大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 156

『法華玄義』現代語訳 156

 

(7)本眷属妙

法華経』に「このあらゆる菩薩は、下方の空中に住む。彼らは私の子、私はすなわち父である」とある。「下方」とは、下を底とする。『大品般若経』に「諸法底三昧(しょほうていざんまい)」について記されている。『大智度論』に「智度の大道は、仏が底を究めたことである」とある。まさに知るべきである。このあらゆる菩薩たちは、仏の側にあって智度の底を究めたのである。「空中(=虚空)」とは、法性虚空の寂光のことである。本時の寂光は、空中から今の時の寂光の空中に出る(注:この時の『法華経』の場面は空中となっているため)。今の時の寂光の空中にいる者は、本時の者を知らない。このために「私は諸国に修行のために遊行したが、この中の一人も知らない」と言っている。この地涌の菩薩は、みな本時の応生の眷属である。

本時に業生・願生・神通生がないのは、非常に長い時間が経過しているので、権が実に転換しているからである。ただ応生のみあって、三つの眷属はない。あるいは、応生を挙げて、三つの眷属があることを知るべきである。本より迹が出て、迹の中に初めて成仏する時、また業生・願生・神通生・応生がある。中間の教化するところにもこの四つの眷属がある。文殊菩薩、観世音菩薩、提婆達多などは、ある時は師と呼び、ある時は弟子と呼ぶ。迷う者にはまだ理解されない。

もし中間を権として排除すれば、迹でないものはない。すなわち迹と本は理解すべきである。もし迹に執着して本とすれば、二つの義が共に失う。

問う:迹と本を比べれば、地涌の菩薩の数よりも、分別功徳品に記されている道を進めた衆生の数の方が圧倒的に多い。本と迹の法身は、浅深の違いがあるのだろうか。

答える:法身はまず先に満了して、道を進めることもなく、煩悩を断じることもない。衆生を教化するにあたって、広狭の違いがあるのみである。

問う:もしそうならば初住・二住の教化の対象に浅深多少の違いがある。法身の応生に浅深の違いはないことになるが、どうなのか。

答える:菩薩は位がまだ極まっていないので、実を証するにあたって、浅深を分別する。仏の位はすでに満了している。ただ権を教化するに際して、四句あって広狭を論じるだけである。

問う:因果などを明らかにするにあたって、みな迹仏に合わせて本を指す。しかし眷属を明らかにするにあたっては、本を召して迹に至るのはなぜか。

答える:因果などの理法は、幽玄微妙(注:抽象的という意味)であり明らめることが難しい。このために、迹に合わせて本を表わす。眷属は人であるので(注:具体的という意味)、召して証することがたやすい。あるいは本の人をもって迹の人を示し、あるいは迹の理法をもって本の理法を表わすべきである。互いに意義を表わすのみである。

 

(8)本涅槃妙

法華経』に「この涅槃に入ることは、真実の滅度ではないが、まさに滅度に入ると言うのである」とある。「真実の滅度ではない」とは、変わらない本寂を指す。「まさに滅度に入ると言う」とは、衆生を調伏するためである。すべて本時の涅槃であり、迹の涅槃ではない。迹とは、『涅槃経』に「音声や映像によって成り立っているものは、あらゆる弟子から虫やサソリにいたるまでである。無辺身菩薩などの弟子の位の者は、身体が無辺である。どうして釈迦が死ぬ間際に背中が痛んだ、ということがあろうか」とある。これは、仏は生身(しょうしん)の病を示して滅度を示すが、法身には病などなく、常に存在して変わらない。あるいは、析空観における因が滅して、果が消されることを用いて有余涅槃(ゆよねはん・まだ肉体が残っている状態での涅槃)・無余涅槃(むよねはん・肉体も完全になくなった状態での涅槃)の涅槃を明かすことである。

生身の迹が滅するとは、『阿含経』の中に記されている通りである。業によって生まれた身は、父母から生まれる。国を捨て、王を捨て、六年間苦行し、三十四心に煩悩を断じて成道した(注:「三十四心に煩悩を断じて成道する」という表現は、釈迦が悟りを開く過程を表わす定型句のようなものである)。八十二歳の老比丘の身、純陀(じゅんだ・個人の名)の家に至って、鉢をもって托鉢し食を請い、キノコと野菜の煮物を食べて、その後、説法した。果報の寿命はその夜に尽き、無余涅槃に入った。火をもって火葬し、舎利を集めるのは、三蔵教の仏の涅槃の相である。

また『大智度論』には「六地の位の菩薩は見思惑はすでに尽き、七地の位より以上は、他の者を助ける誓願のために、残った習気(じっけ・煩悩が残した余熱、惰性のようなもの)を用いて生死の身を受ける。そして、上界に生まれ、下界に生まれ、最後に一瞬の心における智慧によってその習気を断じて成仏する。教化すべき衆生の縁が尽きれば、教化をやめて無余涅槃に入る」とある。これは通教の仏の涅槃の相である。

地論宗の人は次のように言っている。「意識的な修行によって無意識的に自然と行なわれる修行を起こす。菩提の果が満了して大涅槃を成就する。これを方便浄涅槃という」。また『涅槃経』に「この外界に存在すると思っている色(しき・五蘊=五陰の最初の色を指す)を滅ぼすことにより、真実の変わらない存在を得る。五蘊の残りの受、想、行、識もまた同じである。これを色解脱、受、想、行、識解脱という」とある。すなわち、これは、分断生死(三界の中で繰り返される生死)・変易生死(三界の外にあっても自分の意志で生死を現わすこと)の因が尽きて、常住の有余涅槃を得るのである。そして、二種の生死の五蘊=五陰の果の身が尽きて、常住の無余涅槃を得る。これは前の三蔵教と通教とは異なっている。これは別教の仏の涅槃の相である。

『涅槃経』に「大いなる涅槃は常住不変であり、あらゆる示現をもって衆生を調伏する」

とある。『首楞厳経』に詳しく説く通りである。「大涅槃常楽我浄」と名付ける。これは前の三蔵教と通教と別教とは異なっている。これは円教の仏の涅槃の相である。

『像法決疑経』には「今日の聴衆の座にいる数えることができないほどの多くの衆生は、それぞれ見る対象は異なっている。ある者は、如来が涅槃に入ることを見て、ある者は如来が世に住む期間が一劫または一劫に少し足りない期間だと見て、ある者は如来が世に住む期間が無量劫だと見て、ある者は丈六の身体だと見て、ある者は小さい身体、大きい身体と見て、ある者は報身の蓮華蔵世界海に坐して百千億の釈迦牟尼仏のために心地の法門を説くことを見て、ある者は法身が虚空と同じとなって分別することができず、無相無礙であり、遍く法界の虚空に同じだと見て、ある者はこの世の釈迦が入滅した沙羅双樹の林は単なる土砂草木石壁だと見て、ある者はその場所は金銀七宝によって清浄に荘厳されていると見て、ある者はその場所は三世の諸仏の遊ぶ所だと見て、ある者はその場所は不可思議な諸仏の境界の真実の法体だと見る」とある。これは仏身の国土と本体にそれぞれ蔵教・通教・別教・円教の四つの相があることを明にしている。すなわち前に述べた四涅槃の相である。

『涅槃経』は『法華経』と説く意義は同じである。『涅槃経』は常住をもって経の主要とする。『涅槃経』の中で、迦葉菩薩が最初に長寿について質問したところ、仏の答えの中に、あらゆる場所に多くの未来の常住を顕わし、過去の寿命については少ししか明らかにしていない。『法華経』に過去の寿命についてはすでに説かれているためである。『涅槃経』は、過去に成就した寿命については少し説くけれども、それによって近い過去の寿命は短命だと判断してはならない。『法華経』は完全に発迹顕本を明らかにするのである。無量の寿命を主要な教えとするならば、未来の常住は少ししか説かない。数か所で未来の寿命について説くけれども、それが常住ではないと判断してはならない。この二経は互いに述べている。能力の高い者は、本の寿命は常住だとしれば、未来もまた常住だと知る。未来の長寿を理解すれば、また本の長寿を理解する。この義は同じである。また『法華経』に「しばしば生を現わし滅を現わす」とあるのは、生も実の生ではなく、滅も実の滅ではなく、それによって、常住の義が顕わされているのである。また二万の日月灯明仏や過去仏である迦葉仏は、『涅槃経』では説かれない。ただ『法華経』において、本の常住、未来の常住を明らかにするのみである。これによっても『法華経』は常住を明らかにする義を顕わしていると見ることができる。

本と迹と中間の三つの意義によって、あらゆる涅槃は迹であって本ではないことがわかる。初めて涅槃に入るために、入ってまたそこから出るからであり、中間を権として排除するからである。この迹の涅槃は、みな本から来ている。どうして迹に執着して、それを本というのだろうか。これは迹も本も知らないからである。もし迹を排除して本を顕わせば、この二つの意義に迷うことはない。迹ではなく本ではなく、不思議であり一つである。

 

(9)本寿命妙

前に説いた因妙の中には、智慧をもって命とする。これはすなわち長でもなく短でもなく、非長非短の慧妙によって、長短となる。この中に正しく長短の寿命を明らかにしている。『法華経』に「あらゆる場所に自らの名前の不同、年紀の大小を説く」とある。「年紀」とは寿命のことである。「大小」とは長短のことである。同じく『法華経』に「中間、あらゆる場所、年紀の大小」とあるのは、迹において、遠く本を指しているからである。

迹における不同とは、三蔵教の仏は、父母と同じ生身で、八十二歳で尽き、その身は灰となり智慧は滅して、もう再び生まれることはない。通教の仏は、誓願の身であり、教化する縁が終われば、また灰となり、もう再び生まれることはない。この二人の仏は、ただ業により、縁により、非長非短の慧命を得ない。長となり短となり、大小の寿命となることはできないのである。別教は十地の位に至って無明を破り、如来の一身無量身を得る。一身は自然と安住し、無量身は百法界において仏となり、また九界の身を現わし、年紀の大小を論じることができ、大はすなわち大乗の常の寿命、小はすなわち小乗の無常の寿命である。円教は十住の位に至る時も、またこれと同じである。

これらはみな因中の菩薩であり、常ではなく無常ではなく、同時に常、無常、大小の寿命となる。どうしてそれ以上の位がそうでないだろうか。どうして妙覚がそうでないであろうか。このような寿命は、本と迹と中間の三つの意義によって、みな迹の中の因果の寿命であることがわかる。この寿命はみな本地の因果が円満であることによって、この迹が来ている。迹はすでにこのようである。どうしてまた本がそうであろうか。『法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とあるのは、本因を指す。因の寿命すらなお尽きていないのである。どうして本果の寿命が尽きているだろうか。もし迹に執着すれば、すなわち本を知ることができない。もし迹を排除すれば、本を知る。また、この二つは不思議な次元では一つである。

 

(10)本利益妙

法華経』に「みな歓喜を得させる」とある。「歓喜」とはすなわち利益の相である。迹の中の三乗が共にする十地、別教の十地、開権顕実、位に立脚する妙、位に入る妙などの利益から始まって、仏の寿命を聞いて、煩悩を断じ道を進めることなどは、みな迹の中の利益である。さらに中間の権実の利益も、また迹の中の利益である。迹と本を比較すると、本もまた偏と円の利益がある。下の世界の菩薩がみな虚空に住む理由は、みな寂光にいるからである。それは本の利益である。このために本の本は、迹を下し、迹を借りて本を知る。これ以上は具体的には記さない。