十麁・十妙をまとめてみな権とする。実を指して本とし、最初の十麁・十妙をまとめてみな実とする。

もし『法華経』の本体とその働きについて本と迹を述べれば、働きを指して迹とし、最初の感応・神通・説法・眷属・利益の五妙をまとめる。『法華経』の本体を指して本として、最初からの三法妙をこれとする。

もし『法華経』の教えと修行について本と迹を述べれば、修行を指して迹とし、最初の行妙・位妙をまとめる。教えを指して本として、最初の智妙をこれとする。

もし理法と教えを本と迹とすれば、理法を指して本とし、最初からの境妙をそれとする。教えを指して迹とするならば、『法華経』を説いた本師の説法妙をそれとし、兼ねて本師の十妙をそれとする。

もし理法と事象を本と迹とするならば、事象を指して迹とし、『法華経』を説いたあらゆる麁の境をまとめる。理法を指して本とするならば、『法華経』を説いたあらゆる妙の境をまとめる。

最初の本を本とするならば、ただ本であって、迹ではない。最後に説かれた説法は、ただ迹であって本ではない。中間は迹であり、また本である。もし本の時がなければ、中間と最後の迹を下されることはない。もしすでに説かれた説法の迹がなければ、今説かれる『法華経』の本を顕わして得ることはできない。本と迹は異なっていても、不思議であり一つである。