大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 159

『法華玄義』現代語訳 159

 

第四項 蓮華について述べる

 

蓮華について述べるにあたって、四つの項目を立てる。一つめは、法譬を定める。二つめは、旧釈を引用する。三つめは、経論を引用する。四つめは、正しく解釈する。

 

第一目 法譬を定める

権実は顕われにくいので、蓮華に喩えて妙法を述べるのである。また『法華経』自体に、七つの大きな喩えがあるように、経題においても喩えを用いるのである。

また、蓮華について解釈して、「蓮華は喩えではなく、そのものである」(注:出典不明)という。たとえば、劫初(こうしょ・すべての始まり)には万物には名はなく、聖人が理法を感じて、その法則に準じて名称を作ったようなものである。また蜘蛛が巣の糸を引くのに習って網を作り、野を転がる蓬(ほう・砂地に生える植物。秋には枯れて野を転がることにより増えていく)を見て車を作り、浮いている筏を見て船を作り、鳥の足跡を見て文字を作るようなものであり、みな理法に則って事象を制定するのである。

今、蓮華の名称は、喩えによるのではない。すなわちこれは『法華』の法門である。『法華』の法門は、清浄であり、因果が微妙であるので、この法門を蓮華と名付ける。すなわちこれは、法華三昧(ほっけざんまい・『法華経』に基づく観心)そのものの名称であり、譬喩ではない。他の経典には多く自ら名称を解釈するが、この『法華経』は解釈する必要はない。あるいはその解釈の文書が中国に渡っていないのみである。そしてこの譬喩か譬喩でないかの二つの解釈にはいずれも道理がある。今、この二つの解釈をまとめることにする。

問う:蓮華は法華三昧の蓮華であるのか。あるいは、植物の蓮華であるのか。

答える:これは法の蓮華である。法の蓮華は理解することが難しいので、植物の蓮華に喩えるのである。能力の高い者は名称をもって理法を理解するので、譬喩を必要としない。ただ法の華の理解をするのみである。能力が中、下の者は、悟ることができないので、喩えを用いて知るのである。理解しやすい蓮華をもって、理解するのが難しい蓮華を喩えるのである。このために、『法華経』では、三周の説法(理法をそのまま説く法説、たとえを説く譬喩説、過去の因縁を説く宿世因縁説の三つ)があって、能力の上、中、下の者に施すのである。能力の上の者に合わせれば、法の名となる。中と下の者に合わせれば、喩えの名となる。上中下を合わせて論じれば、法譬となる。このように理解すれば、誰と争う必要があろうか。今は、しばらく法譬によって解釈する。

 

第二目 旧釈を引用する

僧叡の記した『法華経後序』に「まだ花が開かないものを屈摩羅(くつまら・古代インド語の音写で意味はつぼみ)と名付け、まさに落ちようとしているものを迦摩羅(かまら・青蓮華という意味)と名付け、その中間に盛んに咲いている時を分陀利(ふんだり・白蓮華と訳され、妙法蓮華経の経題に使用されている言葉)と名付ける」とある。慧遠は「分陀利迦(ふんだりか)は蓮華が開いた譬喩である。しかし、見た目は時を追って変わり、名称は色に従って変わる。このために三つの名称がある」と言っている。『涅槃経』には「人の中の蓮華は分陀利華」とある。二つの名称を並べるのは、まさに通称と別称があるためである。ここでは、蓮華は通称、分陀利は別称と理解する。道朗は「鮮やかな白色である。あるいは赤色と翻訳し、あるいは最香とする」と言っている。このようなものはみな開いて最も盛んな時の意義である。分陀利はこれらを兼ねている。

問う:梵語の本は別称を挙げ、中国では通称を用いるのはなぜか。

答える:外国には三つの時の名称がある。中国にはそれはない。ただ通称を挙げることは、自ら別称を兼ねているのである。

その他、蓮華を解釈することに、十六の意義がある。

蓮華が縁(生育条件のこと)によって生じるのは、「仏性」の縁によって起ることを喩えている。蓮華が梵天を生じさせることは、縁によって仏を生じることを喩える。蓮華は必ず泥から生じるのは、『法華経』の理解はこの世の生死から起ることを喩える。蓮華はめでたいものであり、見る者を喜ばすのは、『法華経』を見る者が成仏することを喩える。蓮華は、初めは小さくても大きく成長するのは、『法華経』に記されている通り、仏に対する一礼一念も、それが仏になるきっかけになることを喩える。蓮華が花と実が共にあるのは、『法華経』には因果が共にあることを喩える。蓮華の花には必ず蓮の実があるのは、因が必ず仏となることを喩える。蓮華は、人々が導かれて蓮華世界に入ることを喩える。蓮華は仏の座となるのは、多くの聖者が蓮華によって生まれることを喩える。

以上の十種(注:実際は九種しかない)の譬喩は、ただ『法華経』の教えの行妙を喩える中の一部に過ぎない。

蓮華は泥から生じて、泥に染まらないのは、一乗は三乗の中にあって、三乗は一乗を染めないことを喩える。蓮華は一日の内の三つの時にそれぞれ異なることは、三乗を開けばただ一乗であることを喩える。蓮華が開閉することは、縁に対する目に見える結果と目に見えない結果があることを喩える。蓮華はあらゆる花の中で最も優れているのは、『法華経』が経典の中の第一であることを喩える。蓮華の花が開いて実が顕われるのは、『法華経』の巧みな説法により理法が顕われることを喩える。蓮華は一日の内の三つの時にそれぞれ異なることは、権実の時にかなうことを喩える。

以上の六種の譬喩は、『法華経』の教えの説法妙の中の一部に過ぎない。

光宅寺法雲は次のように言っている。すなわち「他の花は、花と実が共になく、それは他の経典が偏って因果を明らかにしていることを喩える。この蓮華は、花と実が必ず共にある。これは、『法華経』において因果が共に述べられていることを喩える。弟子門(最初から「安楽行品」まで)は因を明らかにして、師門(「従地涌出品」から最後まで)には果を明らかにするために、蓮華をもって喩えとする」。

この解釈は、言葉は簡略であり、意義が偏っている。迹門においては、師も弟子も因果がある。『法華経』の「方便品」に、「私は諸仏のあらゆる道法をすべて行じて、道場で悟りの果をえることができた」とある。すなわちこれは師の因果である。会三帰一はすなわち弟子の因である。授記を得て仏となるのは、すなわち弟子の果である。『法華経』の本門の「如来寿量品」に、「私は昔、菩薩の道を行じる時」とあるのは、すなわち師の因である。「私は仏となってから今まで、非常に長い歳月が経過している」というのは、すなわち師の果である。また「譬喩品」に、「私は昔、舎利弗に初発心を教えた」とあるのは、すなわち弟子の因である。また「従地涌出品」に、「今、みな不退の位に住み、すべて仏となることを得るであろう」とあるのは、すなわち弟子の果である。法雲の義は偏っていて簡略なので、用いない。

ここで譬喩について補助的に述べるならば、ここで述べる蓮の花や実ということは、色・香・味・触の対象となる実際の存在について述べるわけではないが、その実際の存在を用いて花を論じ、実を論じるのである。今述べている実相の理法は、本と迹の因果を超越しているが、本と迹の因果を明らかにすることによって理法を論じるのである。また色・香・味・触の対象は、開合するものではないが、その対象を用いて開合を論じる。実相は権実を超越しているが、開権顕実・発迹顕本を論じることにより、実相を明らかにするだけである。

 

第三目 経論を引用する

『法華論』に十七の名称を連ねている。一に無量義、二に最勝、三に大方等、四に教菩薩法、五に仏所護念、六に諸仏秘蔵、七に一切仏蔵、八に一切仏密字、九に生一切仏、十に一切仏道場、十一に一切仏所転法輪、十二に一切仏堅固舎利、十三に諸仏大巧方便、十四に説一乗、十五に第一義住、十六に妙法蓮華、十七に法門摂無量名字句身頻婆羅阿閦婆等である。妙法蓮華以外の名称は解釈しない。ただその名称を連ねるだけである。

次に蓮華を解釈すれば、二つの意義がある。一つは水から出るという意義である。『法華経』は水に沈まず、小乗の泥の濁りの中から出るからである。またもう一つの意義がある。蓮華が泥水から出るのは、あらゆる声聞が如来の大衆の中に入って坐れば、あらゆる菩薩のように蓮華の上に坐ることに喩える。無上の智慧や清浄の境界を説くことを聞いて、如来の秘密の教えの蔵を証するからである。二つめに、花が開くことは、衆生は大乗の中において、心が弱く信じることができないので、如来の清浄であり妙である法身を開き示し、信心を生じさせるからである。

ここで『法華論』の意義を解釈すれば、もし衆生に清浄であり妙である法身を見せるとすれば、これは妙因開発することをもって蓮華とするのである。もし如来の大衆の中に入って蓮華の上に坐るとすれば、これは妙報国土をもって蓮華とするのである。なぜなら、廬舎那仏は、蓮華蔵海にあって大菩薩たちと共にいて、みな生死の人ではないからである。もし声聞がここに入ることができれば、すなわち、妙報国土をもって蓮華とするのである。その『法華論』を『法華経』の意義と比較すれば、これは行妙・位妙の二つの妙に過ぎない。

『大集経』に「哀れみを茎として、智慧は葉、三昧をしべとし、解脱は開花を意味する。女王蜂のような菩薩は甘い蜜を食べる。私は今、仏の蓮華を礼拝する。また、戒・定・慧・陀羅尼をもって瓔珞とし、菩薩を荘厳する」とある。ここでこの経典を解釈すると、まさにこれは菩薩が戒・定・慧・陀羅尼の四法をとって仮の人を成就することは、蜂が花にいるように、また前の四法をもって自ら助けることは、蜂が花の蜜を食べるようなものである。