大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 153

『法華玄義』現代語訳 153

 

B.本門の十妙について

 

第二に、本門の十妙とは、本因妙・本果妙・本国土妙・本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本涅槃妙・本寿命妙・本利益妙の十種類である。

そして、この本門の十妙の解釈において、また十の項目を立てる。第一に略釈、第二に生起の次第、第三に本迹の開合を明らかにする、第四に引証、第五に広釈、第六に料簡、第七に麁妙、第八に権実、第九に利益、第十に観心である。

 

①.略釈

本門の十妙の解釈における第一は、略釈である。本門の十妙の各項目について概略的に述べる。

第一の本因妙とは、本初(ほんじょ・仏が悟りを求めようとした最も初めの時を指す。これは実際、人の智慧では理解できないほどの昔のことである。それが釈迦の生涯に具体的に人の智慧で理解できる形で表現されているとする)において、悟りを求める心である菩提心を発して、菩薩の道を行じて修したところの因のことである。十六王子が大通智勝仏の時に『法華経』を広めて結縁するようなことは、これは中間(注:本初から現在に至るまでの間という意味)の所作であって、本因とは言わない。本因は、娑婆世界を擦って墨とし、東に進みながら千の世界を過ぎた時に一点を下し、下した世界と下さない世界をすべて粉々にして塵として、その一つの塵を一劫として数えた歳月に、さらに百千万億那由他劫を過ぎた遠い昔のことである。二度とこの世に生まれ変わらない段階まで進んだ弥勒菩薩は、すべての実在について知り尽くす道種智をもって、ただすべての世界の数を数えても知ることができない。ましてや、その世界を結局は塵にした数など、どうして知ることができるだろうか。ただ如来だけが、巧みな喩えを用いて、その非常に遠い過去の相を顕わす。まして、この世の智慧をもって、巧みに計算できるだろうか。『法華経』に「私が仏の眼をもって、その久遠(くおん・この非常に長い時間を指す言葉)を見ると、なお今のようである」とある。ただ仏だけがよくこの久遠を知ることができる。その他のことはすべて迹の因であって、本因ではないのである。

もし中間の因に留まってしまえば、後に信じることが難しくなる。このために『法華経』において迹を除いて疑いを排除している。それは権であって実ではない。「私がもと菩薩の道を行じる時」とある時は中間の時ではない。これ以上に遠い昔に行じる道のことを本とするのである。これがすなわち本因妙である。

次の本果妙とは、本初に行じるところの円妙の因をもって、常・楽・我・浄を悟り得て究めることを本果という。寂滅道場の廬舎那仏の成仏を指して本果とはしない。また、中間の果を指して本果とはしない。ましてや、廬舎那仏が初めて成仏することをどうして本果とするだろうか。ただ成仏してから今まで、非常に遠く昔の成仏の果を指して、本果妙というのである。

第三の本国土妙とは、本初にすでに果を成就していれば、必ずその仏の国土がある。今、迹仏(しゃくぶつ・仏が相対的な次元に現われた姿)は浄土と穢土が同時にある凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)にある。あるいは、方便有余土と実報無障礙土と常寂光土の三土にある。中間にはまた以上挙げた合計四土がある。本仏(ほんぶつ・本初において悟りを開いた仏)にもまた国土があるはずである。ではどこにあるのだろうか。『法華経』に「成仏してから今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している」とある。この経文によれば、実に今日の迹仏の娑婆世界ではなく、また中間の権の迹の国土でもない。すなわちこれは本の娑婆世界であり、これが本国土妙である。

第四の本感応妙とは、すでに果を成就していれば、その本の時に証する二十五三昧・慈悲・四弘誓願」など、機と感が互いに関係し合うことにおいて、寂滅のようで、よく照らす。そのため本感応妙というのである。

第五の本神通妙とは、また昔の時に得た無記化化禅と、同じく本因の時のあらゆる慈悲が合わさって、施し教化するところの神通のことである。最初に悟りに導きやすい衆生を動かすために本神通妙というのである。

第六の本説法妙とは、すなわち昔に初めて道場に坐し、初めて悟りを成就し、初めて教えを施した四無礙弁(しむげべん・仏が何ら妨げなく教えを語る四つの能力のこと。言語を理解する①法無礙弁、教義内容を理解する②義無礙弁、あらゆる言語に精通する③詞無礙弁、巧みに教えを説く④弁無礙弁=楽説無礙弁)をもって説くところの教えを本説法妙というのである。

第七の本眷属妙とは、本時の説法にあずかった人々のことである。『法華経』に記されているところの、弥勒菩薩でさえ知ることのできない下方の世界にいる菩薩たちは、まさにこの本眷属である。

第八の本涅槃とは、本時に証するところの断徳涅槃(だんとくねはん・煩悩を断じ尽くした涅槃)のことである。またこれは本時の応が、凡聖同居土と方便有余土の二土にあって、縁があれば悟りに導き、そして滅度に入るということは本涅槃妙である。

第九の本寿命とは、すでに滅度に入ったという以上、本仏にも寿命の長短、遠い過去や近い過去というものがあるわけであり、それを本寿命妙という。

第十の本利益妙とは、本仏の業生・願生・神通生・応生の眷属で、最終的に得る利益が本利益妙である。

 

②.生起の次第

本門の十妙の解釈における第二は、生起の次第である。この十種の意義は、衆生の縁に応じて説かれており、経典の各文に散見できる。したがって、この十種を上記の順序で説く理由をここに述べる。

本因妙を最初に置く理由は、必ず因によって果が生じるからである。そして果が生じれば、国土がある。その国土に究極の果があるために、衆生を照らす。それによって衆生が動けば、教化を与える。教化を与える時、神通がある。神通によって道が開かれれば説法をする。説法を与える対象は眷属である。眷属が悟りを開けばそれは涅槃である。涅槃が成就する時、寿命の長短が現われる。長短の寿命が生じさせる利益については、仏の滅度の後の正法・像法などの利益がある。

このような意義は無量であるが、本門の十妙の十種としてまとめるために、次第を設けたのである。

 

③.本迹の開合

本門の十妙の解釈における第三は、迹門の十妙と本門の十妙の関係性について述べる。迹門の十妙の中では、因は境妙・智妙・行妙・位妙と開いて、果は三法妙として合わさる。習果の本果妙、報果の本国土妙・本涅槃妙・本寿命妙が合わさって三法妙となるのである。本門の十妙の中では、因の境妙・智妙・行妙・位妙は本因妙として合わさり、果は本果妙・本国土妙・本涅槃妙・本寿命妙と開く。習果の本果妙が開いて、報果の本国土妙を明らかにするのである。このように同異を述べるのは、意義の便宜によって、互いに取捨することがあるからである。

迹門の十妙の中では、詳しく境妙・智妙・行妙・位妙を明らかにする。本門の十妙の中では、概略的に述べて、みな本因妙としている。意義を理解すれば、その開合を知るであろう。本果妙とは、すなわち迹門の十妙の中の三軌妙である。本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙は、名称的には迹門の十妙と同じである。本門の十妙に本涅槃妙・本寿命妙として開くのは、久遠の諸仏の燈明仏、迦葉仏などの仏は、みな『法華経』において涅槃に入っているからである。その意義を考えると、本仏は必ず浄土におり、衆生も清浄である。また過去の事柄は成就したので、涅槃において本涅槃妙・本寿命妙として開くのである。迹門の十妙の中にこの二つの妙がないのは、釈迦は『法華経』において涅槃を説くといっても、『法華経』の中では滅度していない。このことは『涅槃経』に記されている。そのために迹門の十妙の中に説かないのである。本利益妙は迹門の十妙と同じである。

 

④.引証

本門の十妙の解釈における第四は、経文を引用して証する。経文と言っても、他の経典や同じ部類の経典の経文は引用しない。ただ『法華経』の本門の経文を引用して、この十種を証する。

しかし、『法華経』の「薬王菩薩本事品」には、昔、『法華経』には大河の砂の数をさらに数千兆倍したほどの偈があったと記されている。今の『法華経』の仏は、霊鷲山において、八年間にわたって説法したことが記されている。インドの原典のことは、どうして完全に知ることができるだろうか。この中国の辺鄙な場所では、その大意を知るだけである。人は『法華経』の七巻(注:現在流通している『法華経』は八巻である)を「小経」としている。インドの原典は膨大である。どうして語ることができるだろうか。しかし、それに比べれば数紙に過ぎない中であっても、この十種の証明は備わっている。経文に「私は昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とある。これはすなわち本因妙を行ずることである。

経文に「私が実に成仏してから数えきれないほどの年月が経過している」とある。また「私が実に成仏してから今まで、久遠であることはこのようである。ただ方便をもって衆生を教化して、この説法をした」とある。これはすなわち本果妙である。

経文に「私は娑婆世界において、最高の悟りを得て、このあらゆる菩薩を教化し導いた」とある。また「その時から今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している。また他の場所においても衆生を導き利益を与えている」とある。この国土はまた今の娑婆世界ではない。これはすなわち本国土妙である。

経文に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、彼らの信心などの能力の高低を観じる」とある。これはすなわち本時に衆生を照らす智慧である。これは本感応妙である。

経文に「如来の秘密の神通力」とある。また中間(注:本からすでに時が経過している期間、あるいはその期間についての文のこと)の文に「あるいは自身の身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自分のことを示し、あるいは他人のことを示す」とある。すなわちこれは形を十法界に現わして、あらゆる姿となることである。本においても同様である。これは本神通妙である。

経文に「この多くの菩薩たちは、すべて私が教化した者たちであり、仏道に対する大いなる心を起こさせたのである。今、すべては退くことのない位にあり、私の道の教えを修学している」とある。また中間の文に「あるいは自分のことを説き、あるいは他人のことを説く」とある。本においても同様である。これは本説法妙である。

経文に「この多くの菩薩たちは、身体はみな金色であり、下方の空中に住む。これらは私の子である。私は久遠の昔から今まで、彼らを教化した」とある。これは本眷属妙である。

経文に「またこれを涅槃に入ると言う。このようなことはみな方便によって分別する」とある。また「今、本当に滅度することではないが、まさに滅度すると説く」とある。過去からの仏と衆生の縁が尽きれば、滅度すると説く。中間にすでに涅槃を称えるのであれば、本もまた同様である。すなわち本涅槃妙である。

経文に「あらゆる所に自分の名前の不同、年齢の大小を説く」とある。「年齢」とは寿命のことであり、「大小」とは長短、常、無常のことである。中間にすでにこのことがあれば、本の寿命もまた同じである。すなわち本寿命妙である。

経文に「また方便をもって微妙の教えを説き、よく衆生歓喜の心を起こさせる」とある。これは中間の利益である。また「仏の寿命の劫数が非常に長いことはこのようなことであると説くことを聞いて、数えきれないほどの衆生は大いに利益を得た」とある。これは迹門の中の利益である。迹門と中間とすでにこのようであるならば、本もまた同様である。すなわちこれは本利益妙である。

このように、十種の根拠は経典によることであり、人によって造られたものではない。