大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 161

『法華玄義』現代語訳 161

 

〇蓮華をもって十如是の境を喩える(①~⑩)

①たとえば、硬い蓮の実のようである。黒いことは染めがたいことを意味し、硬ければ壊れにくい。四角でもなく丸くもなく、生まれもせず滅びもせず、劫初には種もないために生じることがなく、今も初めと異ならないために滅びない。これが蓮の種の相と名付ける。すべての衆生の自性の清浄である心もまたこのようである。外からの煩悩に染まることがない。生死が積み重なっても、心性は留まることはなく、動かず、生じることなく、滅びることがない。すなわちこれは仏界の如是相である。『維摩経』に「すべての衆生はすなわち菩提の相である」とあるのは、この意義である。

②たとえば、蓮の種が、黒い皮や泥の中にあっても、その中心の白い肉は変わらないようなものである。すべての衆生の了因の智慧も、またこのようである。五住地惑(三界の見思惑を指す。見一切処住地惑・欲愛住地惑・色愛住地惑・無色愛住地惑・無明住地惑)の泥、生死の果報があっても、一切智の願はなお失われることはない。これは仏界の如是性の相と名付ける。このために「煩悩即菩提」という。また『大智度論』に「諸法は不生であるが、般若は生じる」とあるのは、この意義である。

③たとえば、蓮の種が泥の中にあっても、色・香・味・触の四微(しび・微は妙の意味と同じ。対象を認識することも、妙を認識することという深い洞察から来る言葉。また、人の認識の種類として、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(しょく)の五境(ごきょう)があげられるが、蓮華を認識する場合、声はないとして、この四つを挙げられている)の対象となることには変わりないことを、蓮の種の本体とするようなものである。すべての衆生の正因仏性も、またこれと同じである。常・楽・我・浄が不動不壊であることを、仏界の如是体と名付ける。『涅槃経』に「この薬草の薬の味は真実であって、山に生えている。草木叢林も覆い隠すことはできない」と記されていることは、この意義である。

④たとえば、蓮の種が皮の殻に覆われていて、泥の中にあるとしても、やがて花を咲かせようとする意志があって、成長の気があるようなものである。すべての衆生の心も、またこのようである。苦果に縛られ、執着に沈められているとはいっても、その中で悟りを求める心は大いに勇猛である。獅子の出す乳のようであり、その体の筋のようである。これを仏界の「如是力」と名付ける。ある経典に「もし菩提心を起こせば、無辺の生死を動揺させ、無始の有の輪を破る。閻浮提の人はまだ果を見ることができないが、よく勇猛に発心する」とある。

⑤たとえば、蓮の種は小さいとはいえ、黒い皮の中に、明らかに根、茎、花、葉、しべ、花托(かたく・蓮の種が収まっている蜂の巣のような部位)がすべて収まっているようなものである。これは蓮の種の「如是作」と名付ける。すべての衆生が初めて菩提心を起こすことはこのようなものである。明らかに理解し決心し、慈悲・四弘誓願をもって上に求め下を教化し、誓って成就を取り、志が疲労しない。これを仏界の「如是作」と名付ける。『華首経』に「すべてのあらゆる功徳は、みな初めの菩提心の中にある」とあるのは、この意義である。

⑥たとえば、蓮根は泥の中にあっても、花は虚空にあり、風に揺れ陽に照らされ、昼夜に増長し、栄養も足りる。すべての衆生もまたこのようである。無明の中から菩提心を発し、菩薩の行を修し、生死を離れて法性の中に入る。因としての修行が成就し、太陽のような仏に会って、神通力の風を被り、この心は念々に薩婆若海(さつばにゃかい・一切種智の広大なさまを海に喩えた古代インド語の音写語)に入る。これを仏界の「如是因」と名付ける。ある経典に「無量劫において得る功徳は、五つの茎の蓮華をもって然燈仏に捧げて得た功徳が多いことには及ばない。これは真の因の成就である」とあるのは、この意義である。

⑦たとえば、蓮華がしべに囲まれて、花の中や外に出ているようなものである。これを蓮華の「如是縁」と名付ける。菩薩もまたこのようである。真の因の中において、すべての修行や六波羅蜜を具足する。一つの行はすべての行であり、因を助けることは、しべが花の中にあるようなものである。果を得る時は、あらゆる行が終息することは、しべが花の外にあるようなものである。これを仏界の「如是縁」と名付ける。『法華経』に「諸仏のあらゆる道法を行じる」とあるのは、この意義である。

⑧たとえば、蓮華の花が開いて実を結び、その後、葉も花びらも落ちて、花托が残るようなものである。これを蓮の種の「如是果」と名付ける。菩薩もまたこのようである。真の因の感じるところの無上菩提の大いなる果が円満し、究竟して実を結ぶ。これを仏界の「如是果」と名付ける。このために『法華経』に「仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とあるのは、この意義である。

⑨たとえば、蓮の実が花托に囲まれているようなものである。これを蓮の種の「如是報」と名付ける。菩薩もまた同じである。大いなる果が円満し、無上の報いが満たされる。習果(しゅうか・修行によってもたらされた結果)の果は報果によるということは、実が花托によるようなものである。『法華経』に「このような大果報は、長く修行をして得るところである」とあるのは、この意義である。

⑩たとえば、色・香・味・触の四微の対象となる泥の中の蓮と、同じく四微の対象となる虚空にある蓮と、最初と最後が異ならないようなものである。これを蓮の種の「本末等」と名付ける。すべての衆生もまた同じである。本有(ほんう・永遠の昔(=本)から変わらずあるということ)の常・楽・我・浄の四徳が隠されていることを如来蔵と名付け、修行の結果の四徳が顕われることを法身と名付ける。性徳(=如来蔵)と修徳(=法身)の常・楽・我・浄は、一つであって二つではない。これを仏界の十如の「本末究竟等」と名付ける。『首楞厳経』に「衆生の如と仏の如は一如であって二如ではない」というのは、この意義である。

以上で、蓮華を用いて十如の境を喩えることを終わる。

 

〇蓮華をもって境妙を喩える(①~⑥)

①十二因縁を喩える

蓮の種が黒い皮と泥と水草などで覆われていることは、共通して上に説く通りである。すなわちこれは、十二因縁の最初の無明の種のことである。よく生じる力は行である。中に花やしべが巻かれるようにして備わっていることは識・名色・六処・触・受である。種にすでに潤いがあるのは愛・取・有である。種が丸く閉じているために出ることができないのは、老死である。よく芽が萌え出て黒い皮を切り裂くことは、無明の滅である。また黒い皮の中にあって生じないことは、諸行の滅である。黒い皮の外に出るのは、老死の滅である。これは概略的に蔵教・通教・別教・円教の四種の十二因縁を喩えることである。

四諦を喩える

黒い皮は、欲界・色界・無色界の三界の内の苦諦を喩え、白い肉は三界内の集諦を喩え、泥は三界外の集諦を喩え、水は三界外の苦諦を喩える。道諦と滅諦はわかるであろう。これは共通して四種の四諦を喩えることである。

③二諦を喩える

蓮根や茎や葉などは俗諦を喩え、蓮根や茎や葉などの中は空洞であることは、真諦を喩える。これは共通して蔵教・通教・別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の七種の二諦を喩えることである。

④三諦を喩える

真諦と俗諦は上に述べた通りである。蓮華が四微の対象となることは常・楽・我・浄に対応し、中道第一義諦を喩える。これは共通して別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の三諦を喩えることである。

⑤一実諦を喩える

蓮華が四微の対象となり、無生無滅であることは一実諦を喩える。

⑥無諦を喩える

劫初(こうしょ・すべての始まり)に蓮華の生なく、今に蓮華の滅がないことは、無諦の無説を喩える。

以上、蓮華を用いて境妙を喩えることを終わる。次に残りの九妙を喩える。

 

〇蓮華をもって智妙を喩える

蓮華の内に生性(しょうしょう・生じる本性)があることは智妙を喩え、これから生じる部位が巻かれて備わり、それらに生性があることは空の智妙を喩え、しべや葉の生性は仮の智妙を喩え、四微の対象となる花托の生性は中の智妙を喩える。この三つの生性は、一心三智の妙を喩えるのである。