大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 157

『法華玄義』現代語訳 157

 

⑥.料簡

本門の十妙の解釈における第六は、料簡である。過去・現在・未来の三世について考察する。『法華経』に「如来の自在な神通力と、如来の大いなる勢いと威厳の力と、如来の獅子奮迅の力」とあるのは、すなわちこれは三世にわたって衆生に利益を与えるという意味の文である。過去に最初に悟りを証するところの権と実の法を本と名付ける。本が証されて以降、方便をもって他を教化し、開三顕一・発迹顕本することは、最初を指して本とするためである。中間の示現、発迹顕本も、また最初を指して本とするためである。今日における発迹顕本もまた、最初を指して本とするためである。未来の発迹顕本もまた、最初を指して本とするためである。三世は異なっているとはいえ、毘盧遮那仏の一つの本は異なっていない。百千の枝葉も同じ一つの根から生えているようなものである。

問う:現在見ることのできる無量の仏は、すべて釈迦の分身である。なお他の仏があって、その他の仏にもまた分身があるのだろうか。

答える:『観普賢菩薩行法経』に「東の方角に仏がいて、善徳という。その仏にまた分身の諸仏がいる」とある。もしそうならば、また他の諸仏がいて、その諸仏にも分身がいる。また『法華経』の「神力品」に「仏が指を鳴らし咳払いすると、その二つの音は遍くあらゆる方角の諸仏の世界に至る。その仏の僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、遥か遠くからその仏を供養する。その散じた諸物はあらゆる方角から来たが、それはたとえば雲の集まるようであり、遍くその間の諸仏の上を覆った」とある。このために知る。諸仏がいて、その諸仏にも分身がいるということである。

問う:三世の諸仏にみな分身がいるならば、なぜ多宝如来は全身があるのみで分身せず、禅定に入っているような姿であると記されているのか。もし分身とならなければ、なぜあらゆる方角に遊戯し、『法華経』を証すというのか。この二つの意義はどうやって通じるのか。

答える:『大智度論』に念仏について解釈する中で、「多宝如来は、人から説法を請われることがないので、涅槃に入り、後に仏身と七宝の塔を化作して法華経を証す」とある。もしこの『大智度論』の解釈に従うならば、すなわち全身を化作したのである。分身がないのではない。南岳師は「もし説法はしないとするならば、なぜ僧侶や尼僧や男女の在家信者に、私の滅度の後に一つの大きな塔を立てよと告げたのか。全く説法をしなかったわけではない。まさに『法華経』は説かなかったということである」と言っている。このために大誓願を発して、生身の骨を砕かず、全身散らさずに、現われて円教を証するのである。「禅定に入っているような姿」とは、不滅を表わしているのであり、現われて常住の経典を証することにおいて、偏っていないことを表わしている。不偏不滅であり、円教の常住の義が顕われている。「口に真実の清浄の大いなる法を語る」とある。「真実」とは常住である。ここには略して常・浄の二徳を挙げる。他の我・楽はわかるであろう。能力の劣った者は経文を読んでも、自分では悟れない。

問う:三世の諸仏はみな本を顕わすならば、釈迦の最初の実成(じつじょう・釈迦が最初に悟った時を指す。『法華経』によれば、測ることのできないほどの昔であるとする)についてどのように本を顕わすのか。

答える:諸仏も必ずしもすべて本は顕わさない。今、具体的なことを通して述べるならば、最初の妙覚は、初住の位を本とする。もし初住からさらに進んで妙覚の位に至るならば、やはり初住を本とする。初住の前の位には、時間の経過において指すものがない。空間の広がりにおいては、仏の本体の働きがあるので、どうしてそれが本でないことがあろうか。また誓願を発するために、寿命の長遠を説く。それは経文の通りである。

また、最初の仏は、長遠、昔と今、権と実などの本と迹を顕わすものがないといっても、本体の働き、教えと修行、理法の教え、理法と事象などの本と迹を顕わすことはある。またもし抽象的なことを通して述べるならば、最初に悟った仏は、すでに初めて本を得て、まだ迹を下していないわけであるから、遠い過去の迹も発することもなく、遠い過去の本を顕わすこともない。久遠実成の仏は、釈迦の例のように、東方を喩えとする。それより昔の場合は、四方を喩えとし、さらに昔の場合は、十方を喩えとする。これより近い過去は、釈迦の東方を除いた方角を喩えとし、全くないものについては喩えるものもない。

問う:もし久遠実成において、さらに昔の本を顕わすことがないならば、どうして『法華経』に、「これは私の方便である。諸仏もまた同様である」とあるのか。

答える:久遠実成に本がないとしても、方便を用いれば、仏に劫を延ばしたり縮めたりする智慧がある。七日を延ばして無量劫にするなどである。

問う:仏にもし久遠実成と始成(しじょう・この世で仏となること)があり、迹を発することと発しないことがあれば、また開三顕一をすることとしないことはあるのか。

答える:菩薩がもし声聞と共にいれば、開三顕一はある。もし菩薩だけだったら、どうして開三顕一の必要があろうか。

問う:もし開三顕一をしなければ、諸仏と釈迦仏、また三世の仏はどうなのか。

答える:同じく声聞と菩薩が共にいるような五濁(ごじょく・劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく)の悪世であるならば、開三顕一をするが、浄土の仏はそれはない。

問う:十麁を破って十妙を顕わせば、すなわち無明惑が尽き、一実の理法が顕われる。今、さらに迹の妙を破って麁とし、本を顕わして妙とする。いったい何の煩悩を破って、何の理法を顕わすのか。

答える:無明惑の数はとても多い。実相の海は、深く無量である。このように破って妙を顕わすことに、誤りはない。

問う:もしそうならば、むしろ妙をもって妙を破ることになる。破る対象は妙であり、しかも麁である。またまさに麁をもって麁を破れば、破られるところの麁は、上の説によれば、妙ということにならないだろうか。破られるところの四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)も、上の説によれば、妙ということにならないだろうか。

答える:頓教について意義を明らかにすれば、ただ四住はすなわち妙においてあるのみである。どうして四住を破る智慧は、妙でないことがあろうか。

また問う:もしそうであるならば、ただ頓教の意義あるのみで、まさに漸教の意義はないであろう。

答える:もし漸教と頓教を分けるならば、漸教の働きとその破る対象は共に麁であり、頓教の働きとその破る対象は共に妙である。

問う:中間に偏と円、権と実があっても、同じくこれを権とすれば、またまさに同じく偏とするべきであろうか。

答える:通教の意義においてはそうである。別教の意義においてはそうではない。偏と円は真理においてのことである。真理はすなわちすでに定まっているので、偏は円ではない。円は偏ではない。一方、権と実は教えにおいてのことである。迹の中で教えを設けることは、同じくみな仮であるために、仮において権を論じるのみである。

問う:すでに麁を帯びる妙がある。また麁を帯びない妙があれば、またまさに妙を帯びる麁、妙を帯びない麁があるであろう。

答える:これはまさに、次の四種である。麁を帯びる妙は、すなわち別教である。麁を帯びない妙は、すなわち円教である。妙を帯びる麁は、すなわち通教である。妙を帯びない麁は、すなわち三蔵教である。

また麁を帯びる妙は通教のようで、麁を帯びない妙は、すなわち円教のようであり、また、麁を帯びまた麁を帯びないのは別教のようであり、帯びるのではなく、帯びないのでもないのは円入別教のようであり、また別入通教と円入通教のようである。

また、五味の教えについて述べれば、麁であり妙を帯びないのは酪味の教えのようであり、妙であり麁を帯びないのは醍醐味の教えのようであり、また麁を帯びまた帯びないのは生蘇味と熟蘇味の教えのようであり、麁を帯びるのではなく、麁を帯びないのでもないのは乳味の教えのようである。

問う:二つの麁が同じでなければ、どうして同じく麁と呼ぶのか。

答える:事象に浅深の違いがあるために二つとし、共に妙の理法ではないので、同じく麁である。

問う:それではまさに、方便を帯びる実と、方便を帯びない実があることになる。

答える:前の例のように理解せよ。

問う:またまさに二を帯びる一、二を帯びない一があることになる。

答える:前の例のように理解せよ。共通して述べれば、本と迹はただ権と実であるのみである。個別的に述べれば、高低については本と迹を用いるべきである。空間的に真と偽を述べれば、権と実を用いるべきである。本と迹は仏の身体についてであり、位についてである。権と実は智慧についてであり、教えについてである。

問う:本地の十妙は、前に述べられた昔・今・中間・体用・教行・理教の六種の本と迹について述べれば、どのように分けられるのか。

答える:昔・今ではなく、中間ではなく、すなわち体用・教行・理教など、共に十妙を述べるのである。

 

(7)麁妙

本門の十妙の解釈における第七は、「麁妙を論じる」である。迹の中のすでに得た十麁を麁とし、十妙を妙とする。このように、まだ十麁を開いていないことを麁とし、十麁を開くことを妙とする。具体的には前に説く通りである。迹の中の麁に相対する妙と、麁を開く妙とは、同じく本の妙と異なることはない。しかし、今、初めて得たと言えば、初めて得るものを麁とするのだが、それは本の中に先に成就していたものである。あるいは、麁もしくは妙もしくは麁を開く妙も、また迹の妙に異なることはない。しかし、これは先に得たものである。先に得るものを妙とする。

また迹の中の事象と理法において、初めて得るものを麁とし、本の中の事象と理法において、先に得るものを妙とする。迹の中の理教・教行・体用・権実もまたこのようである。

また、もしまだ発迹顕本をしなければ、ただ迹の中の事象と理法の麁と妙を解釈するのみであり、最後まで本の中の事象的な麁を理解することはできない。ましてや本の中の理法的な妙をどうして理解することができようか。弥勒菩薩ですら、達することができない。どうして他の人が達することができようか。

もし迹の中の事象と理法から、本の中の事象と理法を顕わせば、また本の中の事象と理法によって、迹の中の事象と理法を顕わすことを知る。迹はすでに本によるものであれば、すなわち本は妙であり、迹は麁である。すでに本と迹に異なりがあるために、麁妙という。妙の理法はすなわち迹ではなく本でもない。不思議な次元で一である。理教・教行・体用・権実・昔・今もまた同じである。

 

⑧.権実

本門の十妙の解釈における第八は、「権実を明らかにする」である。迹の中の十麁の境を照らすことを権とし、迹の中の十妙の境を照らすことを実とする。そして、中間三世(ちゅうげんさんぜ・本の昔から今に至る過去現在未来の期間を指す)において照らすところの十麁の境を権とし、十妙の境を実とする。もしくは権もしくは実、これらはすべて迹である。迹であるために、権とする。このような中間に、無量さらに無量の不可説、一節一節に権実がある。『法華経』以外の経典には、中間の一つの権すらない。ましてや、一つの実があろうか。なお中間の一つの権実すらない。どうして無量の権実があろうか。なお中間の権実すらない。どうして本地の権実があろうか。中間の権実をみな権とし、本初に十麁・十妙を照らすものをみな実とする。

迹の権、本の実は、共に不思議である。不思議はすなわち法性である。法性の理法は、古いことはなく今でもない。本でもなく迹でもない。権でなく実でない。ただこの法性において、本迹・権実・麁妙を論じるのみである。ただ世俗の文字に過去未来現在があるので、菩提にも過去未来現在あるというのではない。

また次に、権実を分別すれば、すなわち三種ある。自行・化他・自行化他をいう。具体的には境妙の中で説いた通りである。本地の自行をもって成就するところの権実の二智を、仏の自行の権実と名付ける。本から今まで、すなわち釈迦が説法した鹿野苑に至るまで、あらゆる方便は、随他意語である。この二智を説いて、何の妨げなく説法することを、仏の化他の権実二智と名付ける。化他に二種あるといっても、みな権とし、自行に二種あるといっても、みな実とする。これは自行化他に権実を説くことである。

また次に迹の中に実について権を述べれば、その意義は実にある。しかも実の意義は測ることは難しい。なぜなら、『法華経』の「化城喩品」の、人々を休ませるために仮に化作した化城は権であるが、人は実であると思う。これは権を知らないことであり、また実を知らないことである。もし廃権(はいごん・権を退けること)して実を顕わせば、その意義は権にある。権はすなわち測り安い。なぜなら、すでに化城の出来事は仏の施権(せごん・権を与えること)だと知れば、すなわち遍く数えきれないほどの仏法に達し、久遠の劫の方便に通じる。このために『華厳経』の中に、「阿鞞跋致(あびばっち・不退転ともいう。仏道修行を後戻りしない境地)のために、多くの事柄を明らかにする」とあることは、この意義である。もし開権顕実すれば、事象と理法に達し、権の意義は終結する。また権を離れて遠く実を求めるようなことはしない。権はすなわち実であれば、また別の権はない。このために開権顕実するというのである。

迹の中に施権・開権・廃権の三つの意義については以上の通りである。迹は本によって来る。本もまた同じである。本と迹は異なっているといっても、不思議な次元では一である。