大乗経典と論書の現代語訳と解説

法華経と法華玄義などの経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 162

『法華玄義』現代語訳 162

 

〇蓮華をもって行妙を喩える

蓮華の種は小さいといっても、その中に根、茎、花、葉が備わっていることは「行妙」を喩える。茎は「慈悲」、葉は「智慧」、しべは「三昧」、花が開くことは「解脱」である。また葉は三つの「慈悲」を喩えるが、まず、水を覆う青葉は、衆生の縁の「慈悲」を喩え、水を覆う黄色い葉は、法の縁の「慈悲」を喩え、丸まった葉は無縁の「慈悲」を喩える。つぼみが出てくれば、間もなく花が開くことである。無縁の「慈悲」が成就すれば、間もなく「授記」を得る。また、根、花、種、葉が、人や蜂に「利益」を与えることは、「檀波羅蜜」である。香気は「尸波羅蜜」である。泥から生まれることを恥じないのは「忍波羅蜜」である。成長することは「精進波羅蜜」である。柔らかく湿気を持つことは「禅定波羅蜜」である。汚れが付かないことは「慧波羅蜜」である。このように「行妙」を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって位妙を喩える

蓮華は「理即」の「位」を喩える。芽が種の皮を破ることは、「麁住」の「位」(欲界における数息観の第一であり、音の出る息や、あえぐ息や、乱れる息を「麁」であると知る段階)であり、芽がその皮を出ることは、「細住」の「位」(欲界における数息観の第二であり、息が「麁」の状態になったことを知れば、すぐに整えて微細にする段階)であり、芽が泥を分かつことは「欲定」の「位」(欲界における数息観の第三であり、息の長短を知る段階)であり、芽が泥に留まることは「未到」の「位」(数息観の第四であり、息が体全体に行き渡ることを知る段階)であり、芽が泥を出て水の中にあるのは「四禅」の「位」(欲界を離れた色界の禅定)である。「禅定」は水のようであり、よく「欲界」の塵を洗う。水にあって成長することは、「無色界」の「位」を喩える。これによって「観行即」の蓮華の「位」を喩える。水を出ることは、「見思惑」を破ることを喩え、「相似即」の蓮華は「十信」の「位」である。虚空にあって花が開こうとすることは、「十住」の「位」を喩える。しべの台が生じることは「十行」の「位」を喩える。太陽に応じて花が開き始めることは、「十廻向」の「位」を喩え、花が開き終えて蝶や蜂が来ることは「十地」の「位」を喩え、しべや葉が落ちてしべの台だけがひとつ残ることは、あらゆる行が休息し、「妙覚」の「位」が円満し、「仏果」が確立され、真実に常であり安定していることを喩える。これはみな「位妙」を喩えることである。

 

〇蓮華をもって三法妙を喩える

蓮華が「色」「香」「味」「触」の「四微」の対象となることは「真性軌」を喩え、種の房の中と茎や蓮根の中が空洞であることは「観照軌」を喩え、花托に囲まれていることは「資成軌」を喩える。これは三法妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって感応妙を喩える

蓮華が開いて虚空にあり、影が清らな水に映ることは、「顕機顕応」を喩え、影が濁った水に映ることは、「冥機冥応」を喩え、影が波風の立った水に映ることは、「亦冥亦顕」を喩える。『涅槃経』に「闇の中の樹の影」とある。夜の影が水に映ることは、「非冥非顕」の「機」と「応」を喩える。これは感応妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって神通妙を喩える

風が蓮華を揺るがし、東に上がり西に倒れ、南に向かい、北の水に映り、下の風には花は閉じ、上の風には開くならば、すなわちこれは大地の震動を表わすことである。これは「地動瑞」の「神通」を喩える。日が暮れて花が閉じることは「入定瑞」の「神通」を喩え、陽が出て花が開くことは「説法瑞」の「神通」を喩える。遠くから見れば赤く、近くから見れば白く、赤い花、青い葉が互いに映り合い、輝きを放つことは「放光瑞」の「神通」を喩える。香気が野に広く渡ることは「栴檀風瑞」の「神通」を喩え、花粉が広がることは「天雨華瑞」の「神通」を喩え、風が吹き雨が降り、蓮に打ち当たることは、「天鼓自然鳴瑞(てんくじねんみょうずい)」の「神通」を喩える。これらはみな「神通妙」を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって説法妙を喩える

花が閉じて開かないのは、「一乗」を隠して分別して「三乗」と説くことを喩える。各葉が正しく開くことは、「会三帰一」して、ただ「一乗」を説くのみのことを喩える。花が落ちて実があることは、教えを絶して理法が深い次元で一致することを喩える。如来は常に説法するわけではなく、さまざまな方法で真理を表わすということを知ることは、「多聞(たもん)」と名付ける。これらは「説法妙」を喩えるのだえる。

 

〇蓮華をもって眷属妙を喩える

片隅の一辺より一つの花が生じ、次々とまた無量の蓮華を生じることは、「業生」の「眷属妙」を喩える。一つの蓮華の房より種を泥の中に落とし、さらに蓮華が生じ、次々にまた無量の蓮華が生じることは、「神通」の「眷属妙」を喩える。掘って蓮根を移し、種を取って他の池に植えると、蓮華が盛んになることは、「願生」の「眷属妙」を喩える。他の池から、かげろうや薄い霧のように飛んで来て、この池に入って蓮華が盛んになることは、「応生」の「眷属妙」を喩える。

 

〇蓮華をもって功徳利益妙を喩える

魚が蓮華の下に集まって呼吸し、蜂や蝶が蓮華の上に集まることは、衆生の「果報」の「清涼」の「妙」なる「利益」を喩える。蓮華を見る者が喜ぶことは「因」の「利益」を喩え、蓮華の葉を取って用いることは、三種の薬草の「利益」を喩え、蓮華の花を取って用いることは、「妙」なる「小樹」の「利益」を喩え、蓮華の種を取って用いることは、「妙」なる「大樹」の「利益」を喩え、蓮根を取って用いることは、「妙」なる「実事」の「利益」を喩える。これらは「功徳利益妙」を喩えるのである。

以上の喩え、および無量の譬喩は、「迹門」の中の「十妙」を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって本門を喩える

たとえば、一つの池に蓮華が最初に熟し、熟し終わって種が泥水の中に落ちて、また生長し、さらに成熟し、このように何度も成熟を繰り返し、歳月が流れて、ついに大きい池に遍く田のように蓮華が敷きつめられるようなものである。仏もまたこのようである。「本初」に「因」を修し、「果」を証することはすでに終わっている。衆生のために、さらに「方便」を起こし、生死の中にあって、初めての発心を示し、また究竟を示す。このように数々の生滅を繰り返すことは、無数百千である。「本地」から「応」を垂れ、下に対して凡俗に同化して、さらに次の「五行(①~⑤)」を修す。蓮華が更に茎と葉を生じさせることは、①「聖行」を修することを喩える。「色・声・香・味」の対象としての蓮の種が少しずつ成長することは、②「天行」を修することを喩える。丸まった葉が初めて生じることは、③「梵行」を修することを喩える。蓮の種が泥に落ちることは、諸悪に同化して④「病行」を修することを喩える。蓮華の芽の初めて萌え出ることは、「小善」に同化して⑤「嬰児行」を修することを喩える。このように、「三世」に衆生に「利益」を与えることは計り知れない。「法界」に遍満して、「分身」、「垂迹」、「開迹」、「廃迹」などの「利益」でないことはない。

もし蓮華でなければ、何によって遍くこのようなあらゆる事柄を喩えることができようか。「法」についての喩えを並べて表現するために、「妙法蓮華」と称するのである。

 

(注:以上、蓮華の譬喩について見てきたが、全体を通して、かなりの当てこすりと思わざるを得ない内容である。しかしそれはともかく、そのような論述を通して、「迹門」と「本門」の「十妙」の論述パターンが再び繰り返されているところが興味深い)。