大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 154

『法華玄義』現代語訳 154

 

⑤.広釈

本門の十妙の解釈における第五は、広釈である。本門の十妙の各項目について詳しく述べる。本がなければ迹が下されることはない。もし、よく迹を理解すれば、すなわちまた本も知る。しかしまだ理解できない者のために、さらに重ねて分別して説く。ただ本の極みにある法身は、微妙深遠である。仏がもしそれを説かなければ、弥勒菩薩でさえ理解できない。どうして下の世界にいる者たちが理解できようか。どうして凡夫が理解できようか。しかし、父母が亡くなることは見届けねばならないと同様に、妙来の功徳は知らなければならない。ここで概略的に経典の趣旨によって、その功徳に思いを寄せて述べる。

 

(1)本因妙

法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じていた時に成就した寿命」とあるのは、慧命のことであり、すなわち本時の智妙のことである。「私が昔行じていた」とある「行」とは進むことであり、本因妙のことである。「菩薩の道の時」とは、菩薩は修行中の人であるので、位妙を表わす。この経文全体でこの智妙・行妙・位妙の三妙を証する。この三妙は、すなわち本時の因妙であり、迹門の因ではない。

迹門の十妙における因は多種である。あるいは『大智度論』に「昔、(今の釈迦は)陶師となって、前の釈迦仏に会い、草、燃えている灯火、砂糖水の三つをもって供養した。そして将来、父母の名前、弟子の名前、侍人の名前までも、すべて釈迦仏と同じ名前の仏となる」という誓願を立てた。すなわち、これは測ることができないほど昔の初発心である。煩悩を断じることについて明らかにされていないので、三蔵教の行の因の相である。

あるいは、ある文に「昔、婆羅門の学生となって、然燈仏に会い、五華を散じて供養し、髪の毛を敷いて足の泥をぬぐい、身を虚空に踊らして、無生法忍を得た。仏はそのため授記を与え、釈迦文と名付けた」とある。また『大品般若経』に「華厳城の中で授記を得る」とある。意義は同じである。煩悩を断じることを説いているので、通教の仏の因の相である。

あるいは、『悲華経』に「昔、宝海梵志(ほうかいぼんじ)となって、刪提嵐国(せんだいらんこく)の宝蔵仏の所で、大いに精進し、あらゆる方角の仏に華を送って供養した」とある。そして宝海梵志の子が出家して悟りを開いた。また宝海梵志は国王に勧めて出家させ、宝蔵仏はその国王に授記を与えた。それが阿弥陀仏であり、宝蔵仏はその師である。この功徳は不可思議である。このために、これは別教と円教の修行の因の相である。

次の三義のために、このあらゆる因は、すべて迹門の因であることがわかる。すなわち、第一に昔と言っても近い過去である。第二に浅深の違いがある。第三に退けられるからである。今の世の前、そして本が成就した後、すなわち中間の修行はすべて方便である。このために、迹門の因であることを知る。もし迹門の因を本門の因としてしまえば、迹門も本門も知らないことになる。天にある月を知らずに、池に映った光、月に生えているとされる桂、もしくはその輪を見ているだけのようなものである。光は智妙を喩え、桂は行妙を喩え、輪は位妙を喩える。もし迹門の中のこの三妙を知って、迹門を退けて本門を顕わせば、すなわち本地の因妙は、影から目を離して天を指し示すようなものであると知る。どうして盆の水に映った星だけを見て、天の川を仰がないのか。ああ、愚かな者にどうして道を論じられようか。

もしこの意義を得れば、迹門の本は本ではなく、本の迹は迹ではないことを知る。本と迹は異なっているといっても、不思議であり一つである。

問う:『法華経』に「昔(=本)、菩薩の道を行じた時」とあるのは、まさにこれは初住の位において真実の道を得る時のことであろう。中間はまさに他の行の位における道を進め、煩悩を断つ段階であるはずである。『法華経』の寂滅道場は、まさに最高の位の妙覚である。したがって、妙覚の本を顕わすならば、まさに昔の初住を指すべきではないか。これ以外にないのではないか。

答える:経文においても意義の上においても、それは言えない。『法華経』に「すべての諸仏のあらゆる道の法を行じる」とある。また「具足してあらゆる道を行じる」となる。すべての因を具足して備えているので、本因である。初住の位はすべてを備えているとは言えない。このために本因ではない。また中間の果はすべて権である。ましてや今の寂滅道場の果は、どうして実とすることができようか。また中間の果も権として結局退けられるならば、中間の因はなぜ実の因であろうか。このために、この問いの内容は不可である。

 

(2)本果妙

法華経』に「私が成仏してから今まで、非常に大いに久遠である」とある。「私」とはすなわち真性軌である。「仏」とは悟りの義であり、すなわち観照軌である。「今まで」とは、如実の道に乗じて、それによって悟りを成就する。すなわち応を起こすのであり、資成軌である。この三軌は成就して非常に長い期間が経過している。すなわち本果妙である。

本果が円満して、久遠の昔にある。今の迹が成就して本果となるのではない。迹が成就すれば、一種ではない。あるいは「菩提樹の下に坐って、三十四心(四教の蔵教の八忍・八智・九無碍・九解脱を合わせて三十四心という)に見惑と思惑を断じ、明らかに大いに悟り、世間と出世間のすべての諸法を覚知する。これを仏と名付ける。ただこの仏のみ存在し、あらゆる方角の仏はない。過去現在未来の三世の仏は、すべて他の仏であり、私の分身ではない」という。これは三蔵教の仏果である(注:この箇所は経典の引用のように見えるが、このような内容の経文は存在しない。これは三蔵教の仏果を説明するために創作された文である。以下も同じである)。

あるいは「菩提樹の下で天衣を座として、悟りを開く瞬間の智慧をもって、他の習気を断じて成仏することができた」という。『大品般若経』では、共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る智慧)を説く時、あらゆる方角に千の仏が現われ、質問する人は須菩提帝釈天などとする。これは他仏であって、「私」の分身ではない。これはすなわち通教の仏の果が成就した相である。

あるいは「寂滅道場で七宝華を座として、身は蓮台にふさわしく、千の葉の上にいる各菩薩たちに、さらに百億の菩薩がいる。すなわち全部で千百億の菩薩たちがいる。あらゆる方角に仏の眉間の白毫と分身の仏の白毫から光を放つ。白毫は蓮台の菩薩の頂に入り、分身の仏の光は華葉の菩薩の頂に入る。これは法王の職位を得ることである。諸仏の法の底まで究め、成仏することができる」という。華台を報仏と名付け、華葉の上にいる仏を応仏と名付ける。報仏・応仏は、ただ関係性があるだけであり、相即することはできない。これは別教の仏の果が成就した相である。

あるいは、「道場において虚空をもって座とし、一つが成就することはすべてが成就することである。毘盧遮那仏はすべての場所に遍く存在し、廬舎那仏と釈迦の成仏もまたすべての場所に遍く存在する。法身である毘盧遮那仏と、報身である廬舎那仏と、応身である釈迦仏の三仏が具足して欠けたところはなく、三仏相即して一つとなり異なるところはない。『法華経』において、八つの各方角に、それぞれ四百億那由他の国土に釈迦を安置することは、すべてこれは毘盧遮那仏である」という。『観普賢菩薩行法経』に「釈迦牟尼毘盧遮那仏と名付ける」とある。これはすなわちこれは円教の仏の果が成就した相である。

次の三つの意義があるために、このあらゆる果はみな迹門の果であることがわかる。一つは今の世に初めて成就するためであり、二つは浅深の違いがあるためであり、三つは中間を権として排除するためである。

もしこれが本果であるなら、なぜ今日、初めて成就するのだろうか。本果においては、一つの果はすべての果である。なぜ前後に差別があって、不同なのだろうか。今の世より前の本が成就した後、百千万億に因となる修行を通して果を得て、何度も生まれ変わることを現わすことがすべて中間であるならば、方便として排除する。釈迦が悟りを開いた寂滅道場の菩提樹も、なぜ迹でないことがあろうか。もし迹の果に執着してそれを本果とすれば、迹も本も知らないことになる。本から迹が現わされることは、月が水に映るようなものであり、迹を排除して本を顕わすことは、影から目を離して天を仰ぐようなものである。まさに今成就した果はみな迹の果であるとして排除し、久遠の昔に成就した果が本果であるとするべきである。このように理解すれば、中間の果についての疑いはたちまちなくなる。仏の寿命が非常に長いということに対する信心は、その意義も明らかである。迹の本は本ではない。本の迹は迹ではない。迹と本が異なっているといっても、不思議であり一つである。